信露貴彦神社の由緒と御祭神~沓見の男神【敦賀市】

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福井県敦賀市の沓見にある信露貴彦神社。漢字、読み方が珍しく古くからの氏神とされる。

沓見御田植祭などの特殊神事でも有名。久豆彌神社とは夫婦神の関係である重要な神社である。都怒我阿羅斯等の時代までさかのぼる神社を見ていく。

御祭神・由緒

祭神:邇邇芸命、日本武尊
創建は推古天皇御宇十年。延喜式神名帳に「信露貴彦神社(しろきひこのじんじゃ)」とある。古くから「白木大明神」と呼ばれる。文徳天皇斉衡三年九月丁己「従五位下」の神階。
信露貴彦神社の「彦」を男宮としている。久豆彌神社は「彌」を「美」として女神(女宮、おなごみや)としている。久豆彌神社とは夫婦神の関係。

この場所は「宮ノ内」地籍。

信露貴彦神社

桜が美しいです。

ここは前回の久豆彌神社とは違い、かなり集落の中で開けた土地に鎮座している印象です。ちなみにこの正面右にも道があり、その先には墓があります。神職の墓なのかわかりませんが、私の見た感じでは、土葬両墓制の墓の様でした。

信露貴彦神社拝殿

拝殿は久豆彌神社と同じく、神楽殿のような形式。さらに奥に階段があり本殿へ繋がります。

沓見にはほかに八幡神社西神社があります。

この八幡神社と西神社は、門型の拝殿です。
対して信露貴彦神社と久豆彌神社は、神楽殿型の拝殿です。

不思議ですね。祀った時期の違いなのですかね。

後にも紹介しますが、久豆彌神社と信露貴彦神社はかなり関係の深い神社です。この拝殿の形でもその関係の深さが見えてきます。

階段の先には瑞垣で囲われた本殿があります。

信露貴彦神社本殿

本殿もまた久豆彌神社と同じく建物の中に社のある形。社殿の形がほぼ同じなのです。

信露貴彦神社の名前

信露貴彦神社

信露貴彦の読み方「しろきひこ」です。「信露貴(しろき)」とは何とも古代的な呼び名ですが、「白木大明神」ともあるように「白木」の意味なのでしょう。

敦賀で白木と言えば敦賀半島北端にある集落です。かつて渡来人が漂着した場所ともされており、ここにも「白城神社」という神社があります。

次の項で見る古い伝承からも、信露貴と白木の関係がわかります。

古い伝承

『沓見誌』掲載の古い伝承によると、男宮として邇邇芸命が元々祀られていた場所はこの地ではなく、東の馬坂の南にあったとされています。しかし『何とか記念福井県神社誌』によると「当区南方字神所下の森地籍に鎮座」と書かれています。おそらく場所が違うと思うのですがどちらなのでしょうね・・・。

『敦賀郡神社誌』によると、

元は当社の南方に当たる区端の字神所・下ノ森地籍に鎮座し給いしが、年代不詳なるも、現地に奉遷したのであると云われている。
引用:『敦賀郡神社誌』

と書かれており、おそらく南の方で間違いないです。

ちなみに女宮は手々花(木崎山の麓)にあったといい、これは確実です。

これらの神社を深く掘り下げると、崇神天皇の時代までさかのぼると言われます。

蘇那曷叱知(都怒我阿羅斯等)が日本に渡来した際、敦賀の白木に着き、笥飯宮(現在の氣比神宮の場所)に滞在した都怒我阿羅斯等が亡くなった後、従者たちはそれぞれ敦賀半島の白木と木崎出鼻(沓見)へ散っていった。その後、沓見に二つの氏神が祀られた。それが瓊瓊杵尊と木花開耶姫。瓊瓊杵尊は白木大明神として祀られた。

ということは瓊瓊杵尊は敦賀半島白木の神として祀られたのでしょう。

この両社の祭神は夫婦なので、年に一回会うことになっており、昔は海だったというので舟で会っていたのだそうです。その祭りは今も続いている(復活した)とのことです。この「海だったから船で会っていた」という説明も、北と南の山麓に鎮座していたという証になっているのかもしれませんね。

遷宮した年代は不詳としていますが、男宮と女宮は同時期に遷宮されたとされているようです。

前回の久豆彌神社の回で

奈良時代(天平)聖武天皇が奈良に大仏を建立された際食糧が不足したので新天地を求められ、敦賀の沓見になら荘園を作ることになった折、手々花の女宮が田になるため、久津見神社に合祀された。
引用:『沓見誌』

という事を取り上げましたが、その伝説が本当なら荘園時代が区切りだったのかもしれません。

信露貴彦神社と久豆彌神社の関係

前回の久豆彌神社

信露貴彦神社と久豆彌神社の関係は、今まで見た中では、

  • 男宮と女宮で夫婦神
  • 都怒我阿羅斯等従者らが散った「白木」と「沓見」が「信露貴彦神社(白木大明神)」と「久豆彌神社(沓見大明神)」
  • 沓見御田植祭では合同の祭り

など多くありますが、他にも不思議な関係があります。それは神社と氏子の位置関係。敦賀郡神社誌に載っています。

今此の両者の現在位置と旧跡とを考察するに、両社ともになぜか全く反対の方向に遷座したのであれども、往古よりの氏神信仰の観念は今に至るも変わらず。即ち久豆彌神社付近の者は、信露貴彦神社の氏子であり、信露貴彦神社付近の者は、久豆彌神社の氏子である。
引用:『敦賀郡神社誌』

要するに、
昔は信露貴彦神社が今の沓見集落のにあったので、南側に信露貴彦神社の氏子が多い。逆に久豆彌神社北東にあったので北に氏子が多い
現在は逆に信露貴彦神社北側遷座し、久豆彌神社は信露貴彦神社南側遷座したので、その位置関係が逆転してしまった。という事なのですね。

これはある意味、両者の旧跡や遷座の伝説が事実であるという証明であり現在においても見て取れるということなのです。

特殊神事「田打ノ式・田植式」「お会い祭り」

神事

五月六日。
特殊神事については、久豆彌神社の時に記したものとほぼ同じです。
特殊神事「沓見御田植祭(田打ノ式・田植式)」は両社合同で行う神事になっており、久豆彌神社と信露貴彦神社それぞれで両社の芸が1回ずつ(合わせて二回)行われ、その特殊神事の最後を締めくくるのが久豆彌神社の女宮の御幣と信露貴彦神社の男宮の御幣が馬場先で出会う。これが「古い伝承」項の最後に記した「夫婦が年に一回会う」行事の名残である「お会い祭り」とされています。

王の舞は古代のそのままの形を維持しているとされます。沓見祭ともされており、「見るも馬鹿、見ぬのも馬鹿」と評されると言われています。

「阿呆」ならよく言いますが、「馬鹿」なのですね。

『敦賀郡神社誌』によると、その王の舞の様子は乾燥無味、面白みがあるわけではない見るに足らない感じのするものであるとしており、それはつまり古代の祭りをそのまま受け継いでいるからという事で神々しく様であるといいます。また見る人によってどう見えるかは変わるべきものであるとされ、演者は慣習を楽しませるようなことは一切せず、極めて真面目に奉仕するのみであるとされます。

現代の楽しむ祭りではなく、完全な「神事」ということです。

禁忌

六日の夜。

『敦賀郡神社誌』によるとこのようなことが書かれています。

六日の夜十二時後、四日に作り当家の窓下にて斎奉れる神籠へ神酒を献じ、神職之を捧持して帰宮令坐奉る。俗に之を「オハケオロシ」と称す。尤も御忍びなれば、村人之に出逢うときは、必ず其の年に死すと云い伝え、村人は黄昏より戸外に出でず。
引用:『敦賀郡神社誌』

境内社

信露貴彦神社境内社

手前(左)が山神社(大山祇命)、奥(右)が金刀比良神社(大穴牟遅命)

山神社(大山祇命)は、神饌所が本山神社の社殿だったと伝わり、元和元年九月に改築されたという。先に山神社の方を新たに作ったので、古い方を神饌所にしたという経緯といいます。

 

信露貴彦神社境内社

大木前の石祠が猿田彦神社(猿田彦命)、奥の社が神明社(天照皇大神)

基本情報

最寄り駅敦賀駅からバスに乗り換え沓見で下車徒歩5分
自動車敦賀南ICから12分、敦賀ICから12分
駐車場なし

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