県内各地サンマイ写真(火葬場・土葬地)【福井県の葬送Ⅳ】

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※ステルスマーケティング防止のため

県内各地サンマイ写真(火葬場・土葬地)【福井県の葬送Ⅳ】

この記事では福井県内の墓地や火葬場・土葬地などの現地写真を掲載し、また今はなくなってしまったサンマイの場所もグーグルマップを元に載せていきます。

【※注意】
今回の記事には、がっつりと火葬場や火葬炉、土葬地、墓地などの写真が出てきます。
心霊・ホラー・オカルト要素は皆無ですが、苦手な方はブラウザバック推奨です。

ちなみにこの記事を書いている私もホラーは大の苦手なのでご安心ください。

※新しいサンマイを撮影次第追加随時更新していきます。

今回は【福井県の葬送シリーズ】第四回目最後です。

一回目
葬礼(儀式や道具)・墓制・火葬土葬用語集【福井県の葬送Ⅰ】
https://kofukuroman.com/sousou1-yougo/

二回目
越前若狭の葬礼儀式(伝承~野辺送りなど)【福井県の葬送Ⅱ】
https://kofukuroman.com/sousou2-sourei/

三回目
墓制と県内の火葬土葬方法とその違い【福井県の葬送Ⅲ】
https://kofukuroman.com/sousou3-kasoudosou/

福井県内の火葬場稼働箇所

直近数年間の火葬場稼働箇所。(情報:福井県健康福祉部医薬食品・衛生課)

順不同

  • 池田町葬祭場(池田町)
  • 高浜斎苑(高浜町)
  • 美浜斎苑(美浜町)
  • 今庄斎場(南越前町)
  • 鯖江葬祭場(鯖江市)
  • 越前市斎場(越前市)
  • 大野市営葬祭場(大野市)
  • 代官山斎苑(坂井市三国)
  • 赤坂聖苑(坂井市丸岡)
  • 福井市聖苑(福井市)
  • 若狭霊場(小浜市)
  • 三方斎場(若狭町)
  • 勝山和みの杜(勝山市)
  • 敦賀斎苑(敦賀市)

以上14ヶ所。

※おおい町、永平寺町、越前町は現役火葬場なし。
おおい町は若狭霊場、高浜斎苑を使用。(参考:書籍『ノヤキの伝承と変遷』)
永平寺町は福井市、勝山市、坂井市の火葬場を使用。(情報:永平寺町住民税務課)
越前町(朝日町、宮崎村、織田町、越前町)は鯖江葬斎場を使用。(参考:『鯖江市史』『鯖江今昔』)

なお、市町村内に公営火葬場があっても、町外の公営火葬場を使用する場合もある。
(例:南条郡南越前町西大道は今庄斎場ではなく、越前市斎場を使う。)

福井県火葬場数

最新(令和3年)の火葬場数・墓地数・納骨堂数

火葬場墓地納骨堂
福井市339689124
敦賀市251535
小浜市11445
大野市77112
勝山市74744
鯖江市1212
あわら市51781
越前市1022272
坂井市12116715
吉田郡448614
今立郡211
南条郡199
丹生郡7
三方郡127
大飯郡3181
三方上中郡231042
合計8652,170171

令和元年、2年の合計数

火葬場墓地納骨堂
令和元年1882,16247
令和2年8652,166170

※令和元年度の墓地、火葬場、納骨堂について福井市(中核市)、美浜町、高浜町(県所管分)の施設数のみ記載のため少ない。

火葬場数の統計変動について

県内各市町村の『福井県統計年鑑』に登録されている火葬場数は以下のサイトから見ることができる。小規模火葬場も併せて統計されている。

エクセルダウンロードか、デジタルアーカイブでの確認になる。

福井県統計年鑑(この中の「23 保健・衛生」)
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/toukei-jouhou/nenkan.html

昭和~平成はこちらから(福井県統計年鑑(福井県統計書))
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/toukei-jouhou/toukeinenkan.html

※補足
火葬場数を見ていただくとわかりますが、各市町村火葬場数について、年が古い方が少なくて、近い方が多いという項目がいくつかある

例↓

平成23年平成26年平成28年令和4年
敦賀1件28件25件25件
越前市82件102件102件102件
三方上中郡17件16件23件23件

普通であれば小規模火葬場の数は減っていて、増えることはないはず。

これについて県に問い合わせたところ以下の内容の回答が得られた。

  • 統計調査課が県ホームページで公開している福井県統計年鑑のうち、火葬場のデータについては、例年、国へ報告している衛生行政報告例のデータを元に作成している。
  • 平成24年度以降、墓地埋葬法に基づく火葬場の許可事務は市町(一部の町を除く)に事務移譲されており、衛生行政報告例の国への報告の際は、各市町からの報告に基づき資料を作成している。
  • データを確認したところ、平成24年度(H25.3.31現在)から平成25年度(H26.3.31現在)にかけて、一部の市町で、前年度から火葬場数が増えていることを確認。
  • 関係市町に改めて確認したところ、県からの事務移譲後に調査等を行い、台帳を整理し統計データとして追加したとお聞きしています。

結論、平成24年以降から統計調査の管轄が県から市町へ移譲したためにより細かく調査統計され火葬場数が増えたところがあるということだった。

 

以下、火葬場土葬地写真。

火葬場

市町村コード順

福井市

中新田町

中新田町火葬場

福井県の一大ショッピングモールエルパの目と鼻の先にある葬送空間。多くの人が集まるショッピングモールと火葬場と墓地が一体となったサンマイは、まるで生死の対比のようにも見える。
火葬場の形状は福井坂井平野によくある陸屋根箱型の火葬場。コンクリートブロック。煙突あり。扉はステンレスか。入口は北向き。

大和田町

大和田火葬場
大和田火葬場
大和田火葬場

近年になって新しく改装されたのか、または皮を増設したのか。火葬炉を囲んでいると思われる木の壁が新しく見える。形状も福井坂井平野ではあまり見かけないような形状で、新し目に見える。扉もステンレスで新しいか。昔は菩提樹があった。
形状は瓦の切妻屋根に木の壁、ステンレスと思われる扉。煙突は後ろに下から出ている。入口は北向き。

ちなみに、堂島町の火葬場とは150mほどしか離れていなく、一つのフレームに2つの形状の違う火葬場がおさまる。向こうにはエルパが見える。

堂島町

堂島町火葬場

目新しい大和田町の火葬場から150mほど離れたところに、古めかしいコンクリートブロックの火葬場がある。煙突にも若干のデザイン性が見える。平野部でよく見かける形の火葬場である。
形状は陸屋根のコンクリートブロック。煙突あり。入口は南向き。

荒木別所町

荒木別所町火葬場
荒木別所町火葬場
荒木別所町火葬場

高速道路の際にサンマイがあり火葬場がある。

不思議なことに火葬場正面には火葬炉への入口とその横にもう一つ扉がある。そちらの方はどうも外から見えるようだったのでのぞいて撮らせていただいた。椅子と机、箒などが置いてある。物置なのだろうか。しかし私が思うに物置という側面以外にも、オンボウの待機所だったのではないかとも思う。そうでもないと物置に窓を付けるのはおかしい。オンボウ(火葬の世話係)がここで休憩や食事などをしていたのではないだろうか。よく見ると、外面はコンクリートに対し、中はコンクリートブロックだ。後で付け加えた空間なのだろうか。
形状は陸屋根コンクリート。煙突あり。煙突は比較的長め。扉は鉄。入口は北向き。

東郷中島町

東郷中島町火葬場
東郷中島町火葬場
東郷中島町火葬場

煙突の形状が少し趣のある火葬場。少し新しめなのは整備されたからか。壁はコンクリートブロックだが、コンクリートブロックは基本陸屋根が多い。しかしここは切妻屋根である。よく見ると基礎はコンクリートブロックだが屋根付近はコンクリートである。扉も近代のサッシ付の扉になっている。側面の窓は曇りガラスになっており中は見えない。煙突の基礎がレンガなのはなかなか面白い。耐熱性を考えたのか。
形状は切妻屋根に基本コンクリートブロック、一部コンクリート。煙突あり。入口は北向き。

美山宇坂大谷町1

宇坂大谷町火葬場
宇坂大谷町火葬場

美山宇坂大谷町の谷にある火葬場①。集落の一番奥にある。美山宇坂大谷町の火葬場は3つある。そのうちの一番上の火葬場。また、この辺りでは一番標高が高い位置にある。集落からもそれなりに離れている。山の斜面にあるというような感じで、火葬場が背後の墓地の高台に埋まっているというような位置関係である。
火葬場はコンクリートブロック製。扉はない。炉が丸見えの状態である。寝棺。火葬炉も頑丈なコンクリート製。排気用の煙突へ繋がる部分はレンガを建てに積んだような装飾になっている。煙突は中の方から上へ繋がっているようだ。火葬炉の収骨部分はなぜか二つ穴がある。一つは火の調整の穴か。炉はかなり高い。段になっているのは棺を置くために登るのか。蓋が開いている。かなりオープンな火葬場である。蝙蝠の糞が落ちているので寝床になっているのかもしれない。入口は西向き。

美山宇坂大谷町2

宇坂大谷町火葬場

美山宇坂大谷町の谷にある火葬場②。同じ大字だがここは下の方の村で、一番下にある火葬場である。それでもまだまだ標高は高い。火葬場からは谷を眺望できる。

宇坂大谷町火葬場
宇坂大谷町火葬場
宇坂大谷町火葬場
宇坂大谷町火葬場

こちらはコンクリートブロック製。同じ集落の火葬場だが若干の形の違いがある。煙突の排気部分が違うのだ。先ほどの一番奥の煙突は室内から直接上に延びていたが、ここのものは火葬炉から横に排気口があり、火葬場の後ろから煙突が伸びているのだ。ちなみに先ほどの火葬場は後ろが土に埋まっていたのでこの形にはできない。また煙突は鉄製である。相変わらず扉はない。蓋も開いている。収骨の穴にも蓋がついている。なにやら凝った装飾がされている鋳物のようだ。壁には野辺送りで使う用の棺を置く輿が良好な状態で保存されていた。まるで今も使っているかのような状態だ。火葬炉はてっきりコンクリート一色かと思っていたが、内部をみるに中はレンガのようである。レンガの方が耐熱性に優れているため当然といえば当然か。ここも蝙蝠の糞があった。入口は東向き。

集落のご老人に話を聞くと平成まで使っていたという。はっきりとは覚えていないようだったが、10~20年前まで使っていたらしい。今は福井市の火葬場を使う。その方曰く、「町の火葬場は金はかかるが楽だ。この火葬場は大変。」ということだった。民俗視点や風習の視点からは勝手に残ってほしい集落の火葬だと思っていたが、高齢化が進む集落で公営火葬場に任せるというのは、ある意味合理的な方法なのだろう。

美山小和清水町

小和清水町火葬場

JR越美北線の小和清水駅からほど近く、足羽川沿いにサンマイがある。

小和清水町火葬場
小和清水町火葬場
小和清水町火葬場
小和清水町火葬場

かなり大きな火葬場。コンクリートブロック製。煙突もコンクリート製。入口は西向き。後ろから出ている。寝棺。建物内はかなりスペースがある。炉の造りは宇坂大谷町の火葬場とほぼ同じで、収骨部分の蓋の鋳物装飾も同じである。そして相変わらず扉は無く蓋も開いている。火葬場の向かって左にあるものがかつて使っていた残骨入れと花などの焼却炉である。火葬場内がちょうどよい物置になっているのか、花を入れる段ボールが置かれている。

ここでちょうど墓参りをしに来た地元のご老人3人に話を聞くことができた。3人とも非常に快くお話をしてくださった。

この火葬場が最後に使われた年は、その方々の知る限りでは平成22年。話を聞いた方一人の旦那さんの火葬した年。
昔は木造の火葬場だったといい、今ある位置ではなく、墓のある場所辺りにあったという。さらにその前は山の上にあったという。
火葬場横の壁にあるのは昔野辺送りで使っていた輿で、輿に棺を載せ、棺に一番近い進行方向に次男、棺の後ろに長男という配置だった。(これについては「越前若狭の葬礼儀式(伝承~野辺送りなど)【福井県の葬送Ⅱ】 野辺送り」で紹介した。)輿が使わないのにまだあるのは皆処分するのが嫌なのだろう、とおっしゃっていた。
火葬場前に重ねてある長椅子は、火葬場前での葬儀の際に、火葬場前に並べて使った。火葬は相続人が火を付けて始まり、その人は帰る。他親族が火の番をする。長椅子はその火の番の人が休むためにも使われていた。


自分がここで焼かれるのはいやだ。といっていた。
ここでの火葬は大変だし迷惑がかかる。それに今は誰もこの火葬場の使い方など分からないだろう。ということだった。

火葬場が福井市に移行した境はいつなのだろうか。美山町が福井市に合併されたのは2006年(平成18年)である。村の人の記憶では最後の火葬は平成22年。合併されてから4年後に移行していた。合併してからはしばらくは集落火葬場を使っていたということである。

さて、お話を聞いた方々は火葬場を忌み嫌っているというような感じは全くなかった。写真にもある通り、花置きにも使っており、普通に中に入って花を置いていた。こちらが質問しても嫌な顔一つせず答えてくれた。暮らしの中にある当たり前の存在なのかもしれない。

使われなくなり、いずれ壊される時が来るであろう火葬場。しかしその方たちにとってはつい最近まで使っていた場所。そんな場所と話を記録に残せることは非常に意味のあることだと、ここで改めて感じることができた。

布施田斎場

現在は解体された。この辺りではかなり大きな火葬場だったようだ。やたらと細くて長い煙突があった。入口は北東向き。

敦賀

湯山火葬場跡

湯山の火葬場が出来たのは、明治30年ころである『若狭の民俗』
湯山火葬場は昭和18年12月に完成『敦賀市勢要覧資料編』

湯山墓地が開かれたのが明治33年であるため、おそらくこれは一代目と二代目なのだろう。

明治33年の造営に当たっては、『敦賀市史 通史編 下巻』によると、
「明治32年に伝染病院を天筒山麓に建設し、それと同時期に従来の土葬文化だったものを改善して、共同埋火葬場を建設し、近代的な衛生・防疫体制を確立した。」

また、『敦賀市議会史 第1巻』によると、「近代化に乗じて、敦賀の港に国内外が注目し始め人の往来が激しくなる一方、それに合わせて伝染病の感染も激しくなったため、火葬場新設を急いだ」ともしており、敦賀町内での土葬の禁止も提案されるほどだったという。この時は寝棺と座棺が使用可能で、寝棺の方が高かったようだ。

としている。

『福井県市町村勢要覧 昭和36年』には、
市町村営火葬場 1 6基

と書かれているため、昭和の二代目火葬場は6基の火葬炉を有する施設だったようである。

『敦賀市議会史 第1巻』によると、昭和17年に近代神火葬場設営が可決されたが予算が合わずに翌年まで引きずったそうである。

来迎寺野

来迎寺野

敦賀市松島地区にある野墓。現在は茂みの中に墓が点在する古来の墓地。
寛文十二年(1671)まではここは火葬場だったともされる。しかし明治初期には土葬も行われた。所々墓石が傾いているのは土葬の墓地と思われる。火葬場はない。火葬場が湯山に移った後も埋葬の地として葬送の地の歴史が続いた。

ここは刑場でもある。処刑後にここに葬られもした。

詳しくは個別記事で。

和久野(東和久野)

和久野火葬場

敦賀平野の敦賀市街地から少し外れたところにある田園。その中の黒河川沿いにちょっとした茂みがある。ここが火葬場跡という。今は墓地になっている。火葬場は現存しない。地元に人によると明治時代に湯山火葬場が出来るまでここで火葬していたという。

詳しくは個別記事で見ている。

沓見

沓見サンマイ火葬場跡

かつては土葬だったが、火葬に移行した。写真の広場に大きな火葬場があったという。
いつまで土葬でいつまで火葬場があったか、詳しくはわからないが、沓見の50、60代くらいの方に話を聞くと、その方の旦那さんの親は土葬したということ。昭和40年代には火葬場は無くなったということの2つがわかった。
また、ここのソウレンバ(葬礼場)も特徴的で葬送文化の色をかもし出しているので見所である。

詳しくは個別記事で見ていく。

小浜市

若狭霊場(現役公営火葬場)

若狭霊場

福井県としては珍しい大型煙突を備えた火葬場。昭和52年(1977)に設置された。小浜市・おおい町の火葬を担っている。料金表も公開されているが、郷土史の物は昭和の料金表なのでここでは省かせていただく。小浜市民が一番安く、次いで大飯町民、大飯町以外の市外民の順に料金が高くなっていく。12歳以上、3歳以上12歳未満、3歳未満、死産児、胎盤等によっても料金が変わる。1号炉から3号炉の火葬炉があり、左に納骨堂、正面に駐車場。待合室は無し。納骨堂には収骨後に遺骨を納める。その遺骨は年に2回入札で決まった業者が回収。火葬炉は重油を用いる台車式。通常600度で80~90分で火葬、冷却をあわせると120分で完了。1日に最大6体火葬可能。

【火葬の流れの事例】
霊柩車到着→葬儀社親類親戚が棺を運び台車に載せる→手前に簡素な焼香台・お膳・お花を並べる→僧侶が読経し参列者は焼香→焼香が終わり火葬場職員が棺を炉に納める→子供や死者と関係の深いものが誘導に従い火葬炉裏から点火(点火はチラシを丸めた筒に火を付け喪主から順番にガスを出した炉内に入れる)→職員から火葬時間の案内→2,3時間ほどで火葬場へ戻り収骨。
遺骨は職員によって人型に整えられていることが多い。収骨は死者との関係の深い数名が竹と木の箸で順に渡しを行い骨壺に入れる。拾わなかった骨とお膳は職員が納骨堂に入れる。
参考:『ノヤキの伝承と変遷』

他写真が何点か『ノヤキの伝承と変遷』の本に載っている。その中に火葬場裏に積まれた膳の陶器が廃棄されている写真もある。

作業員の方がいたのであまり写真は取れなかったが、この形の火葬場は貴重なのでぜひとも詳しく見ておきたい。というわけで詳しく見ている方がいらっしゃるのでこちらを参考にしていただきたい。
※ユーチューブの動画。

『さいば萌 小浜市若狭霊場』(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=Y8JAl1clVng

大野市

大野市営葬斎場

大野市営葬斎場

牛ケ原にある大野市営葬斎場。まるで寺院のようなたたずまいである。火葬場は本堂のような形の建物の後ろにあるようである。左の建物は木造でいかにも昔ながらの様子がうかがえる。郷土史を見てもこの創立が分からなかった。ただしかつて明治時代には大野市街の火葬場は下庄中荒井12字小林にあったらしい。開発でもとの地形は消えているが、大野ケーブルテレビの裏辺りではないかと思われる。

蕨生

蕨生火葬場
蕨生火葬場
蕨生火葬場

道の駅越前おおの荒島の郷に隣接するサンマイにある火葬場。昔は田園の中に独立していた。よくサンマイを取り込まんばかりに道の駅を作ったものだと思う。仕切りがしてあるので道の駅に来た人には見えないし、おそらく知られることもない。火葬場裏には穴が開いている。排気穴だろうか。今の火葬場のように火の調整をする穴だろうか。扉の下にも穴がある。収骨穴か。
形状は陸屋根、コンクリートブロック。煙突無し(後ろの穴か?)。扉は鉄。入口は北向き。

中丁

中丁火葬場

中丁の真乗寺敷地内裏山の林にある。コンクリートブロック製。入口は北向き。火葬炉は一つ段違いの後ろの炉にあるようだ。煙突はレンガから鉄が伸びている形。大野の一般的な火葬場の形である。
最初真乗寺内にある建物が火葬場かとも思ったが、ブドウの何かの建物だった。

猪島

猪島火葬場

広大な大野盆地と残雪の越前甲を背景に、田園にぽつんと火葬場が立っている。大野の火葬場は風景に映えるので何枚も撮ってしまう。

猪島火葬場
猪島火葬場
猪島火葬場

これまた寺院的な様相。唐破風屋根にちゃんと装飾まで付いている。コンクリートブロック製にコンクリートの煙突。一段後ろに下がった火葬炉。入口は東向き。望遠で撮ったが、どうやら火葬炉の扉が開いていたようで、火葬炉がどのような形状なのか確認できた。どうやら、横から押し入れるタイプの火葬炉のようで、四角型に上の辺だけ丸みを帯びてスペースを取ったような形らしい。これは【福井県の葬送シリーズⅡ】[棺について]でみた、真名川流域の棺の特徴である「二つ屋根切妻造」の棺が入るようにするためか。

猪島火葬場

後で気づいたが、意図せず大野城をバックに撮っていた。越前甲にしても、なかなか映える火葬場である。

森政領家

森政領家火葬場

真名川流域。工業地域となっており、工場やリサイクルセンターが軒を連ねるところに火葬場がある。

森政領家火葬場
森政領家火葬場
森政領家火葬場

火葬場の形状は先ほどなどと変わらずコンクリートブロックに唐破風屋根、一段下がって火葬炉の形状だ。入口は南西向き。かつてはこの火葬場に引っ付くようにして木が立っており、まさに菩提樹の役割を果たしていたのだろう。向こうに見える墓地には自然石の墓石もあった。大野では土葬も一部あったということで、自然石を見ると土葬墓なのでは?と勘ぐってしまう。菩提樹と自然石の墓石はストリートビューで見ることができる。火葬炉の後ろ部分の壁面に赤っぽい塗装の跡のようなものが見える。昔は赤か茶色に塗装されたものだったのかもしれない。

井ノ口

井ノ口火葬場
井ノ口火葬場
井ノ口火葬場

井ノ口の部落外れにあるサンマイ。他の大野市の火葬場とは少し形状が違う。
コンクリートブロック製だが白色に塗装され、扉ステンレスのがついており炉の扉は見えない。屋根は唐破風ではなく陸屋根。一段下がった火葬炉は同じだが、煙突がやたら大きい。煙突の下部分には穴があり、火の調整でもしたのだろうか。大野の火葬炉の収骨は前部分のはずだが、これだけ形状が違うと収骨穴の可能性もなくはないか。なかなか存在感のある火葬場である。入口は西向き。

勝原

勝原火葬場

集落から離れた田園に墓地と共に火葬場があるサンマイ。コンクリートの大きな煙突を備えている。切妻屋根。コンクリートブロック製。屋根部分はトタン。入口は南西向き。サンマイには菩提樹もある。

新河原火葬場跡

新河原火葬場跡

火葬場はないが、火葬場があったことを伝えている場所がある。地蔵菩薩の石仏に一期一会と書かれており、その下に碑文がある。それによると、明治から昭和まで森目新河原の火葬場だったといい、市営火葬場が出来て利用がなくなり撤去したという。其の時に供養のために地蔵尊を建てたのだそうだ。その年月日が「昭和五十八年八月」となっている。

これを見るまで何か史跡の跡かとも思った。何も知らずにはいると火葬場跡だった、なんてこともあるかもしれない。

六呂師

六呂師火葬場跡

火葬場は既になくなっていた。あの大岩の上がサンマイで、一番上に火葬場があったのだ。ここの火葬場はぜひ見ておきたかったので非常に残念だった。集落の方に話を聞いた。

2022年の秋に火葬場を取り壊した。最後に使ったのは40年ほど前だった。平成に入っては使っていない。

とのことだった。取材が2023年6月だったので、やはり火葬場はあるうちに見に行く物だと改めて実感した。グーグルストリートビューにはその様子がうかがえる。

標高の高い六呂師に、経ヶ岳の山体崩壊によって生まれた大岩の上に作られたサンマイ。天空の城がある大野にふさわしい、天空の火葬場ともいうべきものだったのだろう。

大野市営葬斎場(和泉村)

現在はない。市営火葬場だったようだが、ここ最近は使われていなかったようだ。
ちなみに、私がまだ火葬場にはまる前、2019年にこの地に迷い込んだことがある。その時は火葬場に迷い込んだ恐怖で速攻で引き返したが、今思えばもったいないことをした。なので、少なくとも2019年までは現存していた。

勝山市

平泉寺火葬場

かつては大きな火葬場があった。
大正五年二月十六日に火葬場新設の許可が下り新設。構造は西洋式、外観は濱住石を使用し、焼却炉は鉄製車輪付きの軌条によって出入りされる。平泉寺墓地という古くからの遺跡に存在していた。

下記の動画にて現存していた時代を紹介されている。

『さいば萌 【白山神社】平泉寺區火葬場』(YouTube)
https://youtu.be/1Kni8gyRcVI

北郷町坂東島

現在はない。天女の壁画があったという。福井県の火葬場での壁画とはあまり聞かない。ぜひとも見てみたかった。

下記の動画で現存時代を紹介されている。

『さいば萌 【散華Ver】勝山市の火葬場【福井県#8】』(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=Kh3WBDasUl4

鯖江市

鯖江葬斎場

昭和四十四年四月三十日完成。
鯖江市、今立町、朝日町、宮崎村の組合で総工費6900万円で昭和四十三年十月に着工。
鯖江、今立、丹生葬祭施設組合という。祭壇の飾りつけ、霊柩車輸送、火葬までを行う。祭壇は四組。一級二級に分けられる。霊柩車はジープ、ライトバンの二車種。
火葬場は無煙無臭、最新式の重油バーナー式。約五十分で火葬して収骨できる。
(『鯖江市史』内の昭和四十四年 広報さばえ より)

というわけで、現在は多少は変わっていそうである。

火葬場を持たない朝日、宮崎の越前町内の火葬も担っていることが書かれている。
『鯖江今昔』には

当組合へは、その後織田町、越前町が加わり、対象地域は六つの市町村となっている。
引用:『鯖江今昔』

と書かれており、織田と海岸側の越前町も鯖江の火葬場を使っていることが分かる。

越前市(武生)

武生市斎場

武生の火葬場は『いづみ : 福井県武生市泉町誌』によると、元々北府にあったという(1917年12月25日に完成)。

斎場と墓地公園
 北府にある火葬場が老朽化して使用に耐えず、近代的な斎場を望む市民の声は大きかったが、どの都市でも起こるように、位置の選定に地元の了解が得られず、時日をかけて遂に春日野町に決定した。ここは斎場にふさわしい場所で、工費一億二千万円で昭和四十六年三月に着工、四十七年六月から供用を開始した。火葬炉三基、燃料は灯油を使い再燃焼炉を設置して、火葬時間の短縮をはかり、煤煙、臭気などの防止をはかっている。この斎場は南条町、河野村も使用している。
 なお墓地として、斎場に隣接する白崎町の山林約五万八千平方メートルを開き、工費四億円で三千基分の墓地を造成し、四十九年から貸与を始めた。これは武生市霊園(鴨谷霊園)と称している。(中略)なお周辺には五十一年からいこいの森として鳥類の鳴き声を聞きながら、ハイキングを楽しむことができる施設が完成した。
引用:『武生市史 概説篇』

『武生市史 概説篇』には創立当時の武生市営斎場の写真が掲載されている。これをみると長い煙突があったようだ。現在ではこの煙突は無くなっている。しかし外観があまり変わらないので、火葬炉だけを更新したのだろうか。

坂井市

春江町江留中

春江町江留中火葬場
春江町江留中火葬場

福井空港近くの田園の中にある火葬場。近くは住宅地が開発されて行っている。こちらも墓地と火葬場が合わさるサンマイ。
火葬場の形状は唐破風の屋根。コンクリート。煙突あり。入口は北向き。

春江町高江

春江町高江火葬場

田園の火葬場。菩提樹が残る昔ながらの風景。墓地の整備はされている。昔は菩提樹はサンマイに必ずと言っていいほどあり当たり前の風景だったが今のサンマイにはほとんどなくなってしまった。
形状は唐破風の屋根。煙突無し。コンクリート。入口は北向き。

春江町安沢

春江町安沢火葬場

高江の北隣接地区。工場に隣接してサンマイがある。
形状は高江と同じく唐破風、煙突無し、コンクリート。入口は北向き。

ちなみに『春江町史』によると、「一字墓地・八字尺保の三畝二十一歩・十三字屋敷・十四字堂之城・八尾八兵衛専属の埋葬地・空三昧」五三昧があるという。

春江町田端

春江町田端火葬場

安沢の東隣接地区。奥に先ほどの安沢の火葬場が見える。一つのフレームに火葬場が二つ写る場所。(サイト掲載の画質の問題で見えにくいが、実際撮影するとわかる。)こちらは隣接ながらも形状が違う。
形状は陸屋根箱型。煙突あり。コンクリートブロック。入口は北向き。

春江町姫王

春江町姫王火葬場
春江町姫王火葬場

霊園として整備されている。墓地併設の集落火葬場でありながら、デザイン性に凝った比較的大きな火葬場。これでも使用していないというのだから驚きである。
形状は独自のデザイン。煉瓦とコンクリートなどで形成。煙突あり。扉はスライドドアか?入口は北向き。

坂井町木部新保

坂井町木部新保
坂井町木部新保

田園に火葬場だけが立っている。平野部では墓地と火葬場が併設されているサンマイがほとんどだが、ここは珍しく火葬場が単体で存在している。ちなみに写真では見ずらいが、火葬場扉正面に石仏が立っている。
形状は唐破風の屋根、コンクリート。煙突あり。入口北向き。

永平寺町

志比

志比火葬場
志比火葬場

曹洞宗大本山永平寺に一番近い火葬場。墓地の一番奥にある。間近に来ると煙突は見えないが、離れた場所から見ると煙突を確認できる。建物前には「極楽橋」と書かれた橋が架かっており、あからさまに彼岸と此岸のような感じで分けられている。橋を渡ると左手に石仏が置かれている。建物は前がトタン、後ろが木造になっており、前のトタンの建物は後で付け加えられた感がある。窓は曇りガラスで中を見ることはできない。入口は南向き。

曹洞宗のお膝元なのに火葬なのかと思われるかもしれないが、『福井県史15 民俗』にはこう書かれている。

永平寺町志比は永平寺の直檀であるため、昭和二十七年まで土葬を続け 云々
引用:『福井県史15 民俗』

なのでこの火葬場は昭和二十七年以降の物であるということだ。後ろの木造の火葬場がその年代かも知れない。

下浄法寺

下浄法寺火葬場
下浄法寺火葬場
下浄法寺火葬場
下浄法寺火葬場

珍しい形状と色の火葬場。扉がなく丸見え。永平寺町にはこれよりも丸見えな火葬場があるが、隠してそうで隠していないこの微妙な感じ。ただし県道側は一応目隠しはしてある。黄土色に塗装されているのも興味深い。中身は一段下がったところに収骨空間がある。
陸屋根のコンクリート。扉無し。煙突あり。入口は北向きになるか(目隠しが南側)。寝棺用。

 

ちなみに浄法寺村内の火葬場について『浄法寺村誌』記述がある。

五箇区共夫々火葬場は現在より異なった位置にあったが、明治三十年三月三十一日福井県令第二十五号墓地及び埋葬取締細則が公布せられたから、各区に於いて夫々適当なる土地を選び、村会の決議を経て知事に認可を申請し、夫々左(※)の如く認可せられ以降現在に及んでいる。
引用:『浄法寺村誌』

(※)この記事内では下記表に書く

所在地認可年月
浄法寺第二十三字西開田第二十九番ノ内明治三十一年十一月七日
岩野第三字東村前二十五番明治三十三年七月二十六日
下浄法寺十三字村下割四番地ノ一明治三十四年九月十七日
栃原第二十三字四十五番地明治三十二年一月九日
吉波第二十三字平山十三番ノ五明治三十二年八月五日

ただし、『浄法寺村誌』は1941年発刊なので情報が古い。今の建物は当時の物とは違う可能性もある。

当区下浄法寺や他の浄法寺村内の火葬場に関しては、以下の動画が取り上げている。

『さいば萌 【サンマイ】福井県の火葬場群シリーズ〈永平寺町浄法寺地区〉』(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=LOJNBGTAi4Y&t=0s

鳴鹿山鹿

鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場
鳴鹿山鹿火葬場

鳴鹿山鹿の山際にサンマイがある。永平寺町にはこのようなほぼ野焼きに近いむき出しの火葬場が多く存在する。ここもその一つ。山の麓で少し高台にあるので景色も良い。こうして炉がむき出しになっていると観察する部分が多い。
収骨用の穴を少しのぞいてみると白い破片が多く落ちていた。おそらく骨だろう。天井は黒ずんだトタンが張ってある。火葬の煤がたまっているのか。炉の蓋の上には鉄の棒が2つ置いてある。よく見るとこの棒2つは形状が違う。片方はL字の板の部分が広いので収骨の際に使うものと推測。もう片方は遺体の湖底に使うのか、燃料の調整に使うのか、細かい収骨につかうのか。不明。
形状はコンクリートの火葬炉、瓦の切妻屋根で支柱は木。供物台があるが、若干ずれている。おそらく寝棺。正面は北向き。

南越前町

西大道

西大道火葬場

南条駅近くの西大道にある旧火葬場。
南越前町の火葬場は年々減ってきており貴重な現存する火葬場である。今はないが以前は煙突があった。2014年のグーグルストリートビューで煙突を確認できる。つまり煙突を取り除いてもまだ現存しているということだ。それだけ保存するという地区の意向があるのだろうか。近くで畑をしている2人の方に話を聞くと、2,30年前まで使用していたという。今はもっぱら武生の火葬場を使っているという。南条地区は武生の火葬場を使う。
形状は、コンクリートブロック。切妻屋根。煙突はかつて有り。入口は北向き。

西大道火葬場
西大道火葬場

本当に田んぼの中にある。

三昧
 死者は宗派によって埋葬したり、火葬したりするが、浄土真宗が多いので火葬が多かった。どの集落にも一箇所以上は火葬場(所謂さんまい)があった。昔は(明治の頃まで)あ人家の近くで火葬も埋葬もしたものである。
 例えば、沢崎三昧、笛吹三昧、法華三昧、馬瀬三昧、ご門徒三昧、鯖江三昧、松ノ木三昧、三保三昧、千石谷三昧などと一村に多くの三昧があった。三昧とは墓所にある堂、あるいは墓所のことをいうので、昔は親類縁者や門徒仲間などだけで墓所と一緒に埋・火葬場をもっていたものであろう。
引用:『南条町誌』

南条町一部集落には完備した火葬場もあるが、旧来のままの火(埋)葬場が多いので、昭和四十八年六月から操業を開始した武生市斎場と利用契約を結び、町一円の利用を計り、すでに(※)五十体の火葬実績がある。
引用:『南条町誌』
(※)発刊昭和51年(1976)時点

今庄斎場

1973年町営火葬場完成。

美浜町

丹生

敦賀半島の美浜町側の最北端漁村。ここには2つのサンマイがある。

まずは田ノロサンマイから。

丹生サンマイ
丹生サンマイ
丹生サンマイ

集落の入口にある森。葬送の地らしい鬱蒼とした空間。森の入口に六地蔵があり、中に入ると雰囲気が一変する。開けたようなサンマイとは全く違う異界の雰囲気。緊張が走るほど。六地蔵の横には石塔や石の造形物がいくつもあった。道は石を踏んでいく。土の方は埋めてあるからだ。今は使っていないからか草が生え枝が落ち木の葉が積もっている。よく見ると竹木を模した棒でヨモノ除けの囲いが崩れかかっているのを見つけた。最後の写真右側だ。オニガキやヨモノオドシという埋葬した場所に囲いを作り鎌などを吊るすものだ。これを見るとここが葬送の地だとはっきりとわかる。一応火葬がなされていた場所で火葬の世話をする人もいたらしい。「棺を置く石の台に松材のバンギを積み上げ「ノーノヒト」と呼ぶ村人に頼み茶毘にふす。」というようなことが『若狭における葬送墓制の転換』に書かれている。

一部の条件下では土葬もしていたらしい。同じく『若狭における葬送墓制の転換』には「丹生では新年早々女が亡くなると七人半葬式が続くと言い,男の衣服を着せて埋葬した。」ということも書かれている。

この田ノ口サンマイについて、近くにいたご老人と若い夫婦の家族と思われる方々に話を聞いたところ、若い夫婦2人はこの森のことはよくわからないといい、サンマイという言葉も知らないようだった。ご老人は挨拶すらも返してくれなかった(こっちを見る反応をしたので気づいてはいたはず)。若い夫婦がそのご老人に森のことを改めて聞いても顔を横に振るだけで回答は得られなかった。ちなみに通りがかりの別のご老人は普通に挨拶を返してくれたので、このご老人はサンマイについて聞いたのが気に入らなかったのだろうか。忌み嫌っている可能性が高い。サンマイについて聞きまわる私を怪しんだ可能性もある。

 

集落突き当りの「奥の浦」という場所にもサンマイがある。

丹生サンマイ

六地蔵があるのでこの付近にあるはずではあるが、サンマイ自体はどこにあるのか見当たらなかった。ちなみにここはアイノカミが祀られている場所でもある。

森の中にあるのだろうか。この辺りの整備で無くなった、ということはないと思うが・・・。

佐田

佐田火葬場跡

今はもうない。佐田の火葬場は總光寺墓地内にあったという。新旧2つの火葬場があったとされるが、今回行ってみるとすでになかった。手前の建物は物置らしい。奥の建物は墓地の用具などが常備されている建物だった。用具の建物の裏には花などを償却するための正方形の炉があったがこれは違うだろう。どこにあったのかも不明。「石積みの釜に入れて、オンボが焼いた。松のバンギは裏の寺山や喪家の山から伐採し常時用意しておく」ということが『若狭における葬送墓制の転換』に書かれている。

土葬地(両墓制・単墓制)

市町村コード順

敦賀市

和久野(西和久野)

和久野土葬地

先ほども火葬の項目に和久野がこちらは西和久野である。少し位置が違う。土葬場跡は集落内にある。現在墓地となっているのが土葬地跡である。昔は石塔は無く自然石の墓標だったという。今散らばっておいてある自然石がその墓標だった物という。花立が自然石に向かって立っていることからその様子がうかがえる。土葬の遺体は掘り起こされて改葬されたらしい。

詳しくは個別記事で見ている。この和久野をおさえれば敦賀の葬送が見えてくる。

小浜市

高塚

両墓制の最たる形状を現存させる高塚。この形状が残っている場所は今はそうはない。

高塚土葬地

両墓制

石塔墓(二次墓地、参り墓)が手前にある。横の道の奥はフェンスとフェンスの扉で閉鎖されている。その奥に土葬地(一次墓地、埋め墓)がある。フェンスの隙間から撮る。

高塚土葬地
高塚土葬地
高塚土葬地

ヨモノ除けの囲いがある。昔は竹でやっていたのだろう。今はガーデニング用の棒で作っているようだ。平成に入っても土葬をした事例が小浜にはあったので、つい最近までも土葬地は手入れされ続けているのだろう。ここまで完璧に残りしかもきれいにされている。盆に掃除しているのかもしれない。囲いにはかつて鎌などが吊るされていたのか。オニガキの名残と思われる。また、その中には「マクライシ」が置かれており、茶碗か湯飲みの陶器が供えられているのも両墓制の形を今に見ることができる部分である。奥には角塔婆もあり、曹洞宗の土葬地の形を残す。

埋め墓の名称:サンマイ。
参り墓の名称:キヒバカ。
七日間毎朝四十九日まで参る。

南越前町

阿久和

阿久和埋葬地

両墓制と単墓制が混在する阿久和埋葬地。

南条町阿久和の墓穴は少なくとも三メートル掘り、さらにこんどは横穴を掘ってその横穴の部分に棺を納めるという大変手のこんだ方法をとっていた。これはオオカミがきて掘り起こすのを防ぐ用心のためであるという。
(中略)
南条町阿久和、奥野々のサンマイには小さな石地蔵がかなり座っており、それが子どもを埋葬した場所と推測される。
(中略)
南条町阿久和ではサンマイは三か所あり、そのうち中村のは杣山神社うしろの山すそにあって、それぞれ区画が決まっており、そこへ埋葬したが、天台宗、日蓮宗の信徒は集落の中にそれぞれ寺があってその境内に参り墓を持ったが、真宗諸派の信徒は村の中に寺がなく、武生、鯖江あたりの寺まで行かねばならぬため、埋葬した上へ直接墓石を建てた。つまり同地区内で真宗諸派信徒は単墓制・天台、日蓮宗信徒などは両墓制という変則的な墓制であった。しかし中村のサンマイなどでは「先祖埋葬地」と彫った石柱さえ建てられており、両墓制が崩れて単墓制へ移る様相を見せていた。
引用:『福井県史15 民俗』

阿久和埋葬地

郷土誌にある通り、「先祖代々埋葬之地」という石柱が建てられている。しかし所々に自然石の小さな墓もあり、これが土葬の本来の墓石なのだろうか。

よく見ると、郷土史にあった両墓制と単墓制の墓を見分けることのできる部分が分かる。区画内に「先祖代々埋葬之地」と書かれた石柱だけが置かれている場所と、区画内に「先祖代々埋葬之地」に加えて古い墓石が並んで建っている場所の二種類がある。

  • 区画内に「先祖代々埋葬之地」と書かれた石柱だけが置かれている場所天台宗・日蓮宗の両墓制の墓
  • 区画内に「先祖代々埋葬之地」に加えて古い墓石が並んで建っている場所真宗諸派の単墓制の墓

以上のことが言えるだろう。

美浜町

宮代

宮代埋葬地

宮代は彌美神社のある場所で、そのためか美浜町内で最も遅くまで土葬両墓制を行っていた土地である。しかしながら舞鶴若狭自動車道の建設により土葬地であるサンマイは消えてしまった。写真はその慰霊碑である。奥に石が積まれているが、おそらくサンマイにあった枕石だと思われる。集落近くには六地蔵もありソウレンカイドウの名残もある。

坂尻

坂尻土葬墓
坂尻土葬墓

土葬単墓制?。

県道225号線、千鳥苑西隣接地にある。
若狭の土葬では両墓制が多い中、美浜でいくつかある単墓制の土葬地の一つ。現在は立派な石塔墓が多く、土地も改良されたのか砂質の砂利で整っている。以前は木々が生い茂っていたようだ。それでも今も所々に自然石や花立のみの墓が存在する。何も知らずに入ったらただの石が転がっているだけのにしか見えないような石も墓石なのである。

埋葬は僧が経をあげる中で行う。笠を棺にかぶせ、幡も一緒に埋める。親族が手で少しずつ土をかけ、杖とオオダイマツの頭が土の上に出る様にホリカタが土を入れる。土をかけ終わると前に膳や線香、蝋燭、花を置く。芝や石は置かない。幡の竹を切ったものを周囲にさし縄をかけ魔除けにする。墓に立つオオダイマツは長いこと残っていた。竹は二年三年も残った。それらがなくなると上に石を置く。石は埋葬位置を示し、石塔が立つまでの目印にする。石塔は同じ墓域の別の場所に建て、墓の石はそのまま残す。二十年も経って墓が落ちると砂を入れて地面をならす。
参考:『わかさ美浜町誌』

集落東の松原隣接地の砂丘地に墓地がある。葬式に出ない掘方が穴を掘る。砂地の底は固く棺を置くコアナボリ(※葬礼(儀式や道具)・墓制・火葬土葬用語集【福井県の葬送Ⅰ】参照)は難儀した。ニ、三年後に杖やオオダイマツ、竹などが腐ると浜石を置き、石塔を立てる。それまで線香や供物を供える。
参考:『若狭における葬送墓制の転換』

写真内にある花立や自然石だけの墓は、その土葬場所ということなのだろう。

しかしこう見ると土葬墓と石塔墓の位置がずれており、一見両墓制に思えるが、『わかさ美浜町誌』の分布図では単墓制となっている。単墓制は埋葬地の真上に立てるものと思っていたが、どうなのか。

竹波

県道141号線沿いにある。すでに土葬地は整地され、供養碑が立ち、垣に「竹波区埋葬地跡」と刻まれ、当時の面影はほんのわずかになっている。グーグルストリートビューの2015年・2014年に現存の姿を見ることができる。ここは土葬両墓制。自然石を置く典型的な若狭の両墓制の形だった。しかし『若狭の民俗』には興味深いことが書かれている。

美浜町竹波
 曹洞宗で、全戸の90%が埋葬しており、両墓制である。ところが、20年ほど前には約半数近くが火葬であった。隠坊2人を頼んで焼いたが、費用が掛かるので、現在のように埋葬するようになったという。自分の覚えている間は、埋葬地の草(ササワラ)を刈る。このようにして、死後10年くらいまでは、盆に1回、サンマイに参るが、彼岸には参らない。埋葬後、遺髪や爪などは、35日まで家にまつり、35日には参り墓にいけ、塔婆をたてる。五十回忌には芯のある木のトウバの表面を削ったのをたてる。
 以上のように竹波は両墓制の土地であるが、サンマイに統く土地には伊藤家累代の墓をたてている。富者単墓の例である。サンマイは部落のはずれにあるが、参り墓は部落内の法源寺・栄林寺内にある。子供が死んだ場合には、感心せぬが、寺のハカに埋める人もある。またサンマイの地蔵のそばに埋める人もある。
引用:『若狭の民俗』

『若狭の民俗』の出版が1966年なので、それまではまだ土葬をしていたのだろう。『若狭における葬送墓制の転換』には

両墓制は昭和40年(1965)頃まで行われていた。

と書かれているので、『若狭の民俗』出版直後から町営の火葬に移行したのだろう。それにしても元々は火葬もやっていたというのが驚きである。何度も葬り方を変えてきて今に至っているというのが分かる。

土葬の場合の葬送について、『わかさ美浜町誌』には

埋葬がすむと墓の上で藁を燃やし、石を一つ立て、その前に供物を載せる台として別の石を据える。上に花籠を交叉させて立てて鎌を吊った。ヨモノに墓が荒らされていないことを確認するためといい、埋葬してから七日間は男が一人で毎朝早朝に墓参りをした。サンマイには埋葬の時に一回だけ板塔婆をたてるが、遺構は寺の墓へお参りし、三十五日、四十九日に参らない。もっとも盆には施餓鬼のあとでお参りをする。
引用:『わかさ美浜町誌』

高浜町

関屋

関屋土葬地
関屋土葬地
関屋土葬地

参り墓の前に埋め墓があるタイプの両墓制墓地である。関屋集落を望む高台の同じ土地に土葬地と石塔墓が分かれて配置されている。下には寺がある。土葬地には枕石が3つ置かれている。所々コンクリートブロックで代用されているのも興味深い。かつては霊屋もあったのだろうか。大飯郡の土葬地では霊屋という家形があるものが多い。土葬地の中央には角塔婆もある。この辺りでは「サンマイ」とは言わない。

埋め墓の名称:ミハカ・ミバカ(身墓)
参り墓の名称:石塔・墓

近くの無縁塚には石の唐戸が置いてあった。これも高浜町付近の墓の形の特徴である。

東三松

東三松土葬地
東三松土葬地
東三松土葬地

海がすぐそこにある。両墓制らしいが、どれが埋め墓かわからない。かなり広い墓の土地なので、おそらくここに参り墓と埋め墓が併設されているはず。参り墓は石塔なのでわかりやすい。埋め墓らしき物(花立のみの場所、自然石のみの場所)もあるが確信はない。ただし興味深いのは霊屋があるということだ。石の唐戸もある。霊屋は埋め墓にあるはずの物である。しかもその霊屋が見た感じ新しいのだ。推測では火葬に移行してから、遺体ではなく遺骨を埋めるわけだが、その遺骨を埋めたところにかつて土葬したように霊屋を作っているのではないかということだ。サンマイに遺骨を埋めるところは他にもある(例えば大島など)のでかなり有力説と思っている。それにしてもいろいろな形の石塔がある。不謹慎かもしれないが、石塔好きにはたまらない光景なのではないか。

埋め墓の名称:ミバカ、ミハカ(身墓)
参り墓の名称:サンマイ

ここも不思議。サンマイは基本埋め墓の名称である。しかしこの東三松では参り墓が「サンマイ」というらしい。これは埋め墓と参り墓が混在しているが故か。真相は不明。

おおい町

尾内

尾内土葬地石仏花立

集落のはずれの山の先端に草のあまり生えていない土地がある。桜が多く咲いている。そこに花立が多数差し込まれて立っており、所々に石塔石仏も置かれている。ここは尾内の両墓制埋め墓である。向こうには五輪塔もある。長者や農豪、落武者の墓だろうか。昔は霊屋もあったらしい。参り墓は集落内の寺にある。

埋め墓の名称:サンマイ

詳しくは個別記事がある。

若狭町

無悪・三生野

無悪サンマイ

両墓制の埋め墓。無悪と三生野の共同墓地となっている。鬱蒼としたソウレンカイドウを抜けると森の中に現れる静寂の空間。中央には安倍晴明の墓と伝えられる五輪塔がある。この空間は実に神聖であり、緊張する場所であった。ここに来るまでの薄暗い道と相まって雰囲気を出している。参り墓はサンマイの無悪集落よりの高台にある。小野篁の墓のある安楽寺に隣接する。

埋め墓の名称:サンマイ
参り墓の名称:ハカワラ

詳しくは個別記事がある。安倍晴明の墓がある理由も記している。

出典

参考文献

『福井県史15 民俗』
『あどうがたり』
『ノヤキの伝承と変遷』
『三方町史』
『若狭がたり2 民俗』
『若狭の民俗』
『小浜、遠敷の両墓制について』
『新考坂井郡誌』
『土に還る』
『郷土誌大飯』
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
『大飯町誌』
『浄法寺村誌』
『宮崎村誌』
『総合民俗調査報告書(第17号) 宮崎村の民俗』
『郷土誌青郷』
『南越民俗』
『鯖江市史 民俗』
『上吉田集落誌』
『北谷物語』
『国富郷土史』
『小浜市史紀要 第3集』
『上舌部落誌』
『真名川流域の民俗』
『敦賀志』
『南条町誌』
『わかさ美浜町誌』
『若狭における葬送墓制の転換』
『福井県統計年鑑』
『敦賀市勢要覧資料編』
『敦賀市史 通史編 下巻』
『敦賀市議会史 第1巻』
『武生市史 概説篇』
『鯖江今昔』
『春江町史』
『いづみ : 福井県武生市泉町誌』

情報

福井県健康福祉部医薬食品・衛生課
統計調査課
永平寺町住民税務課

取材

敦賀沓見の方
敦賀和久野の方
福井美山小和清水の方
南条西大道の方

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