福井県敦賀市松原地区松島の一区画に木々が生えた野があり、ここには多くの墓が散らばっています。まるで古来の墓地をそのままこの時代まで持ってきたような、現代の区画整備された墓地とは違う、古い墓地です。ここはかつて刑場や仕置き場があった場所でもあります。
今回はそんな来迎寺野の墓の歴史を見ていきます。
地理
来迎寺野がどこにあるのかというと、気比の松原の近く松島区になります。突如現れる森の中に多数の墓が散りばめられている場所。それが来迎寺野です。来迎寺の裏にあり、近くには武田耕雲斎の墓や松原神社があります。
来迎寺野には今道が貫いており、アクセス抜群です。
来迎寺野の墓の歴史
枯れている大松がまた雰囲気を駆り立てます。茂りに茂った草木の中に墓が点在する来迎寺野は、まさに古くから続く「野」の墓なのです。
その歴史は『敦賀志』にすこし書いてあります。
昔の三昧は(無常所を云う)小谷の東、今の茶ノ木原なり。寛文十二年(1671)、気比宮へ近きを恐れて、松原の内の二矢橋の辺へ移せしを、程なく今の来迎寺の西へ移されたり。
引用:『敦賀志』
元々小谷(おそらく今の湯山あたり?)にあったものを来迎寺野に移したのですね。寛文十二年以降からなので、そこまでもの凄い古いというわけではありませんが、江戸時代から続く墓地の歴史があるのです。
来迎寺野は刑場でもある
来迎寺の西に郡中の三昧あり、又藩政時代の処刑場なり。
引用:『敦賀郡誌』
斬罪刑や敲(たたき)の刑はここで行われていたようです。
敲は仕置場(来迎寺野)にて罪人を裸体にして俯臥せしめ、手足を杭に縛して動くこと能はざらしめ、二人左右より三尺許の竹を、苧縄にて巻きたる者にて、其尻を五十ずつ叩く。別に数え取り者ありて之を数う。その数え声にて叩く者なれば、五十七十と飛び数うることありとも、其呼ぶままなれば、叩かるる者も必百ならず。身柄よろしき者は賄賂を用い、敲も軽く叩き、数も少なく、身上よろしからず、賄賂も出来ず、又容貌憎き者は敲き方も強きことあり。
(中略)
叩かれたる後直に歩む者もあれども、中には「もつこ」に載せて村継にて送ることあり。又此刑に処せられたる者は、左手に=かく入墨するなり。
引用:『敦賀郡誌』
斬罪は小浜の指揮を受け、其余は敦賀表にて処分したり。斬罪の日取りも小浜頼両日程定めて来りしを、正蔵寺に命じて選定せしめたりき。
(中略)
斬罪は来迎寺野にて行い、同心刀を取る。其時検士として町奉行一人目附一人之に臨む。
引用:『敦賀郡誌』
有名な水戸烈士(水戸浪士)の武田耕雲斎と天狗党員併せて353名が処刑されたのもこの来迎寺野です。
来迎寺野と敦賀の二大墓地
敦賀町には多きく分けて、古くから続く2つの墓地があります。その一つが来迎寺野。もう一つは天筒山麓の湯山です。
これは「野」と「山」という、葬送地の名前につく基本形を両方揃えていることになります。敦賀は野と山があるということですね。
来迎寺野の現状
六地蔵があり、葬送の地の雰囲気が漂います。
墓は区画など設けず、ただそこに置いてある、という感じです。中には家の名を書いていない墓もあります。福井でよく見かける「○○家之墓」という感じではなく「納骨」とだけ書いてあるような墓もかなりあります。
中に入ると、道も舗装されておらず、昔の墓ってこんな感じなんだろうなぁ、と思わせてくれるような風景です。
草茂りツルに巻き付かれた墓石もあります。まあ、あまり良いとは言えない状態なのでしょうが、私個人的には古い「野」という感じで嫌いじゃないです。
枯れている木も良いです。奥にも見えないまでに墓墓墓。これぞ「野」。
古い墓石からは時代を感じます。
もう草が茂りすぎてどうやって行くのかわからないような茂みの中にも墓石が点在。
好きですねぇ、この風景。
立派な石塔の中には、巨大な五輪塔もあります。有名な人物や俳諧人もここに葬られているということですから、庶民から位の高い人までが葬られる平等な墓地だったのでしょうか。
来迎寺野は来迎寺の西側にあるということではありますが、来迎寺の南にもあります。
いまよりももっと広かったのでしょうか。
周りの住居の境界付近には石塔の破片やもの凄い小さい石塔が置かれています。やはりもっと広く、住居など何もない「野」だったのですね。
この辺りは葬送の雰囲気が立ちこめています。
来迎寺野は火葬か土葬か
さて、私はこの来迎寺野の墓を見た時に、「ここは土葬なのか?」と思いました。というのも、見てわかる通り一部の墓石が傾いているのがわかります。しかも地面に埋まっていくように傾いているのです。
これは土葬単墓制の墓によくある典型的な状態で、土葬して朽ちた棺や肉体の分空洞が陥没し、上にある墓石が埋まって傾いていくのです。
近くには木があるので最初は根っこで傾き始めているのかとも思いましたが、それだと埋まるのではなく、浮き上がるはずです。しかし元々墓をある程度埋めて設置していたなら、その分浮き上がるとまるで埋まり始めているように見えるという可能性もなくはないです。
敦賀市金ヶ崎(もと泉村)は浄土真宗で火葬を行っているが、明治はじめのころには埋葬しており、そこを来迎寺野と呼んだ。
引用:『若狭の民俗』
このように書かれている郷土史もあります。
この「明治はじめのころには埋葬」というのは気になります。この言い方だと、「明治初めころだけが土葬」ととらえられる表現です。私の憶測ですが、明治6年から8年までの2年間「火葬禁止令」が出ました。この時期がその来迎寺野の埋葬時期なのではないかと考えます。
ということは元々は火葬だったのでしょうか。
その他の郷土史にその答えとなりそうなものが書かれていました。
正保から萬治の間に町屋建ち並び、名の示す通り「生洲」を川にしつらえ、茶商いに諸国より寄り集まる商人や茶問屋、茶仲の商談の席を貸し、肝煎利右衛門なる者割烹の腕を振るうて鮮魚を料理し、料亭軒をつらね、商人群衆の巷であったと謂われている。明治時代に続いた料亭は萬仁、玉川屋などその名残である。
其頃疋田より舟川開かれ、下り茶は舟によって敦賀城西側の堀より真願寺裏を廻って赤川(池子町)に荷揚げしたもので、八十八夜を過ぎて、やがて新茶の出回る頃ともなれば舟川によって運ばれる下り茶は赤川岸に山と積まれ、売屋買屋仲人立ちまじりて非常の混雑と賑わいを呈したものである。為めにその頃の来迎寺野の火葬場への往還となっていた茶町筋を避けて特に「そうれん街道」とて池子町と茶町の中間、ござ屋南口より九尺道を開いてその通路としたとさえ謂われている。
引用:『敦賀経済発達史』
敦賀の運送の賑わいと葬送の地との地理的な関係がよく書かれている資料でした。そこに「来迎寺野の火葬場への」とありますね。「正保から萬治の間」の話でこのように書かれているのです。江戸時代は火葬だったということでしょう。
しかしちょっと時系列がおかしいですね。先ほどの冒頭で見た「三昧が移された」という話です。
来迎寺野は元々火葬場だった?
先に見た「寛文十二年(1671)、気比宮へ近きを恐れて、松原の内の二矢橋の辺へ移せしを、程なく今の来迎寺の西へ移されたり」との時系列。時代を見てみましょう。
正保(1644~1648)、万治(1658~1661)、寛文(1661~1673)
つまりここから考えると、寛文十二年(1671)までは来迎寺野は「墓地」ではなく「火葬場」だったということでしょうか。それまでは周りは繁栄しました。しかしのちに「墓地」自体が移され、来迎寺野は完全な葬送の地となりました。
なので、「正保から萬治の間に町屋建ち並び」という文の通り、万治の次「寛文」を境にこの周辺環境が激変したのでしょう。
であればやはりこの地では火葬が主流だったのかもしれません。
昔を伝える野墓
こういう来迎寺野のような墓地を「野墓」といいますが、こういう野墓はもう少なくなってきています。
区画整理が進み、墓地の整備がされ、草木は伐られ、菩提樹すらも伐られ、無縁墓は撤去される。
それはある意味時代に沿った良いことなのでしょう。
しかしこういった野墓は古き墓地を今に伝える、古の姿を見せてくれる貴重な空間だと思うのです。
いずれは来迎寺野も区画整理されるのでしょうか。
この風景を見られるのも、あと少しかもしれません。
参考文献
『敦賀郡誌』
『敦賀志』
『敦賀経済発達史』
『若狭の民俗』
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