別宮神社(原パンシャ鼻)鎮守社の歴史由緒と現在の様子【敦賀市】

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福井県敦賀市の敦賀平野の最西に原集落があります。

今回はその原集落の氏神様である「別宮神社」に訪れます。

この神社は一集落の氏神ではありますが、その規模や境内は立派で、とても大きな神社であろうという印象を受けます。

そんな別宮神社についての由緒を見て行きながら、現地の様子も記し残したいと思います。

地理

神社と原集落の地理

別宮(原)鳥居

別宮神社があるのは、原集落南西端の山の麓です。

原集落は昔、鎌倉時代には櫛川村の一部とされていましたが、桃山時代になると既に独立した集落となりました。

そんな原の北東にある、かの有名な西福寺前の通りから、まっすぐ道なりに進むとこの別宮神社へたどり着きます。村の重要基点が繋がっているということです。しかも村を護るように端と端をつないでいます

神社の見た目

別宮(原)境内

山麓にあるので、神社も少し上の方にあります。

まず、少し坂を上ると椿の花があり、そこから石段と鳥居があります。そのさきに高台の広場があり、さらに上に石垣が積まれていて社殿が建てられています。

またこの神社の石垣が立派で、まるで城の石垣かというぐらいの大きな立派な石が積んであります。

立派な石垣や境内のしっかりした構造から、かなり重要な神社だったのではないかと思います。

では、この別宮神社にどんな由緒があるのか見て行きましょう。

由緒

別宮(原)正面

広場からさらに上に社殿や燈明舎?があります。

祭神仲哀天皇、神功皇后、素佐之男命
別名「別宮大明神」
『敦賀郡神社誌』によると、昔はこの別宮神社は先ほども記したこの区の大寺「西福寺」の鎮守社だったということです。しかも一度悪尾谷という字名の地に遷された後、さらに今の地に遷されて戻ってきているということです。

いろいろあったんでしょうね。

その悪尾谷からは祭器とか礎石がでているらしく、遺物も残るようです。

境内には六地蔵灯籠みたいな遺物もあるみたいですが、私は気が付かず写真撮っていません。「西福寺の鎮守社」というのであれば、そういうものがあってもおかしくないでしょうね。

西福寺の近くには横穴も発見されていて、この地域の重要性が見えます。

「別宮」の名の言われ

別宮(原)社標

さて、この「別宮」という名前ですが、なぜ「別」なのでしょうか。なにか本宮なるものがどこかにあるのかと思わせる名称です。

では、この神社の本宮はどこなのかと言うと、

  • 『敦賀郡神社誌』では、気比神宮と常宮神社という口碑。
  • 『御大典記念福井県神社誌』では、常宮神社を本宮としたことによる社号。

ということになっています。

どっちが正しいかはわかりませんが、どちらにしても常宮神社が本宮ということは確かなようです。

境内社「八坂神社」

八坂神社(原)

さて、この別宮神社には一つ境内社が存在します。それがこの「八坂神社」です。

全体的に黒塗りされています。小さめの境内社らしい大きさではありますが、その存在感は偉大です。なぜなら、メイン参道を通って鳥居をぬけ、別宮社殿階段に行くまでに目が合うのがこの八坂神社だからです。

絶対に目に入ります。

昔は「牛頭天王社」という呼ばれ方もされていたようで、こちらもかなり昔からあるみたいです。

というよりも、別宮神社がこの区の氏神となる前は、元々はこの集落の鎮守社がこの八坂神社だったようです。

「別宮神社」は西福寺の鎮守社だったので、村の鎮守社は「八坂神社」だったということなのでしょう。

八坂神社(原)社標

『敦賀郡神社誌』によると、明治7年に別宮神社が村社になったので、八坂神社が末社となったとされ、その後大正2年に本宮に合祀されたとされています。

ただ今はまた、境内社として別宮本殿とは別に祀られています。

この『敦賀郡神社誌』ですが、昭和8年に出版されています。それ以降に再び八坂神社が境内社として祀られ始めたということなのでしょう。

八坂神社は元は区の鎮守社。
この原集落の人からすれば、「八坂神社」は親しみのある神社だったのでしょう。それもあって、再び境内社として祀り始めたのかもしれません。

謎の字名「パンシャ鼻」

個人的な考え

この原の別宮がある場所にだけ、なぜか小字名が残されています。

それが「パンシャ鼻」という字名。

神社にだけこういう字名が残されているというのはそれほど驚くことでもないですが、私が気になったのが、この「パンシャ鼻」という何とも謎の名前です。

これの真相はわからないままです。

ただ「鼻」というのは、土地が着きだした部分の意味らしく、たしかにこの神社の場所は、山の森が少し突き出している所にあるというのでわかります。

ただ、「パンシャ」っていったい何でしょう

何かの訛りか、敦賀の港町つまり外国の言葉が関係しているのか。全く分かりません。知っている方がいればいいのですが・・・。

SNSで反応してくださった方々の考察

この「パンシャ鼻」について、SNSの方でも発信してみたところ、数名の方が反応してくださりました。そしてその方々の考察がとても可能性のあるものだったのでここに紹介します。

参考リンクを貼っておきます。

https://twitter.com/kouzukeno893/status/1457699158781878274(このリンク先のツイートにコメントやリツートで反応してくださりました。)

その節はありがとうございました。

リンク先で見ていただければ、会話の内容などがあるのでわかるとは思いますが、ざっくりとこの時教えていただいた「パンシャ鼻」の「パンシャ」由来の可能性を箇条書きで書かせていただきます。

  • 能登発祥とされる「砂だらけの意」の「万砂(ばんしゃ)」が訛ったものの可能性。
  • 中国・朝鮮発祥で「の意」の「房子(ファンズィ、パンジャ)」が由来の可能性。

これはどちらとも非常に有力だと考えます。

これもまたSNSで反応くださった方の意見と知識を参考にしていますが、以下の理由で可能性が高いとします。

  • 万砂(ばんしゃ)の場合
    かつてはパンシャ鼻の辺りまで、海があったとされ、砂が多い岬だった可能性が濃厚。また、敦賀には中国を迎えるための幻の「松原客館」があったとされる一方、能登にも「能登客院」があり、全く同じ用途で使用されていた。また石川に「都怒我阿羅斯等」が祀られる神社あり。(詳しくは下の「房子」参照)敦賀と能登は深い関連性があると思われる
  • 房子(パンジャ)の場合
    敦賀と朝鮮との関りは古来から強く、「敦賀」という名前も「角鹿(つぬが)」から来たとされ、朝鮮の王子「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」が渡来したことに由来とされる。昔からの港で渡来人も多く、敦賀各地に朝鮮語源の名前や地名が残っていると思われる

以上のことから、「万砂(ばんしゃ)説」「房子(パンジャ)説」どちらも可能性があるのです。

おもしろいですね。

鎮守社のからなる歴史

今回見てみた別宮神社は西福寺という区の大寺と、八坂神社という村との鎮守社という位置づけが作り出す歴史由緒でありました。

歴史とともに変わる集落の氏神様。さらにはその別宮の本宮も存在するという、つながりの広さ。

そんな様々な絡まりがこの別宮神社に詰まっているのでしょう。

そういった歴史が八坂神社境内社などで、近年でも加えられていくこの場所は、敦賀平野の端の集落でありながらも、歴史を進めていくのでしょう。

参考文献:『敦賀郡神社誌』『御大典記念福井県神社誌』

アクセス

最寄り駅は、JR敦賀駅からバスに乗り換え西福寺で下車徒歩5分です。

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近くには、もう一つ横穴があります。こちらについては地域の方からお話を聞けました。併せて見に行ってもいいかもしれません。

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