福井県小浜市中名田地区には安倍晴明の伝説が伝わる場所があります。それが2つの埋葬地です。若狭には安倍晴明の伝説が多く点在しますがここもその一つでしょう。
伝説
この埋葬地の伝説は2つの地点に伝わります。『中名田村誌』に書かれているのですが、下記がその内容です。
1,岸村の埋葬地は昔安倍晴明此地に来り占いて墓地となすと(字樫本)
2,中小屋の墓地は面積三坪なり、往古安倍晴明の占いし墓地にして今尚同面積以外には埋葬せずと。
『中名田村誌』
安倍晴明が占った埋葬地
この二つは、大字には存在しない地名のようです。実際に見てみたい気持ちはありますが、ほぼ無理と思って良いでしょう。
岸
岸の埋葬地を見つけることが出来ました。
岸村は大字下田にあります。
地元の方の聞き取りの結果、岸村の埋葬地は最勝寺の西の少しほんの少し登った所にあるといいます。
これが岸の埋葬地です。
どうやら荒れ果てた様子です。一見ここじゃない気もしました。というのも最勝寺さんの西は近年工事があったらしく地形がだいぶ変わっているからです。しかし、花立や埋葬地に置く枕石、湯飲み茶わんがあることからこの空いた土地が埋葬地であることがわかります。
地元の方のお話によると、
火葬に移行してからすでに50年になるそうです。
昔は3つの石を置き、三角型の囲いを作っていたそうです。
今は誰も行きたがらないとのことで、やはり荒れ果てた様子はこの部分にあるようです。
安倍晴明の占った埋葬地が見ることが出来ただけでも私は満足しています。
中小屋
中小屋があるのは、大字小屋内の、奥小屋・中小屋・口小屋の内の中小屋です。
ご覧の通りバス停があります。
しかし人っ気がない。
犬はいました。
人はいるようですが外にはいないのでした。
お寺もどこかわからないし、これでは埋葬地も見当がつきません。
というわけで中小屋の埋葬地は見つけられませんでした。
すると、『小浜市史紀要 第3集』の中に中小屋の埋葬地の記述がありました。
それによると、
口、中小屋は同一埋葬地
埋め墓・・・サンマイ
詣り墓・・・ミハカ
場所は山にあり、共同墓地、部落の中心より1km
形は自然石を積み、竹で円錐に柵を作る。
参考:『小浜市史紀要 第3集』
とのことで、中小屋は口小屋と共有埋葬地だったようです。
それにしても結構山奥の可能性があります。これは無理と思います。
安倍晴明の埋葬地占い伝説は何なのか
実は安倍晴明が埋葬地を占ったという伝説はこの2つ以外にもう一つあります。
それが若狭町の無悪です。
しかもここには安倍晴明の墓まであります。
それなりに離れた距離に、同じ若狭地域内でもう一つそういった伝説があるのです。
これは偶然や作り話の域を超えているでしょう。
暦会館に行ったことがあります。
そこで気になったのが、「泰山府君」というもの。陰陽五行思想に基づいた生命発祥の地。人間の寿命を記録した帳簿が置かれる地、そして泰山は死者の赴く山であり、死霊のこもる山と考えられてきたということです。その信仰が閻魔大王や薬師如来などと習合し人間の寿命、福禄を支配、戸籍を管理すると信じられたといいます。それが日本では道教の影響で独自の陰陽道が生まれその主祭神として泰山府君が祀られるようになったと。これが暦会館に書かれていました。(詳しく知りたい方はぜひ行ってみてください)
つまり、陰陽師である安倍晴明、もしくは土御門家が埋葬地を占うということはまさにこのことに密接に関係しているのではないかと思うのです。そうなるとこれはただの「占った伝説」ではなく、歴史の理にかなった、ある意味裏付けになる伝説なのではないでしょうか。
安倍晴明伝説でいえば他にも高浜や敦賀にもあります。
これらも安倍晴明、もしくは納田終の土御門家の関わりが見えてきます。
実際、先ほどから出る暦会館内にある資料にはわかりやすく「土御門泰重の日記」として、納田終から小浜見物に行ったことがわかります。ということは途中に中名田もあったはず。中小屋まで行ったかは不明ですが、坂上田村麻呂が治めたこの地をみすみす逃すでしょうか。しかも加茂神社まであるのです。
何も関係ないとは思えません。
本当に安倍晴明が来たかは何とも言えませんが、少なくとも陰陽師が埋葬地を占ったという伝説は本当なのではないかと思います。
また、埋葬地を占うというのは、若狭無悪の占いの伝説を参照するに、「埋葬する際に大きな石や岩が無いことを占う」のだそうです。つまり埋葬しやすいような土や砂の地質かどうかを占うということです。
これを考えるに、「埋葬地を占う」というのは単なる「占い」ではなく、地質学に富んだ知識を持っていたということになるのではないかと思うのです。陰陽師というのは主に天文学で言われることがありますが、こういった地質なども一つの教養として持っていたか、それともそういった分野に富んだ人がいて、それが「占い」という風に言われ「埋葬地を占う伝説」になっていったのではないか。
つまり、安倍晴明が占って(陰陽師が占って)埋葬地を定めたイコール、学者が地質を調べて埋葬地を決めたということになるのではないでしょうか。
伝説は伝説で語るもよし、現実的な考え方をするのもまた一つの可能性として見出していきたいです。
参考文献
『中名田村誌』
『小浜市史紀要 第3集』
暦会館資料
地元の方の話
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