福井県敦賀市粟野地区の和久野。ここではかつて火葬と土葬の両方を行っていました。取材を機にその文化を見ていきます。
東和久野と西和久野の村の成り立ちからの違い、そして土葬の跡、火葬場跡を見ていきます。
和久野の地理
敦賀の中心市街地に近い平野部の部落でありながら、まだまだ田園の様子を残す穏やかな土地。
田園の所々に島や木があり、古くからの農地の風景を見ることができます。東には笙の川と黒河川の合流地点があります。
ただし、地元の方の取材の中で聞いた話によると、過去に起きた災害でだいぶ地形が変わったといいます。その方はそのことをはっきりと覚えているとおっしゃっていました。
1953年(昭和28年)9月25日台風13号。
今のサングレース(マンション)のある地点まで全て水に浸かり流れたといいます。
その後は新興住宅が開発されていき、元々は48戸ほどだったのが、780戸にまで増えました。
西和久野と東和久野
まず和久野にはさらに細かく分けて、西和久野と東和久野という部落が存在しています。
取材した方によると、
西和久野は古くからの村で元々和久野というのはこの村のことだった。
東和久野は江戸時代から起こった村で、曰く「流れ者」が開いた部落。
『敦賀志』によると、
・和久野村
・東和久野村
と分けて書かれており、さらに東和久野村については、
「文化年中(1804~18)の墾田なり。」
と書かれている。
『敦賀郡誌』には、東和久野について、
「文化五年三月の戸数四軒、人数十一人」
と書かれている。
田園を貫く小さな川があります。その川を境界に西和久野と東和久野がわかれています。
空撮を見てもわかりますが、西和久野は古い部落特有の入り乱れた道になっており、竹などが茂る森も残っています。
西和久野は住宅地内に頭だけ見えている2つの茂みがあります。元々のその茂みの間の部分しかなかったといいます。
この西和久野と東和久野が今回の重要なキーワードになってきます。
和久野のかつての葬送事情
さて、本題です。
火葬と土葬を同時に行う
このタイトルだと少し語弊がありますが、和久野という地区内で同時期に火葬と土葬を行っていたという意味では間違っていないと思います。というのも、この和久野という地区には火葬場と土葬地がそれぞれ一つずつあり、かつては同時に使用していました。
その理由を、地元の方の取材をもとに記していきます。
まず、この火葬と土葬は全く同じ地区で行われていたのではなく、先ほど見た西和久野と東和久野でそれぞれ行われていたといいます。
西和久野の土葬(両墓制)
古くからの部落である西和久野は土葬です。
現在もその名残が残っています。西和久野の集落の中に墓地があります。ここがかつての土葬地でした。
昭和初期までは土葬をしていたといい、昔は石塔などは無く、自然石が置かれただけの墓だったといいます。それは若狭などでもよく見る土葬地の形で、おそらくは両墓制(埋め墓と参り墓の2つの墓がある)形式をとっていたのではないかと思います。今では掘り起こし改葬されて石塔が建てられました。
この墓地内に、自然石が多く保存されており、その自然石に向かって花が立てられています。曰くこれが土葬の時に使っていた自然石の墓標だということです。
西和久野には宗栄寺という曹洞宗のお寺があり、こちらにも墓があります。
これは私の考察にすぎませんが、ここが参り墓だったのではないかと思うのです。若狭の両墓制は大体が曹洞宗です。それと全く同じ形なのでそう思っています。
東和久野の火葬
東和久野は火葬でした。その火葬場は今は残っていないといいますが、あった場所は残っています。黒河川の隣接地にちょっとした茂みがあります。ここがかつて火葬場があった場所だといいます。
今でも墓地となっています。
どんなふうに火葬場があったのかはわかりませんが、竹の茂みに広葉樹が一本生えているのでその下にあったのでしょうか。
この火葬場は明治に町営火葬場が出来るまで使われていたといいます。
公営火葬場が出来るまで使われる典型的な集落火葬場です。
なぜ同じ和久野で火葬と土葬の違いがあるのか
同じ和久野なのに火葬と土葬の違いがある。不思議ですが、敦賀は特に火葬と土葬が混在している地域です。
この和久野を見ていくとその理由が見えるかもしれません。
取材によると、この火葬と土葬がわかれている理由について、
古い村である西和久野は、古くからその地に根付いている、若狭と同じように土葬文化を続けてきた。
新しい村である東和久野は、流れ者が江戸時代の先進的な葬送方法である火葬を持ってきて定住してからそれを用いた。
だから古い村は土葬、新しい村は火葬、という違いが生まれた。
とおっしゃっていました。これはかなり納得できる話でした。新しい村ほど火葬の年代が古いということなのです。
町営火葬場への移行
さて、次の問題は町営火葬場への移行年代です。
東和久野の集落火葬場から町営火葬場への移行は明治時代。
西和久野の土葬から町営火葬場への移行は昭和初期。
この違いは何でしょうか。
こればかりは私の考察となります。
まずこれを知るには町営火葬場がいつできたのかという話になりますが、敦賀の町営火葬場についてとある資料に2つの年代が書かれています。
- 湯山の火葬場が出来たのは、明治30年ころである『若狭の民俗』
- 湯山火葬場は昭和18年12月に完成『敦賀市勢要覧資料編』
実際湯山墓地が開かれたのが明治33年とされています。
この年代の違いについて、私が考えるに
初代が明治時代、2代目が昭和18年
ということなのだと思います。
つまり、この事を踏まえて和久野の町営火葬場移行年代を考えるとこのようになるのではないかと思います。
- 東和久野の集落火葬場は、一代目(明治)の町営火葬場設営の時に移行。
- 西和久野の土葬は、二代目(昭和)の町営火葬場設営の時に移行。
敦賀の葬送事情全体を考えるなら、
元々火葬だった所は一代目の時期に移行。元々土葬だった所は二代目の時期に移行。
この町営火葬場造営がそれぞれの移行時期の区切りになっているのではないでしょうか。
敦賀が火葬と土葬の混在している理由
このような和久野の事例を踏まえると、敦賀内の他の地区の火葬と土葬の混在事情も見えてきます。
取材した方も仰っていましたが、敦賀は特に火葬と土葬が混在していた土地です。集落火葬場を持っていた地区や、火葬場はないが土葬地を持っていた地区が多くあります。
敦賀は交通の要衝でもあり人の流れも激しかったでしょうし、そこから定住する人も多くいたことでしょう。そうした人が、元々若狭と同じ土葬文化だった敦賀に火葬文化を持ち込んで、昭和初期までの火葬と土葬混在の敦賀の葬送事情が生まれたのかもしれません。
そして、土葬文化はつい最近まで根付き続け、昭和の町営火葬場造営まで続いたのでしょう。
『若狭の民俗』には、
真宗が火葬が多いことを説明され、(前略)
この他の部分の火葬は、浄土宗・曹洞宗・時宗などの場合がある。この地域に火葬が多いのは近年の現象で、ことに湯山の火葬場が出来て以降のことであるという場合が多いように思われる。したがって火葬が、現在のように普及する以前には、両墓制の分布がかなりみられたのではないかと思われる。
引用:『若狭の民俗』
今後敦賀の集落単位の葬送事情を見ていく中で参考になりそうな事例でした。
和久野の名所
石仏
和久野橋のたもとに石仏があります。その横には大きな輪からの石らしきものがあります。
何なのかは不明ですが、何とも意味深な場所です。
清水
かつて和久野には湧き水がありました。
『敦賀志』にも書かれています。
この村の北のはずれに清水あり。昼夜混々として幅七・八尺がかりの河となり、嶋郷十一村の田地に分灌す。旱魃の年といえども終に涸るる事なし。又、水損の憂いもなし。
引用:『敦賀志』
取材した方もこの清水のことをおっしゃっていました。
それはとても有名な清水だったといい、14℃一定の水温だったといいます。冬は湯気が上がり、夏は冷たい。
そんな清水だったそうです。
その清水があったのがこの辺り。パレーシャルIharaのマンションがあったあたりだといいます。
今はこのようにもうなくなってしまいました。
※追記
敦賀市史にもこの泉に関係する記述が見えます。
黒河川・笙ノ川扇状地では、扇頂は約六十メートルの標高を示し、敦賀平野の地下水は十五~十メートルの扇端部で湧き水する。市野々・和久野・山泉・古田刈・長沢はこの位置にある。和久野・山泉の地名の起こりも湧水に関係があろう。
敦賀平野の地下水は、戦前において古田刈~新和町以北の平野部のほとんどで自噴していたが、生産活動・水需要の増加に伴い、昭和三十一年には舞崎~東洋町~木崎以北まで自噴帯は縮小され、昭和四十年末の調査では完全に自噴帯は消滅している。わずかに井ノ口右岸流域、および敦賀湾臨海部の一部にかけて数本の自噴井が認められたにすぎない。
引用:『敦賀市史 通史編上巻』
地名からも見える湧き水地帯だったのですね。
剱神社と稲荷神社跡
詳しいことは上記の記事内に書いてあります。
和久野に残る古くからの社叢が今も剱神社内には現存し、タモの木の大木もあります。また、剱神社は西和久野の神社。東和久野の神社は稲荷神社でしたが、その稲荷神社は現在剱神社に合祀されています。その稲荷神社があった跡地も残っており、上記記事ではその場所も掲載しているのでよかったら見てみてください。
和久野の文化
敦賀平野部に田園を残す和久野地区は敦賀の葬送、文化を考えるに重要な地点です。
田園も住宅開発によっていずれは無くなってしまうでしょうか。火葬場跡も消えていく時代。いつ何時にその名残すらも無くなってしまうかわからない中で、どうにか記録していきたいものです。
参考文献:『敦賀志』『若狭の民俗』『敦賀郡誌』『敦賀市勢要覧資料編』『国土地理院』『敦賀市史 通史編上巻』
取材協力:和久野の方
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