気比の松原の一夜松伝説・歴史と逸話~冬の絶景や石碑など【敦賀市】

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気比の松原

福井県敦賀市の海岸線に日本三大松原の気比の松原(読み方は「けひのまつばら」)があります。

氣比神宮の社地として名前の由来となっており、歴史の一端を担ったこの場所には、戦時の石碑や歴史、蒙古襲来伝説など伝わり、また四季の絶景も味わえる福井県、敦賀市の名所となっています。

今回は伝説と景色を中心に見ていきます。詳しい歴史や地理地質は他のサイトの方が詳しく書かれているかと思います。

現在の地理

気比の松原

敦賀平野海岸部、西側一帯を覆う松原。
周辺には現在住宅が立ち並び、松原を沿うように幹線道路が作られています。平野部にあるのでアクセスも良い場所。

敦賀の平野部の海岸は、東の大部分が港、西側が松原の砂浜となっています。

氣比神宮や金ヶ崎、敦賀駅からの商店街など、敦賀の主な観光地からは笙の川を挟んで少し離れた位置にありますが、集会バスも出ていることから観光面でもそう困らない自然を感じられる観光地となっています。

 

では詳しく見ていきます。

まずは伝説や歴史を見て行って、その後に絶景など写真がメインとなる項へという流れになります。

蒙古襲来・一夜松伝説

一夜の松原
 敦賀の町を離れ、西の方に出れば、きれいな松原がある。これを一夜松原という。むかし神功皇后のとき、唐土から賊船が多く襲い来た。そのときにこの海浜に一夜の間にこの松原が生え出て、こずえにさぎが多く群れ集った。それが敵の目にはおびただしい軍兵の旗さしものに見え、驚き恐れて逃げ去った。
引用:『越前若狭の伝説』

一夜の松
 松原に大きな松がある。苗を植えたところ、一夜で立派な大木になった。今では松原一帯の親である。その名を一夜の松という。
引用:『越前若狭の伝説』

この他、松原に関係する蒙古襲来と一夜松について、下記のような伝承があります。

  • 弘安4年(1281)、肥前の国に蒙古襲来(歴史上の蒙古。元寇、弘安の役とも)。この時敦賀の山が鳴動して、白さぎ数千羽が気比の松原に集まり、その後西へ飛び去った。白さぎの群れは海上で蒙古の船の上を飛び回っていたが、そのうち大風が起きて賊船は沈没した。『若越宝鑑』
  • 聖武天皇天平20年に西の防御も守兵も手薄な海に蒙古襲来。11月11日の夜に敦賀が鳴動し、松原と白さぎが出現。また、北の海に岩石二基が出現。蒙古の船は転覆した。参考:『福井県の伝説』『気比宮社記』

以前、敦賀半島の立石・門が崎を取り上げた際に蒙古襲来の話を詳しく見ていきましたが、その時に出てきた話です。その蒙古襲来伝説の聖地ともいえるのが、立石門が崎、そして気比の松原なのです。

敦賀に伝わる蒙古襲来伝説についてはいろいろと謎な点が多いですが、この伝説の特徴は何よりも「気比神の神威によって蒙古を撃退した」という点に限ります。

立石に出現した「楯の石」、白木に出現した「石の門」、気比の浜に出現した「大松原」、松原に群がった「白鷺の大群」、白鷺が起こした「大嵐」。

全て神の力による自然現象が引き起こしたものである。それによって蒙古を撃退した。ということなのです。

この蒙古襲来伝説は他にも色々別の話があって、実際に上陸して荒血山・矢田野・関原・越の中山・角鹿山・気比の海・帰山・五幡で戦いが起こったという話もあります。

なので「これだ」という物はありませんが、「気比の神」の力を表す重要な伝説であると言えるでしょう。

歴史の概要

地理的な歴史の部分にも触れていきます。

浜の形成

気比の松原に於いて最も最初に注目すべきはその地形の成り立ちです。

色々と歴史的なぞも多いですがまずその地形から見ていくとします。

日本海側の海岸平野を見ると、沿岸の低い高まりが海岸線と平行に連なり、その高まりが海と平野とを隔てている。この低い砂の高まりは、砂が磯浪の作用で打ち上げられて形成されたもので、これを”浜堤”と呼んでいる。これは、風成砂が作った高まりである”砂丘”とは区別されねばならないものである。敦賀の浜堤は、その一部が飛砂によって覆われていると考えられ、藤則雄は、これを”浜堤状砂丘”と呼んでいる。敦賀浜堤の西半は名勝気比の松原として保存されているが、東半は築港工事などのため自然の形態をとどめていない。西半には三つの浜堤列が認められ、標高は四~六メートルで最前列が最も高い。北陸のほとんどの砂丘のタイプである横列砂丘で形成時の汀線方向に平行し、基盤は海成沖積統と考えられ、放生津砂丘(富山)・羽咋砂丘(石川)と類似している。敦賀浜堤の形成は、古墳時代初頭か、それ以降と推定されており、地質的時代からみれば極めて短い時間のうちに形成されたことになる。
引用:『敦賀市史 通史編上巻』

あの広大な浜はどうやら砂丘とは別物だったようですね。

製塩

敦賀の塩は「角鹿の塩」として、武烈天皇時代に呪いのかからなかった唯一の塩として、以後天皇に献上される塩となったわけですが、その塩が敦賀・若狭の塩であったという説が濃厚のようです。または、敦賀に集められた若狭越前の塩であったという説もあるということです。

様々な方が考察されています。

そのなかで、敦賀の製塩については田結の製塩が最もはっきりと歌にのこっているとされています。近年松原近く櫛川にも製塩所があったという報告も出てきており、製塩土器が発見されたそうです。

時代は六世紀から七世紀古墳時代~飛鳥時代

古代の松原施設(松原倉・松原駅・松原客館)

この項についてはなどが多く、有識者の方々も悩まれて考察されているので、素人の私は簡単に紹介だけしようと思います。

 

松原には古代多くの施設が置かれていたとされています。

古代、敦賀津の管理松原駅が設置され、そこに併設した状態で松原客館という建物が建てられ、平安時代には紫式部の父藤原為時が海外との交渉のためにここに来ていたとも。またその時期に紫式部が塩津越えできたとも言われています。

ちなみに『敦賀郡誌』によると、敦賀港は太古「氣比浦」とも呼ばれていたとし、敦賀の平野部海岸一帯を「氣比」としていたようにも思われます。

松原倉は天平神護二年(766)二月に近江からの稲穀が貯納された場所であるとされます。
松原駅は駅制後に敦賀内に現今庄の鹿蒜とともに置かれた駅とされ、所在は不明ですがおそらくは今の松原あたりにあったのではないかということです。
松原客館は渤海国を招き入れた施設で、宿泊施設、望楼などがあったようです。これも所在不明。「幻の松原客館」とも言われています。

『敦賀志』では松原駅と松原客館は併設されていた可能性があるというような記述があります。そしてその所在は別宮などがある櫛川であるとの説を濃厚にしています。
対して『敦賀市史通史編上巻』では今の松原の東側。古くはそこに「西の入江」があったとし、その周辺を後に「今浜」といいます。その入り江と松原の間に客館があったとしています。また松原駅はその入り江の南側にあったとし、併設している説は推されていないようです。

敦賀駅・松原駅・松原倉
延喜(兵部・隼人)式に曰く、「諸国駅伝馬、北陸道越前国駅馬(松原八疋。鹿蒜・済羅・丹生・朝津・阿美(あちま)・足羽・二尾各五疋)伝馬(敦賀・丹生・足羽・坂井各五疋)」。
同書雑式に曰く、「天平宝字二年(758)九月丁亥、渤海国大使輔国大将軍兼将軍行木底州刺史兼兵署少正開国公揚承慶以下二十三人、越前国に於いて安置す」(資元云う。是則ち松原客館ニ置き玉えるなり)。
引用:『敦賀志』

渤海国が滅んだ後も客館は機能していたようですが、いずれにしてもその場所は不明。

ただ福井県史のデジタルライブラリでは

櫛川町の別宮神社前の浜堤では、鎮火儀礼が行われたとみられる遺構が見つかっている。
(中略)
渤海使を「蕃客」視し、「蕃客」が「異土の毒気」「疫神」をもたらすと信じ、気多神社に渡来の「疫神」の追却、祓を要請した律令政府の方針が存在したと考えられる。松原客館の存在を前提にすれば、松原遺跡の鎮火儀礼も同様の目的をもって行われた可能性が大きいといえよう。
引用:『福井県史』通史編1 原始・古代』
URL:https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-05-03-05.htm

こうも書かれています。

いずれにしても古代の多くの歴史が刻まれた土地であるということです。結局長くなってしまいました。

私は歴史学者でもない、歴史に強いわけでもない。そんな私がここで好き勝手書くのもどうかと思うので、ここまでにしておきますが、結構この話題は沼です。妄想が捗ります。

興味がある方は、この松原客館について多くの書籍が出されているので調べると面白いと思います。

今見てきた『敦賀志』『敦賀市史通史編上巻』にもさらに詳しく書かれているので、見てみると面白いと思います。

以降の歴史は本当に簡単に見ていきます。

氣比神宮の御園

気比の松原は氣比神宮の神領であったということから、今現在の「気比の松原」という名前になったという由来があります。当時は「御園」とも呼ばれていたと『敦賀志』に書かれています。松原客館が松原にあったとする説や、別宮で儀式を行ったとする説もここに繋がってくるのです。

ちなみに別宮とは別宮神社のことで、氣比神宮(常宮)の「別宮」という意味なので、繋がりは深いです。

織田信長による土地没収

戦国時代に信長が越前に信仰した際に社領の没収があり、気比の松原もこの時没収されました。これで敦賀の社寺は衰退していきました。

後に福井藩初代藩主結城秀康によって氣比神宮などの社寺が再興されました。

江戸時代

江戸時代の時、敦賀の地が福井藩から小浜藩に移り、気比の松原は小浜藩の管理下に置かれました。

松原は徹底的に保存管理され、松からなる燃料を得る場所でもあったということです。

歌川広重にも「越前 敦賀気比ノ松原」という図で描かれており当時から名称だったことがわかります。
絵は国立国会図書館デジタルコレクションから『六十余州名所図会 越前 敦賀気比ノ松原 (大日本六十余州名勝図会)』として見ることができます。

明治から「松原公園」として

小学校の運動会が初めて行われたのは明治二十年(1887)五月十三日、松原における就将小学校(敦賀西小学校)高等科の生徒によるものだった。当日の記録の中に「生徒モ一層活発ノ気象ヲ現ハシ、頗ル有益ナルヲ覚ヘシメタリ」と記し、翌年の秋には郡内小学校の最初の連合運動会を松原で開催しているが、いずれも明治天皇駐輦碑付近を整地して、そこに急造したグラウンドで行われた。その後、明治から大正を経て昭和に至るまで、毎年秋になると、敦賀の人々は松原の運動会を楽しみにしていたようである。
引用:『敦賀市史 通史編下巻』

これを「松原行き」といって、十月十日に行われていたそうです。郷土史によると、皆仕事を休んで握り飯、松茸飯、栗ご飯を持って、親も観戦しに行ったと言います。

気比の松原

今もグラウンドがあります。

あのグラウンドが作られたのは、てっきり高射砲跡に作られたのだとばかり思っていましたが、どうやら軍事施設ができる前に、すでにここはグラウンドだったようですね。

敦賀の人々の近代文化の痕跡でもあったのですね。

また松原が市民の憩いの場となったのはもう少し前だそうで、それが海水浴場の開設だそうです。

『敦賀市史 通史編下巻』によると、松原海岸での海水浴開始は明治十六年頃。加賀山中温泉や但馬城崎温泉より効能が高いという理由で京阪から海水浴客が来たのだそう。今日と病院の院長が「海水浴の効能では敦賀の海が最も優れている」と言ったとされ、皆押しかけ混雑したそうです。

明治二十四年に福井市の山田卓介・牧野洋の両名が中心となって松原に海水浴場を設け、健康保養の場所にしようと運動を始めたところ、地元の有志者は奮発して地元の利益を増進するために、是非我々が運動を起こすべきであると立ち上がったのである。
引用:『敦賀市史 通史編下巻』

その後に公園設置計画が議論、決議上申を続け、明治四十一年四月三十日に貸付(貸付無料、期間五ケ年間)が許可されたと言います。この時に「松原公園」の名称が生まれた考えて良いと『敦賀市史 通史編下巻』は言っています。

とりあえず、福井市の人と敦賀の有志が協力して海水浴場を公式に設置した、ということで良いのでしょうかね。もしそうなら市を越えた、嶺南嶺北を越えた協力が明治時代にあったということになるので良いことですが。

その後、大正になり貸付面積半減、ただし貸付期間は延長され、海水浴場、料理屋兼旅館、飲食店に限って民間使用を許可。地元民の憩いの場として、観光客誘致として整備。大正六年九月に借地返納、県に移管。先だって県は観光資源とするため京都大学の原博士に委託し公園開発設計依頼をする。外国人客の誘致目的も含まれていた。と言います。

また県内の虚弱体質の児童の保養のために、日本赤十字社福井支部が白砂青松景勝地を活用したという歴史もあります。

昭和三年(1928)六月二十八日。史跡名勝天然記念物保存法により、内務省から「名勝 気比ノ松原」に指定。

明治・大正・昭和(戦争・伐採)

気比の松原は、官林としていました。かつては今の松葉町・松原町も気比の松原の内でした。しかし近代に入って松原は徐々に縮小します。

明治31年には約76haの広さがありました。明治40年代~大正時代に、松原村小学校・敦賀商業学校・松原神社境内敷地・道路となり、約65haとなります。
戦争が始まり昭和18年、戦時の船舶用材として松原国有林約32haの立木が払い下げられ、約2,000本の松が伐採されました。戦争は全てを奪っていきますね。
戦後、昭和20 年~30年代に住宅地や道路用地として現在の広さ(約32ha)になったということです。
参考:『気比の松原100年構想』
URL:https://www.rinya.maff.go.jp/kinki/fukui/information/pdf/m100_hokoku-3-1.pdf

戦時中はこの気比の松原に軍事施設が作られており、高射砲もおかれていました。『敦賀空襲・戦災誌』には敦賀空襲艦載機空襲(7/30空襲)のときの証言として、当時敦賀商業学校で製造作業をしていた時、急に地響きがした後に艦載機が真上を通って行ったという証言がされており、その地響きは松原の高射砲によるものだったことがわかったという話が載っています。

当サイトでも敦賀空襲の戦災誌を取り上げた中に、その話を載せてあります。

B29襲来の7月12日敦賀大空襲時には高射砲は全く当たらなかった様子だったことが書かれています。
その高射砲があった場所は今は不明。駐車場とグラウンドのあるあたりという噂がありますが、本当かどうかは不明です。

出典:国土地理院撮影の空中写真(1948年撮影)を加工して作成

上のこんな感じで、気比の松原周辺の白くなっている部分、特に南の大部分が元々松原の場所で、戦時に伐採されてゆきました。

現在でも松原神社付近に松が生い茂っており、当時の様子を見ることができます。
また、松島のあたりもだいぶ松の木が伐採されたようで、以前空襲のお話を専安寺さんへ聞きに行ったとき、「この辺りも昔は松の木が茂っていたらしい」との話で、「今は切ってしまったけどつい最近まで境内にも松の木が何本もあった」ということでした。その話も戦災誌の記事に載せてあります。社寺の境内となると倒木の危険性もあることから、やはり年季が入り朽ちてきてしまった木は切らざるを得ないでしょう。管理は大変ご苦労なさっていると思います。

また戦時の食糧危機のため、学校の校庭に畑を造ったりした中、松原公園南側(現在の松陵中学校付近)は一面サツマイモ畑に変容してしまったのでした。

そんな感じで、この周辺は今の気比の松原よりももっと広大な松原が広がっていたということです。

戦後以降

ずっと『敦賀市史 通史編下巻』を参考にしています。

昭和四十六年まで120万人の観光客が敦賀に訪れ、その大半が海水浴客だったとしています。

その中で海浜学校も設置されたようですが、昭和三十七年から三十八年にかけて松原公園周辺に民宿が増加し、海浜学校は廃止しました。

また昭和三十年代には他に、小規模な植物園・動物園・水族館も置かれたとされています。

  • 植物園は昭和三十一年に100種の植物が増殖される。
  • 動物園は昭和三十一年から三十二年にかけ、さるの家・水鳥の家・かもしかの家などが作られる。
  • 水族館は昭和二十四年の開港50周年の際に作られたものを昭和三十五年に市の直営となり、昭和四十九年に閉館。

様々なものがここにあり、まさに憩いの場となっていたのでしょう。

 

さて、ここからようやく写真が多くなります。
石碑なども見ていくので、その様子をご覧ください。

石碑

気比の松原には多くの石碑がありますが、ここでは一部掲載します。

駐輦の碑

気比の松原石碑
気比の松原石碑
気比の松原石碑

明治二十四年と彫られています。

この石碑に関しては、すぐそばに説明板があります。

それによると、明治天皇が明治十一年に北陸行幸の際にここに訪れ、その後に勝海舟が明治二十四年に訪れ、明治天皇がここに来たことの句を詠んだ事がこの石碑の内容となっているそうです。

説明がないと、碑文だけではなんて書いてあるかわかりませんね・・・。

皇太子殿下御展望所

気比の松原石碑

駐輦の碑のすぐ近くにあります。

松の木の根元にあるので少しわかりにくいです。

内容は碑文のままです。

東宮御成年式記念運動場

気比の松原石碑
気比の松原石碑

このグラウンドが出来た記念の日でしょうか。

大正八年と書かれ、わきには、グラウンドをならすための物らしき物体があります。

でもこれ石です。なにか彫られています。まさか当時のグラウンド整備の用具?

こんな巨石をひいてグラウンドをならしていたのでしょうか。すごいですね。

弔魂碑

気比の松原石碑
気比の松原石碑

今までの石碑はグラウンドにあったものです。気比の松原の石碑はほとんど道沿いやグラウンドにあります。ただしこの弔魂碑だけは違います。松原の奥にあり、おそらく普通の人には気づかれることは少ないでしょう。

昭和二年七月建立。戦争色もだいぶ強くなってきているころでしょう。

気比の松原には高射砲などが置かれた軍の拠点でもあったと先ほど書きましたが、こうして昭和二年時点でもここにはそういった碑などが置かれています。単に景勝地だからという理由もあるとは思いますが。

もちろん弔魂碑や忠魂碑はどこにでもあります。しかし戦争色の強い時代の物が今も気比の松原にはあるという事実は意味のあるものです。

名勝気比ノ松原(名勝指定記念碑)

気比の松原

気比の松原内の道沿いにあります。

石碑には「名勝気比ノ松原」とあります。林野庁の地図では「名勝指定記念碑」と書かれています。

昭和三年(1928)六月二十八日「名勝 気比ノ松原」に指定。

とあったのは、おそらくこのことでしょう。

松原小学校旧正門

松原小学校

道沿いにあります。

今の小学校もそこにありますが、正門が変わっています。

このデザインもそうですが、当時の物でしょうか。戦時中、空襲時にもここにあったのでしょうか。この辺りは機銃掃射を受けた地域なので、気になる所です。

近代の舞台・小話

学生の運動

大正時代にロシア語授業の際、ロシア人教師と生徒との間で問題が起き、生徒が暴言を吐いたことで学校側から生徒へ厳しい処分がなされた翌年、またも外国英語授業指導に不満を持ち、生徒が松原公園で示威運動を行ったという歴史がある。
参考:『敦賀市史 通史編下巻』

国際社会の町、敦賀だからこその問題だったのでしょう。

砂野球

明治から大正に移るころは、グラウンドはもちろんのこと、野球に適する広場などはなく、やむなく松原公園内の砂地を利用するほかに方法はなかった。泥臭い野球や競馬のことを草野球、草競馬などというが、我々の野球は草野球ならぬ砂野球であるといっていたが、敦賀以外には通じない表現であった。
引用:『敦賀市史 通史編下巻』

後に砂野球では練習にならないということで金山練兵場通いになったといいます。

強豪敦賀気比の生まれた敦賀の野球。その敦賀の野球誕生は気比の松原の砂野球からだったのですね。

               

民話「松原の狐」

この気比の松原には、蒙古襲来伝説とは別に、民話としての伝説も伝わっています。

結構有名なようで、『敦賀の民話民謡』には何度も「松原の狐」という題名で掲載されています。

いろいろなバージョンがあるのですが、大体がこの松原、又は松原村でおこることのようです。

  • 町から魚を買って沓見道で沓見へ帰る途中、気づいたら木崎にいて魚がなくなっていた。
  • 沓見の人が気比の松原を歩いている時、道がわからなくなり抜けられなくなった。狐の仕業だと思い、まずいわしを投げたら道が見えて、櫛川の宮の前まで来てまたおかしくなり変な道になり沓見道が分からない。そこでいわしを全部投げたら道がはっきりして帰宅できた。
  • 婦人科の富田先生の所に夜、依頼があり、中島車夫の人力車に乗り松島へ行ったら見覚えのない橋があり家についた。無事出産させたがお礼は木の葉だったので先生はその後夜の往診をしなくなり、中島さんは車夫をやめた。
  • 大島に谷沢勇という産婦人科がいた。夜に往診依頼が来て、向こうが人力車を用意したというので承知した。どんどん松原の方へ向かい、立派なお邸につき、無事出産させた。お礼の金は木の葉だったので、その後先生は夜の往診をしなくなった。
  • 若者が夕暮に櫛川あたりの松原の道を歩いていると一匹の狐が飛び出した。追いかけるといつの間にか美人に化けており、後をつけると美人は百姓の家に入った。障子の穴からのぞいていると通りがかりの人が「何している」と尋ねると、気が付いたらその穴は神社の石灯篭の穴だった。

など結構メジャーな狐に化かされる話が多い印象です。

ただ、医者の個人名が出てきているという点は、何とも不思議。

夜の往診をやめたという理由付けにこの話が生み出されたのか、はたまた急に夜の往診をやめたので、周りの人が創作したのか。それとも本当に化かされたのか。

松原の絶景

青い松と海、等間隔に並ぶ釣り人

気比の松原

広大で美しい浜に青い海。敦賀湾の景勝。
砂からせり出た松の根。垂れるように伸びる松の枝。
等間隔に並ぶ釣り人。

なんとも素晴らしい風景の地です。

松の根はまるで這っているかのよう。まさに「足」という感じです。

冬の雪景色

気比の松原は春夏秋の青々とした松と砂浜と海は素晴らしいものですが、できれば冬にも来ていただきたい場所です。むしろ私は冬の気比の松原が好きです。

気比の松原

吹き付ける浜風を受け一方向に被る雪。

白い世界に黒い松のシルエットが生えます。

まさに水墨画の世界になるのです。

気比の松原
気比の松原

敦賀半島には冬の低い雲。雪が降っているのがよくわかります。砂浜やグラウンドは白一色。そこに生える松原のシルエット。

気比の松原

白から青白く、海へ。厚い雲の向こうは雪が降っています。波は湯気を出して浜に打ち上げます。

気比の松原

浜は波に削られた雪で芸術作品へと変貌します。

気比の松原

4色のグラデーションから気比の松原へと向かい、熱い雲から晴れた青空が顔をのぞかせます。山には雪が積もっています。

気比の松原

こんな中私以外にも散歩をされている方もいます。その瞬間、波が大きくなり、雪の浜が削られてゆく瞬間を目撃すると、この自然の芸術がどのように作られてゆくのかがよくわかりました。

気比の松原

ずっと奥まで続く気比の松原。そして浜。これは弧を描く敦賀の松原の浜でしか見ることのできない景勝なのです。

また、私がSNSでお世話になっている方が言っておられました。

この雪をかぶった松原。これが蒙古伝説の最に蒙古が恐れた大軍勢と白旗に見えたのではないか。

と。なるほど!と思いました。この黒い松のシルエットがまさに大軍勢に見えたのでしょう。

冬の松原は、こうした素晴らしい景色と伝説に思いを馳せることのできる景勝地なのです。

郷土史に言われる松原

此の松原ハ日本三景の次の勝地にして、皆爰に逍遙し、漁者に網を挙げさせ、或いは扁舟を放ちて垂れ、或いハ林間に松叙(釵)を拾いて酒を飲む。秋はまた松蕈・松露尤も美にして、諸菌の類甚だ多し。渚には蒒草(しそう)・空老玖瑰・浜防風其の用を待つ。
引用:『敦賀志』

このように書かれ、昔から景勝地として存在していたのでしょう。

歴史・伝説・民話が刻まれた自然の景勝地

規模が縮小されたとはいえ今なお、平野の海岸沿いにこうして松原が現存しているというのは素晴らしいことです。

開発が進んだ時代にもこうして守られてきたのは、やはり神威の伝説があり、氣比神宮の信仰があり、藩政時代にも保護され続け、戦時にも伐採はされたものの松原は残された。

自然の力でもあり、畏怖でもあり、人々が守って来たからこその風景。

今後も開発が進む時代でしょうが、この気比の松原は残ってほしいものです。

参考文献
『越前若狭の伝説』
『気比宮社記』
『福井県の伝説』
『若越宝鑑』
『敦賀市史 通史編上巻』
『敦賀市史 通史編下巻』
『敦賀郡誌』
『敦賀志』
『敦賀の民話民謡』
『福井県史』通史編1 原始・古代』デジタルライブラリ
福井の文化財 福井県教育庁生涯学習・文化財課

基本情報

最寄り駅敦賀駅からバスに乗り換え松原海岸バス停下車すぐ
自動車敦賀ICから8分
駐車場松原内にあり

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