福井県の嶺南地方若狭地方はかつて「土葬」が多く行われていました。もちろん今は土葬はなくなっています。
その中で、福井県美浜町も近年まで多くの地区が土葬をしていました。
そしてその中には「両墓制」と言われる、埋葬墓と参り墓を分ける墓があった地域があります。
今回は、その美浜町内で最近まで両墓制文化があったという3つの地区のうちの一つ、「宮代地区」を訪れ、埋葬地の現在を見ていきます。
そこには、ある意味衝撃的な光景がありました。
※オカルト的な要素は全く取り扱いません。
宮代地区について
宮代地区は美浜町耳地区、耳川中流にあります。
王の舞で有名な「彌美神社」が鎮座している土地です。
「宮代(みやしろ)」という地名はかつて、「御社」と書いていたようで、やはり彌美神社の鎮座地ということからその名が来たということです。
参考:『三方郡誌』
そんな宮代地区は、かつて両墓制という墓の形式をとっていました。
ここから、その両墓制と埋葬地についてみていきます。
宮代の両墓制と埋葬地
両墓制文化
まず両墓制とは、遺体を埋葬する場所(埋め墓)と霊を祀りお参りする石塔(参り墓)をわけて持つ慣行です。
美浜町内の両墓制文化は、昭和40年(1965)あたりまで続けられていたそうで、その地区が竹波地区、安江地区、そして今回の宮代地区です。この3区は、つい最近まで土葬が行われていた地区になります。
中でも宮代では、最も遅くまで土葬が行われていたと言います。
それほど最近まで、宮代地区では両墓制が行われていたということで、いったいどんな場所なのか。はっきりとした位置がわからなかったので手探りで探すことになりました。
埋め墓(埋葬地)の現在
宮代の埋葬地(サンマイ)は、西の山麓にあります。
私は埋葬地を見つけることができました。
しかし、そこは何とも衝撃的な光景だったのです。
そこには供養塔、畜魂之碑、そして積まれた石が残っていました。
そして、供養塔の傍らにある碑文に詳細が書かれていました。
宮代区各家の先祖を埋葬し、祭祀の聖域として来た上墓地の一部が、近畿自動車道敦賀線新設工事の用地となるため、区民と協議を重ね、この際、上・下墓地(三昧)の墳墓を改葬し、先祖代々の御霊を合祀する五輪塔を建立し、供養することになった。
願わくば、当区の歴史及び伝統が末永く継承され、先祖の御霊に供養を捧げ、更なる彌永並びに家門繁栄、子孫長久御加護をの賜らんことを。乃至法界 平等利益
南無大師遍照金剛 合掌
平成十九年十一月 建之
引用:『宮代区供養塔碑文』
私は普段、こういう碑文や説明板は写真でも載せないようにしていますが、今回は実際に行くのが苦手な方もいらっしゃるかと思います。そういった方にも知っておいてほしい事でしたのでここに記しました。
そう、こともあろうに、町内で一番遅くまで土葬されていた、両墓制であった日本民俗文化の貴重な土地であり、代々の区の人々が土葬で埋葬されている神聖な場所が、上写真の右上に見えています巨大建築物、舞鶴若狭自動車道の建設地となってしまったのです。
積まれている石は、墓石だったのでしょうか。
土葬の改葬は、近年著しいです。しかし、葬送の土地自体が近代の建築物によって消えてしまうというのは、なんともひどいものだなと個人的な感想として思ってしまいました。
しかも、地域の繁栄のための建造物が、地域の貴重な民俗文化の地を消してしまうというのです。
皮肉なものです。
宮代の葬送
今はなくなってしまった埋葬地。
では葬送の時、ここでどんなことが行われていたのでしょう。
まず、葬送のはじめは墓印の残る場所を避けて空地に穴を掘る。家ごとの埋葬地は決まっていない。ただ、葬家や故人が希望した場所がある場合は、あらかじめ竹の棒を立てて場所を決めていた。時々人骨が出てきたようですが、そこの埋葬されていた者の遺族も掘る方も特に気にしなかったようです。 参考:『わかさ美浜町誌』『国立歴史民俗博物館研究報告 第191集 若狭における葬送墓制の変転 福井県三方郡美浜町の場合 金田久璋』 |
こんな流れだったようです。
「体が柔らかくなると棺に納められやすくなる」とあるのは、つまり、「座棺」を使用していたという事なのでしょうか。
埋葬地に3つの石を積んだというのがあの積まれていた石たちなのでしょう。
『わかさ美浜町誌 暮らす・生きる』には、埋葬地の3つの石の写真が掲載されています。
宮代の両墓制の2つの墓の位置関係は、見る限り以下の関係性みたいですね。
- 埋め墓(埋葬地)が高速の建設現場
- 参り墓が園林寺近くの石塔墓(ヒキバカ)
園林寺の方も行きたかったですが、訪問時暴風雨で傘が破壊されたので行けませんでした・・・。
次に行くときに写真が取れたら、追加で掲載したいと思います。
今も伝える埋葬地への道にある六地蔵
先ほどの供養塔から高速の下を通り、集落への一本道を進んでいきますと、集落の入口、というより集落側からすれば埋葬地への入口に現在も六地蔵がありました。
これは元々ここにあったのか、これも移動させられてきたのかはわかりませんが、基本六地蔵は墓地やサンマイの中もしくは入口によくあるので、この位置関係からして埋葬地と関連している六地蔵であると私は考えます。
埋葬地という区にとって大切な土地が無くなってしまいましたが、今でもこうして供養塔や六地蔵、碑文が置かれ、忘れ去られないようにしていることが大変素晴らしく思います。
参考文献
『わかさ美浜町誌』
『三方郡誌』
『国立歴史民俗博物館研究報告 第191集 若狭における葬送墓制の変転 福井県三方郡美浜町の場合 金田久璋』
『宮代区供養塔碑文』
コメント