福井県小浜市内外海地区堅海。嶺南若狭は土葬地帯だがここもまた古くは土葬をしていた土地である。郷土史や地元の方の話を交え、土葬地現地の現在の様子をここに記録します。
経緯
経緯といっても、元々堅海のサンマイについては調べており、場所も何となくは分かっていたので訪問もしようと思っていました。ただしそこだという確証はなく、しかも道は細く、山奥であるためになかなか入って良いものか悩んでいました。
とにもかくにも現地へ向かい、堅海の別件で調べ物をしていた時にちょうど地元の方と巡り合い、別件の話のついでのような形で「サンマイ」のことを尋ねたところ「案内してあげようか?」ということで、なんと途中まで案内していただけることになったのです。
加えて、写真も撮っていいとのことで、サンマイへの道、ソウレンカイドウの入口(結構高いところ)まで案内していただきました。道のりや事前に話などを伺った後、「じゃあ、仏さんがいるところを見てきてあげて。新しく埋めたところはもう無いから安心して」とお声がけいただき、そこでわかれました。
非常にありがたいことです。
ではその様子を見ていきます。
ソウレンカイドウ
集落の北に山へ登る道があり、そこを登ると一直線に山に入る道があります。左には畑があり、その奥に海が見えます。ソウレンカイドウは砂利が敷かれています。
土葬地までの道を俗に「ソウレンカイドウ」といいますが、どの地域でもそう呼ばれていたのかは不明です。
一直線の道を少し行ったところに、途中川を渡る橋があります。この川は村との境界を意味すると感じました。なぜならこの川の下流においても堅海集落の民家はこれ以降存在しないからです。
そしてこの橋を渡った所から一気に雰囲気も変わります。
川を渡ると森のトンネルとなり、ここからは完全に俗世から離れ、葬送の地への一本道です。
サンマイ
藪を抜けると右手が広がります。
堅海土葬地。両墓制。
土饅頭ではなく石が置かれています。
今は土葬はしておらず、かつてあったであろう塔婆や天蓋などは見当たりません。朽ちてしまったのでしょうか。
印象的なのは墓印の石が丸石ではなく尖った感じの石だったこと。
こういったサンマイの墓印は比較的丸石を置いている所が多いようにも思っていました。なぜなら川石や浜石を使うことが多いからです。しかしここはどうもそうは見えない。山の石を使っているのでしょうか。石は規則的に置かれている様子はなく、外者からすれば乱雑に置かれているようにも見えます。というよりもおそらく古くからのサンマイ。もはや決まった墓印などなく、先祖の集う場所になっているのでしょう。
花立や湯飲みなどはありますが、これも大部分が墓印に向けているものなのか全く分からない状態になっています。とにかく広い。写真には納めきれないくらい広いです。まだまだ奥もあります。
サンマイ入口には大きな棺台があります。ここで最後の葬礼をしたのでしょうか。
しかしこの花立や湯飲み、石積みの量を見ると圧巻です。まさに「ヤマ」の葬送地、サンマイという土葬地の姿です。
道には湯飲みが落ちています。
一度土葬が終わった後は、何度か詣りに来るものの、ほとんどが後は自然のまま。自然に任せ、塔婆は朽ち、石や湯飲みは乱雑し、まさに肉体が自然に帰っていく様子を地表で表しているかのようです。
サンマイについての調査
郷土誌から
さてここからはこのサンマイについて、堅海の葬制についてより詳細に記録していきます。
『若狭の民俗』において、この堅海のことが書かれていました。
小浜市堅海
50戸、そのうち法華宗33戸、臨済宗17戸である。昔は真言宗であったという。
埋め墓はサンマイ・ボチという。サンマイへは臨済宗・法華宗にかかわらず、初七日まで毎朝カサを着て参る。その後は盆に毎年参る。サンマイの埋葬個所は個人ごとにわかれているからである。ハカショ(墓所)は寺の裏にある。
サンマイから分骨、あるいは土を移すということは別にしないで、坊さんに経を読んでもらい性根を入れてもらう。
五十回忌が打切りである。ただし法華宗は百年忌もする。このとき、松のトウバをたてる。そしてこののちは、神になるという。
引用:『若狭の民俗』
素人目には乱雑に見えても、どうやら各家ごとに埋葬する場所が決まっているということです。ということは花立は各家一本ずつ、その周りにある石はそこに埋めた人の数であるのでしょうか。
さらには『小浜市史紀要 第3集』にも記載があります。要約します。
堅海臨済宗:埋葬地場所不明。詣り墓へは埋葬地の石又は故人持物をひく。
堅海日蓮宗:埋葬地は山にある共同。埋葬地には自然石数個置く。ヒキは無し。
参考:『小浜市史紀要 第3集』
どうやらほんの少し『若狭の民俗』と『小浜市史紀要 第3集』は食い違っているようです。
- 埋葬地から詣り墓に石や物をひくかどうか。
- 場所が同じかどうか。
以上二点。
また、墓印の石は一つの墓に数個。昔からあるものを使いまわしていると見た方がよさそうですね。
現地の方の話
ではここからは私が直接現地の方にお聞きしたお話も載せます。
堅海の村のサンマイは北の方の山の中にある。そんなに山の上というわけでもない。
(以降案内してくださった)
堅海のサンマイは土葬が最後に行われたのは20年以上前。以前何十年か前に学者か誰かが調べに来たことがある。土葬のときはほとんどが座棺。土葬は同じところを掘るので、穴を掘る時に昔埋めた人の骨が出てくる。そういう時は、その時埋葬する人の棺の上に出てきた骨を載せて、一緒に埋める。
今は8月13日にサンマイの掃除をしている。草刈りなどもする。それ以外は入らない。
たくさん石が置いてあるから、そこに仏さんが眠っているんだなというのが分かる。
本当にありがたいことです。
さて、まずですが、おそらく「以前何十年か程前に学者か誰かが調べに来たことがある。」というのは、『小浜市史紀要 第3集』(発刊1972年)の調査時ことだと思われます。この郷土史作成の際、実際に小浜市堅海に訪れていると書かれており、写真も掲載されているからです。
さて、先ほどの郷土史の矛盾点ですが、どうも堅海のサンマイは宗派関係なくこの場所であるとみて間違いないでしょう。他にサンマイがあるという話はありませんでした。詣り墓へのヒキに関しては不明です。宗派によって違うのであればそれは一人に聞いても何とも言えません。
いずれにしてもこのサンマイは当時の姿ほぼそのまま現存しています。
以上記録しました。
参考
参考文献
『小浜市史紀要 第3集』
『若狭の民俗』
協力
堅海の方
コメント
真田幸村の首塚でお世話になりました。
ディープですね。暦会館には、3度程行ってますが、山の土葬までー。流石です。朝日町のかめ墓は行かれましたか?
お世話になります。
今も当サイトを見てくださっていることに感謝申し上げます。
かめ墓、気になってますが行ってないのです・・・。
越前焼の墓ですよね。これもこの土地ならではの珍しいものでしょうから、ぜひ行っておきたいです。