常宮神社~奥宮・龍燈の松伝説など歴史と梅・紅葉の四季【敦賀市】

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常宮神社

福井県敦賀市常宮神社は海に面し、気比神宮の奥宮であった歴史、朝鮮鐘、蒙古など伝説と歴史が刻まれる神社です。

駐車場は境内にあり。読み方や御祭神、ご利益なども掲載。雪に蝋梅、秋の紅葉、絶景の拝殿など景観も素晴らしい神社なので、そういったものも紹介します。

花見の特集は、桜や彼岸花などの名所・穴場のまとめ記事があります。

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※当記事がそのページの場合があります。

意外と近くにも、名所や穴場があるかもしれません。

御祭神・由緒

祭神:天八百萬比咩神、神功皇后、仲哀天皇
古くより鎮座した神社。延喜式に「越前国敦賀郡天八百萬比咩神社」とあるのが当社である。西浦の総氏神。
『福井県神社誌』には、「文武天皇大賓三年に仲哀天皇、神功皇后を奉祀せしは、往昔、仲哀天皇即位二年、皇后と共に、角鹿に幸し給ひ、三月天皇は紀州に巡狩し給ひしも、皇后は尚角鹿に駐り給ひて、当社を所謂御旅所として、外征の謀をなし給ひしが、天皇四月長門に行幸ましまし、皇后を召され給ひしに依り、六月此の地を解䌫し、一路平安長門に向はせ給ひ、海中に涸珠満珠を得て、天皇に奉り給ふ。」とある。『敦賀郡神社誌』には、「仲哀天皇即位二年二月」とある。
「常宮」という名前の由来は、御神託に「常に宮居し、波風静なる哉楽しや」と宣り給わったという故事に因んだ神託から「常宮大権現」「常宮御前」と尊称した。氣比宮社記にも「常宮皇后」という文がある。
参考:『福井県神社誌』『敦賀郡神社誌』『敦賀郡誌』

時系列の歴史は下記。(同じく『福井県神社誌』『敦賀郡神社誌』『敦賀郡誌』参考)

  • 斉衡三年九月十七日に官社、同二十八日に従四位の神階を授かる。
  • 長和四乙卯年に比叡山圓秀大僧正が社頭を補修。
  • 享禄二年八月に守護朝倉孝景、朝倉景紀が大営繕。
  • 同三年九月東殿の修繕。
  • 天正二年八月十一日炎上。
  • 文禄四年敦賀城主大谷刑部吉継小社殿を造営。
  • 慶長二年二月二十九日に朝鮮出兵の際に得た梵鐘を大谷吉継が奉納(明治三十三年に国宝指定)。
  • 慶長七年福井城主結城秀康が本殿を造営して一郡を勧化し社頭の備えを整える。
  • 同八年正月に秀康が当浦三十三石余りを神領に寄進。付近一帯の山を「御山」と称して百姓の伐採を禁じ、海は拝殿の東西各三町、沖合六町において漁猟を禁じた。
  • 元禄十五年八月九日に千年祭を行う。
  • 寛政十一年七月に輪王寺座主公證親王から常宮大権現の社号額の奉納。
  • 享和二年四月千百年祭。越前名蹟考に「遊行上人等は越前国遍歴の際には必ず当社に訪れ、和歌もある」との内容が記載される。
  • 嘉永五年正月に正三位千種有功参拝し和歌を献ぐ。
  • 明治四年三月に小浜藩から氣比宮摂社と定められる。(この際、神仏習合のときから氣比宮は粟田青蓮院の配下、常宮は比叡山の配下であったため、古来氣比宮の摂社であった事はないとの旨を訴えた。)
  • 明治九年五月三十日に県社に列せられる。
  • 同十年三月二十一日に本宮及び末社の玉佐々良彦神社、天鈴神社、天国津比咩神社、天国津彦神社を氣比宮摂社と定められる。
  • 同二十八年七月二十九日に大洪水で裏山から巨岩が転落し末社のすべてが被害に遭い、絵馬堂は海中に流失、本殿の大床まで浸水したが、然も本宮中門等は厳として異常がなかった。神威の尊厳になるものという。
  • 同三十五年七月に二百年祭。
  • 同四十一年四月神饌幣帛料供進神社に指定。

『敦賀志』には東殿の日本武尊、惣社の気比大神、西殿の武内宿祢、平殿の玉妃命、そして常宮の本宮を合わせて当社の「大五座」と云うとしています。

また、補足として、宮司さんにお話を伺ったところ、興味深いお話を聞かせていただけました。

今の宮司家系は比叡山の僧兵が織田信長の焼き打ちのときにここに逃げてきて、宮司として役職についたことから始まっていると伝えられています。

とのことでした。これは、神仏習合の「常宮は比叡山の配下であったため」という話に繋がってくるお話でもあります。素晴らしいお話をご教示いただけたことに感謝申し上げます。

さらに常宮には奥の院もあり、この仏教とのつながりの話が関わってくるのでぜひこちらの奥の院の記事を見ていただければと思います。

さらに多くの比叡山や仏教との関りが見えてきます。

その他『敦賀郡神社誌』では、敦賀平野から山裾をたどって常宮へ向かう道を「常宮道」を称しており、その道中には櫛川の別宮神社があり、まさに常宮と気比を繋いでいる道となっています。

拝殿は海岸に臨みて高く石垣を築き建てられ、満潮時は恰も浮御堂の如き壮観を呈したが、今は潮流の変遷に依り、海岸は砂浜となった。
引用:『敦賀郡神社誌』

とあり、昔は拝殿の際までが砂浜だったようです。

常宮神社

神社前の浜は一部砂浜となっています。当時の砂浜の面影をほんの少し残しているようです。

常宮神社

常宮神社南西の入口。この時期だけ自動車の駐車場となっているといいます。且つ参道です。古い灯籠が立ち並び、巨木が茂る、まさにこの土地の総社にふさわしい姿です。

常宮神社

巨木は御神木でしょうか。森を形成しています。

常宮神社

駐車場となっている北側には石垣が段になって積まれ、巨石も使われ、巨木がその間から生えているという状態です。昔はここに建物か何かがあったのでしょうか。階段があります。ただしここから先は立入禁止エリアです。

常宮神社

常宮大権現と刻まれた灯籠があります。

常宮神社

「宝暦十寅辰五月」と記されています。1760年ですか。もの凄く古い灯籠です。

常宮神社

橋を渡り、歩道用参道へと入ります。

常宮神社

拝殿です。昔は浜につき出る様にあった拝殿です。今でもここは絶景の場所となっています。後に見ていきます。

常宮神社

拝殿を振り返ると、拝殿を背にして常宮神社社殿正面に立ちます。

常宮神社

手水舎は亀です。

常宮神社

中門です。立派な唐破風屋根の門です。

常宮神社

この中門の扁額には「常の宮」と書かれています。

「常宮」ではなく「常の宮」とすることは、ご神託の「常に宮居し、波風静なる哉楽しや」を意識されているものと思われ、それを目にすることのできる場所となっているように思います。

常宮神社

注文には貝殻が供えられていました。海と深い関りのある神社ならではの光景ですね。

 

常宮神社

階段をさらに登り本殿です。

常宮神社

神功皇后を祀っているだけあって、子授け祈願が主なご利益になっているようです。

それにしても華やかな本殿で素晴らしいですね。

かつては氣比神宮の奥宮とされていた時期があったようです。
氣比神宮の祭神と常宮神社の祭神は同じですし、伝説や位置関係的にも奥宮とされたのも頷けます。常宮神社宮司さんのお話によると今は既に独立した神社となっているとのことで、氣比神宮奥宮の時代は終わっています。

常宮神社

社殿横の彫刻もまた神社の見所。屋根の比率なども、こう見ると面白いです。

 

『敦賀郡神社誌』には、明治二十八年七月の洪水の跡として、本殿前方右と後方に盤石があると書かれています。そのあたりで山崩れが止まったということで、本殿後ろの大石があと一回転もしたら潰れていたというほどだったようです。

常宮神社

確かに本殿の裏に大石が2つありましたが、果してこれがそうなのか。しかし言い伝えを見る限りだともっと巨大な石であるようなイメージです。わかりません。ちなみに本殿うしろの杜にはぱっと見大石らしきものは見当たりませんでした。

総参祭

七月二十二日。
氣比神宮の奥宮の名残にも思えるこの祭り。
氣比神宮裏から御座船という船に神霊代を載せ、世話係は供奉船に乗って、敦賀の漁業者が自分の小船数隻に神宮から授与された白幣を掲げ、常宮へ渡る。常宮拝殿付近の桟橋に船をつけ、御霊代を常宮本殿に奉遷し祭典を奉祀する。

ネット上でも多く取り上げられていますので、祭りの様子はそちらで見ていただいた方がよろしいかと思います。

御祭神「神功皇后」と敦賀周辺の話

『越前若狭の伝説』では、「常宮大権現」という項目で蒙古襲来伝説を紹介しており、立石や門が崎、気比の松原、白鷺の大群などの神威を紹介しています。これは気比神宮や立石門が崎、別宮、松原の伝説とも同じです。

当サイトでは特に、立石・門が崎の記事に書いてあります。

 

その他神功皇后や御祭神に関係する話としては…

  • 常宮のある敦賀半島最先端の立石岬付近。そのあたりに「三前神社」という神社があるとされ、これが蒙古襲来伝説と関係があるとして言い伝えられているようです。祭神も同じであると思われますが、直近の資料では海の神とされているということです。
  • 美浜町と若狭町の先端に常神半島という場所があり、その先端にある常神という漁村の常神社が常宮神社と同じ祭神を祀っています。名前も似ていますね。もっと深い関りのある伝説があり、神功皇后が朝鮮出兵の際、敦賀を出てこの村の離れ島である御神島に一泊したという話があり、それから御神島に常神社が祀られたというのです。のちに村に移したといいます。昔は常宮から神主がきて祭典を行ったとも。現在の宮司さんも常神社の御祭神のことをご存じでしたので、今も全く関りがないというわけではなさそうです。

こんな感じでかなりの広域に、神功皇后の伝説が伝わっており、この常宮の神はこの辺り一帯の伝説とかかわりを持っているとも言えます。

境内社

常宮神社

西殿の武内宿祢。

常宮神社

東殿の日本武尊。

常宮境内社

本殿裏向かって右、平殿の玉妃命をはじめ…

常宮神社

総社宮(譽田別尊・御食津神)、二御兒神社(蛭子尊・素盞嗚尊)、天国津彦神社(磯良大神)、天国津比咩神社(龍女神)、天鈴神社(住吉大神)、玉佐々良彦神社(大鷦鷯命)、伊覩神社(伊信露貴彦神・五十跡手神)、神明神社(伊勢両皇大神)、佐田彦神社(佐田彦太神)、竹生島神社(市杵島姫神)。

以上の神社があります。

境外神社

常宮神社には「境外神社」という立ち位置の神社が存在します。

その神社があるのは、序盤で見た現在では立ち入りできなくなっている森の奥にあるといいます。

今回私はその森の奥には行けませんでしたが、SNSにてかつて立ち入ることのできた時期に行かれた方がおり、当時の写真をご提供くださりました。

本当にありがとうございます。

この「境外神社」の項については、そのご提供いただいた写真を掲載いたします。

金刀比羅神社
※ご提供写真

森の奥はこのようになっており、鳥居が立っています。その奥に山の上と通ずる道が続いていたようです。ちなみに今は危険のため立入禁止なのだそうです。

扁額には「金刀比羅神社 大山咋神社」の名が記されています。

境外神社 無格社 金刀比羅神社
祭神 大物主命、崇徳天皇
概要 当社は常宮神社社地にて、境内に連接している、西山地籍の山頂に鎮り、明治九年七月無格社として存置され、社殿は東南面して鎮り、境内は七十坪あり、氏子は常宮一区である。
引用:『敦賀郡神社誌』

『敦賀郡誌』には「境外末社」とも書かれています。

金刀比羅神社
※ご提供写真

郷土史通り本当に山の上にあるようです。

金刀比羅神社
※ご提供写真

金刀比羅神社。狛犬や灯籠が年代の古さを物語っていますね。郷土史では創建は不詳となっています。

金刀比羅神社
※ご提供写真

さて、気になることがあります。金刀比羅神社の横にどうやら大山咋神社があるのです。鳥居にも書いてありましたね。

この大山咋神社、郷土史には一切載っていません。

昭和8年の『敦賀郡神社誌』、昭和11年の『福井県神社誌』に載っていないのです。ということはその後の時代につくられた神社であると考えられます。

大山咋。比叡山と関係の深い神で、常宮もまた比叡山と関係があるので、そういった関係で祀り始めたのか。それとも山の神として祀り始めたのか。

かつて「御山」といわれた西方が岳。この山の神が常宮にいないのは確かに不自然ではありました。その神なのでしょうか。なかなか興味が尽きません。

百度石
※ご提供写真

また金刀比羅神社境内にはこのような百度石もあるようです。百拝詣りのための石。この山の上にあるからこその百度石ですね。金刀比羅神社の海上安全のための百拝詣りの基点となったのでしょうか。

このように、今は一般人が入れないところもあります。

これらの風景をカメラにおさめて、ご提供くださった方にあらためて感謝申し上げます。

大谷吉継との縁

朝鮮鐘

常宮大谷吉継

朝鮮鐘一口
銘に大和七年三月、日菁州蓮池寺鐘也云々 文禄の役豊臣秀吉戦勝を祈り、凱旋の時、大谷吉継をして、奉納せしもの。明治三十三年国宝に指定せらる。
引用:『福井県神社誌』

国宝
銅鐘指定明治三十三年四月七日。等級甲種四等、鐘は新羅の古鐘なり。高さ龍頭より三尺八寸、廻六尺九寸五分、懸頭獣形面を付し、又空穴あり、身の上方四面に乳頭あり、各面九乳、合て三十六、其間に方形を画して銘文あり、身には両面に天女を付す。銘文漫漶して読むべからざる文字多し
引用:『敦賀郡誌』

慶長二年二月二十九日に朝鮮出兵の際に得た梵鐘を豊臣秀吉の命によって大谷吉継が奉納したものとされています。

また、朝鮮鐘についての鐘銘が『敦賀郡神社誌』に掲載されています。

その中に「太和七年三月」とあります。
「太和」は新羅の年号で、太和七年は西暦833年。

ちなみに『敦賀郡誌』では、「七年は我朝孝徳天皇白雉四年に当る」としていますが、これは653年なので誤表記だったのかなとも思います。

かなり有名なもので、これを目的に来られる方も少ないでしょう。

陣釜

朝鮮鐘が有名なので影に隠れがちなのですが、もう一つ大谷吉継に関係する物が神社にあります。

常宮大谷吉継

陣釜 文禄役の陣釜と伝ふ 慶長二年二月大谷吉継寄進
引用:『敦賀郡神社誌』

とあり、朝鮮鐘と同じ日に寄進されたもののようです。

こちらは外にあり神社の参拝と共にいつでも見ることができます。

神功皇后の鐘の伝説

 むかし神功皇后が新羅を征伐なさった時、韓土から釣鐘をもらって来られたが、常宮の近くで海中へ落としてしまった。以後漁夫が朝早くその近くへ行くと、海底から鐘の鳴る響が聞こえてくる。叉、海底に入って探るとどんなに澄んでいた海水でも、黒く濁って底が見えなくなるということである。
引用:『福井県の伝説』

先に見た通り、朝鮮鐘は大谷吉継の話が有名、というか史実ではそれが語り継がれていますが、神功皇后も鐘を持って帰ってきたという伝説のようです。金ヶ崎にも似たような伝説があり、金ヶ崎という名前もそこから取ったともされていますね。

神功皇后と関わりの深い敦賀常宮であり、実際に朝鮮鐘が奉納されている常宮なので、こういった鐘の伝説が生まれたのでしょうか。それとも、大谷吉継の前から朝鮮鐘に縁のあった神社なのでしょうか。

龍燈の松

正月の竜燈

『敦賀志』には、正月におこる「竜燈」というものについて述べられています。

毎年正月元日ノ暁、出処ハしらず、一団の霊火遙かに海面を照し、波上一尺許(ばかり)にして、高低のまにまに、いと穏やかにして、海門よりまげて本社の前ニ至り、稍(やや)久しく、復(また)もとのごとく帰り去る。是を竜灯と称して、大晦日夜半過ぎより、皆浜へ出でてむれ観る事なり。いかなる風雪海運の夜といえ共、古より終に闕くる事なし。是、神威貴き所、豈、凡慮を以て天地の機をはかる事を得んや。
引用:『敦賀志』

この龍燈の松の伝承については、『敦賀郡神社誌』や『敦賀郡誌』にも載っているほど有名な話です。もちろん私が特に参考にしている『越前若狭の伝説』『福井県の伝説』にも載っています。これは次の項で見ていきます。

いずれにしてもこの不思議な伝承。神の地且つ海の郷にふさわしい現象を表しているのでしょう。

伝説

 常宮の卯右衛門という人が、元日の朝早く、除夜の鐘が過ぎたか過ぎぬころ、第一番に初もうでをして、ことしの幸運にあずかろうと、磯べで海水にて身を清め、お宮の方へ歩いて行くと、美しくけだかい女の人が松の根に腰を下ろして休んでいた。
 「あなたはどこからお越しになられましたか。」と問うと、女人は、「わたしは大神にゆかりのある者で、毎年元日の朝お参りしているが、ことしはあなたに姿を見られ、いと口惜しい。」と答え、海上に浮かび出て、東の方に姿を消した。彼女は竜宮の乙姫であったのだろうと人はいった。それ以来元日の神火が海上に現われ、竜灯の松にかかるのである。
引用:『越前若狭の伝説』より『伝説の敦賀』

常宮神社の社頭の前にさがり松という松がある。枝が海へさし出ている。これは海中から竜灯をささげるとき、この松の枝へ火が上がり、それから内陣に移る。
引用:『越前若狭の伝説』より『寺社什物記』

不思議な伝説。
『敦賀志』にあった話の始まりの話なのでしょう。

またちょっと違った伝説もあります。

 むかし、常宮の付近に年取った母と、気立てのやさしい娘とがあった。二人は毎日働いて暮らしていたが母は風邪がもとで病床についた。娘はいろいろ手をつくしたが、母の病は次第に募るばかりであった。娘は悲しみのあまり途方に暮れてしまった。
 ある夜、看護に疲れてウツラウツラと見る夢の中に白衣を着た神々しい仙女が現れて、「常宮神社へ毎日詣でたら其の中にお宮に何か変わった事があるから、それを見たら母の病気は全快するであろう」。と教えて煙のように消えてしまった。娘は夢からさめて若しやと思ったが、其の翌日母の眠っている間にそっと家を出た。そして其の日から毎日常宮に参拝したが何も変わった事がなかった。
 やがて其の年も暮れて一月元旦となった。何時もの通り参拝を終えて帰ろうとした時、全身白衣に蔽われた気高い天女が現れて、松の木の上に御燈明をあげると海中に消えてしまった。その日から母の病はメキメキと良くなった。このことを聞いた人々は娘の孝行をほめ、また海中から現れた天女は龍宮の乙姫様が、元旦の御祝に松の木に御燈明をあげに来られたのであろうと、其の松の横に「竜灯の松」と書いた石碑を建てた。其の翌年から村の人々は元旦の早朝には御燈明を拝みに行く者が少なくなかった。
引用:『福井県の伝説』

『敦賀むかしばなし』には、卯右衛門が出てくる方の伝説の補足のような感じで続きが書かれています。

その内容によると、

  • これ以降、除夜の鐘が過ぎたころに神火が現れ、女性が腰かけていた松にかかると言われだしたという。
  • 龍が伏せている格好に似ているところからこの名前がついた。
  • 御神火は年によって大きさが変わり、海上三十センチぐらいの高さ海面すれすれを飛び、常宮本殿の方へ消えていくという。
  • 明治時代になっても、これを一目見ようと大晦日の夜遅くに敦賀の海辺に多くの人が集まったという。

明治でもこの不思議な現象が信じられ、信仰され続けていたのですね。

龍燈の松

現地の石碑に「龍燈」という文字を見ることができます。

何が書いてあるのかはよくわかりませんでしたが、「龍燈」だけはわかりました。

竜灯の松の現在

『越前若狭の伝説』によると、竜灯の松は老朽のために昭和四十三年に切ったとしています。
ただ、現地へ行き、宮司さんに龍燈の松のことをお聞きしたところ、かつてその松があった場所を教えてくださりました

拝殿の横に生えていて、拝殿にかぶるような感じで立っていた。
周辺に生えている松は、その龍燈の松の子孫にあたる松が多い。
石碑などは残っていない。

とのことでした。

龍燈の松

拝殿の境内から見て右側。その中の

龍燈の松

この茂みの辺りに竜灯の松があったということです。

龍燈の松

拝殿に覆いかぶさるように、この辺りにあったのですね。むかしはこの辺りも砂浜だったということで、例の伝説のように波打ち際でもあったことでしょう。

伝説の、幻となってしまった松に思いを馳せます。

常宮神社

この周辺の松が龍燈の松の流れを汲んでいる。たしかに元々ここが海岸だとしたら、皆海に飛び出していることになります。今は道路があるので、低い位置に枝が伸びることはできませんが、道路の真上にかかるこの松たちもまさに竜灯の松に近い姿なのでしょう。

卯右衛門の初もうでにしても、母娘の孝行話にしても、その不思議な話がここまで伝えられて、明治時代まで信じられ、その松自体が昭和まで現存し、いまでもその位置が伝えられ続けているというのは素晴らしいことです。

境内

常宮神社の滝

現地では不動の滝とされています。

『敦賀郡神社誌』には「常宮の瀧」と書かれ、

渓澗は巨岩大石点綴して奇勝を為し、渓流懸りて瀧となり、水が清澄で、当時は禊によろしく、夏時は銷夏によろし。世人之を常宮の瀧と呼んでいる。
引用:『敦賀郡神社誌』

という内容で掲載されています。

常宮神社

澄んだ清流が流れています。巨木と石、石段がその様子をさらに素晴らしいものに仕上げます。

常宮神社の滝

蛇縄も掛かっています。この滝、清流も信仰の対象なのです。

滝近くの石仏

常宮神社
常宮神社の石棺跡

此の瀧の幽響を伝ふる付近一帯の社域は、生い茂った老樹喬木に包まれ、且つ其辺には、古墳の一部と覚ゆる、大なる石槨があって、之れに石仏(地蔵尊)が安置され云々
引用:『敦賀郡神社誌』

まさに郷土史通りの光景です。滝のすぐ近くです。社殿より橋を渡った方にあります。

常宮神社の石棺跡

郷土誌によると、この石が古墳の跡と思われるとのこと。その中に石仏が祀られています。

郷土史を信じるのであれば、そのままの光景。感動を覚えます。

石段

常宮神社

本殿前のこの石段について、『敦賀郡神社誌』で言及がなされています。

本殿中門の間に設けられた、七級の石階は、延享元年九年に設けられたのであろう、石刻銘がある。
引用:『敦賀郡神社誌』

1744年。そんなに古い石段が今も現役なのですか・・・。それとも横の部分だけ当時の物だったりするのでしょうか。

常宮神社

たしかに刻まれてありました。「延享」というのが見えます。すごいですね。

               

美しき風景

『敦賀郡神社誌』にて、この常宮の風景をかなり褒めており、ここから見える敦賀平野と山々の様子を言葉豊かに表しています。「水郷」とも称し、その絶景は今も続いています。

それが最もわかるのが、やはり拝殿からの眺めでしょう。

常宮絶景

素晴らしき敦賀湾。東浦から敦賀平野部まで一望できます。そしてそれと同時にこの深い湾がいかに素晴らしい景観であるか、重要な港であるかが理解できる場所です。

この拝殿も素晴らしいですね。自由に上がることができます。

美しき四季

さて、常宮といえば歴史だけではなく、四季の風景も素晴らしい神社です。その様子を見ていきます。

雪の春 ~紅梅と蝋梅~

常宮雪と梅

冬の常宮神社。

敦賀半島西浦の冬は、敦賀平野に比べて積雪が多いといいます。宮司さん宅の方々に伺ったところ、2023年1月29日の大雪の日でも「まだ少ない方」とおっしゃっていました。

そんな冬の寒さ厳しい時期に、常宮では一足早く春の息吹を感じることができます。

これはSNSと敦賀のとある海産物を取り扱うお店の方に教えていただいたものなのですが、「常宮の雪と蝋梅が美しい」との事をご教示いただき、ぜひ見てみたいとのことで足を運びました。雪に映える蝋梅と紅梅。想像以上の美しさです。

常宮雪と梅
常宮雪と梅
常宮雪と梅
常宮雪と梅
常宮雪と梅

降雪が重なり、梅の花に雪が載っている時がおそらく一番美しいと思われます。

そのタイミングで来ることはかないませんでしたが、それでも青空と雪に映える梅の花を見ることができたので、これもまた美しき風景といえましょう。

常宮神社

常宮神社とこの風景を守って来られた方、そしてこの風景をご教示くださった方に感謝申し上げます。

秋の紅葉

常宮紅葉

先ほどからちらほら見えていたとは思いますが、この神社は紅葉もまた美しい神社となっています。

紅葉はもちろんですが、社殿や灯籠など、映えるものが多く配置されているので、まさに日本の風景を感じることができるのです。

常宮紅葉
常宮紅葉

素晴らしき風景に神への畏敬すら覚えます。

四季と歴史と神を感じる

敦賀を語るうえで外せない土地である常宮神社。

それはまさに敦賀の歴史、敦賀の伝説、敦賀の神話。そして敦賀の四季、敦賀の絶景が一同に集合し、凝縮された場所なのでした。

これからもこの常宮神社は、敦賀の町と海を見守り続けてゆくことでしょう。

参考文献
『福井県神社誌』
『敦賀郡神社誌』
『敦賀郡誌』
『敦賀志』
『越前若狭の伝説』
『福井県の伝説』
『敦賀むかしばなし』

協力・情報提供
常宮神社
敦賀の方

基本情報

最寄り駅敦賀駅からバスに乗り換え常宮バス停下車すぐ
自動車敦賀ICから15分
駐車場境内にあり

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