鴻雪爪という人物 武生龍泉寺で修行~福井孝顕寺で幕末藩士の相談役

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鴻雪爪という人物 武生龍泉寺で修行~福井孝顕寺で幕末藩士の相談役

鴻雪爪(鉄面清拙)という幕末から明治の偉人を知っているだろうか。鉄藍無底の弟子にして福井の越前とゆかりがあり、武生龍泉寺・福井孝顕寺に深い関わりがある。明治日本の宗教界に尽力した人物である。

最初に

鴻雪爪
国立国会図書館ウェブサイト『方外功臣鴻雪爪』から転載

鴻雪爪という人物は幕末~明治に日本の仏教・神道を救った人物であるとされ、界隈ではかなり有名な偉人とされています。なので、その資料もさることながら、記録も多く残る方です。

流石にこのサイトの記事で鴻雪爪の生涯や功績をすべて取り上げることはできないので、主な功績や経緯、福井県が関係することなどに絞ってここに記録していこうと思います。

鴻雪爪という名について

まず歴を見る前に、この鴻雪爪という名前について見ていきます。

もともと鴻雪爪は禅僧で、禅僧時代は主に鉄面清拙(てつめんせいせつ)といっており、「鴻雪爪」というのは大政奉還以降辺りから使われ始めたともされます。

この「鴻雪爪」というのは、「雪泥鴻爪」という語から取ったものとされます。
「雪泥鴻爪」とは、渡り鳥が雪や泥に爪跡を残し帰って来る時の目印にするが、翌年には跡形もなくなっている事、痕跡も何も残らない事であり、そこから人の世が常に変化していることや人生の儚さの例えになっている言葉です。『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』によると、禅の世界では「修行や悟りの跡形を残さない」という表現に例えるといいます。

鴻雪爪の出身

鴻雪爪の出身は偉人を多く輩出している、瀬戸内の因島。かつて後白河院が御領とし、400年間御領地として寺院などが建立されてきた土地。

その因島に文化十一年(1814)正月元旦に生まれる。本姓は宮地氏、幼名不明。(祖先宮地氏は醍醐天皇皇子高明親王より出て、武臣となり源姓を賜わった。)
父は長光、通称與三兵衛、蘇功。蘇功新開を行った人物。母は木原氏。鴻雪爪はその次男として生まれる。
宮地家は豪農として知られていたが、長男は早くに没した。家は弟の三男秀明が継いだ。

出家と無底和尚

鴻雪爪は六歳の時、石州津和野大定院無底(鉄藍無底)に就いた。無底和尚は一代で名を馳せた曹洞宗の碩徳である。出身は鴻雪爪と同じく因島。俗姓は小林。宮地家と繋がりがあったともされ、無底和尚が帰省の際、一見して師弟の縁を結んだとされる。文政二年、無底二十七歳の時だった。弟子入りし、鴻雪爪は宮地家の幼名から、名を「清拙(淸拙)」、号を「鉄面(鐵面)」と改めた。

無底和尚と鉄面清拙(鴻雪爪)の逸話がある。
雪爪が行脚に出て予定よりも遅く帰った時があった。無底は不機嫌に待っており、雪爪が帰ってくると「なぜ遅かった」と詰めた。雪爪は正直に「坐上に虎饅のあるあり」といって土産の包みを差し出した。無底は破顔一笑した。これは大阪の虎屋饅頭が無底の大好物だったからである。

武生龍泉寺で修行

龍泉寺参道

文政八年に無底和尚は越前武生の龍泉寺に移った。鉄面清拙(鴻雪爪)も共に随従し、修行時代を過ごした。

『雪爪翁作雪閣黎餉柿實引』には

昔歳薩の道光なる者、予と同じく無底先師に越の龍泉に侍して得る所あり。西帰して化を其郷に敷く。

とある。

龍泉寺は通幻禅師が応安1年(1368)に開いた曹洞宗のお寺。当時輪住制。享保2年(1717)から独住制になった。本多家菩提寺でもある。
鉄藍無底和尚は独住16世。鴻雪爪、十二歳の時だった。

天保の初年頃に大垣全昌寺に移ったといわれる。

鉄藍無底は「機鋒嶮峻、鬼無底」といわれ、とても厳しかったという。

現在、龍泉寺には

  • 鉄藍無底の墨蹟「一道神光萬境閑なり」
  • 鴻雪爪の墨蹟「幽花一家に香る」

が寺宝にあり、鴻雪爪に関する書物も保管されている。『鴻雪爪の墨蹟「幽花一家に香る」』は現在も飾られていた。

また、鴻雪爪の弟弟子であり、後の弟子になる永平寺六十二世青蔭雪鴻禅師(鐵肝雪鴻)の墨蹟「是道」も寺宝としてある。

雲水時代

雪爪の雲水時代の行脚の経歴詳細は不明であるが、一時禅僧の学問所のある江戸駒込の寮に遊学したことがあり、同年の満舟(後の武生龍泉寺独住21世江月満舟)と同伴だったともいう。

ニ十歳前後だった。

加賀時代と無底遷化

天保十四年、加賀国鳳凰山祇陀寺の檀越武田氏の頼みで無低和尚は大乗寺へ住持することとなる。

無底は金沢の名刹大乗寺に移住し、鴻雪爪もその補佐として金沢へ移り、祇陀寺の住職となった。雪爪は副寺として祇陀寺よりも大乗寺にいることが多かったという。雪爪30歳。

翌年弘化元年、無低和尚は大乗寺の祖である月舟宗胡和尚百五十回忌の五百人大結制の修する準備に尽瘁し、その途中に病に罹り遷化。

後任として奥州伊達から仏関慧透和尚が就任し、雪爪は引き続き副寺として補佐し、大結制を行った。ただこの大結制の最終日には暴動がおこった。

白山登山

雪爪は空巌とともに白山に登った。

黄昏の白山麓に一泊、翌日暮に山頂に到達、岩室に一泊。雪爪は自炊した。寒さは薪を焚いても終夜眠れないほどだったという。頂上には白山権現。道元禅師が宋にいる時にも思い出していたという。雪爪は翌日天壇に登り拝体し、天の池を巡る。空巌は湧き水を組み茶を沸かす。その時向こうの岩角に甲冑姿の物を見る。天狗とも思った。近づくと空巌の知人金沢藩士河野久太だった。近頃街中で甲冑を着ると怪しまれるので山中に入って着ているのだという。

その後は越前方面へ下山した。

大垣時代と小原鉄心

雪爪は「老宿では回天、若手では清拙」といわれるほど有名になっていた。

弘化三年に大垣全昌寺の寺主となる。藩主の頼みによる。

後に明治維新後の廃藩で大垣は大惨事になる。その時に鉄心は雪爪に因って心胆を固めた。双方非常に親密な関係であったという。

總持寺輪住と三国港から全昌寺堂宇焼失

能登国にある曹洞宗大本山總持寺に嘉永二年八月に1年間輪住することとなった。

嘉永三年十月、三国港の恵雲寺にいた。雲水を連れて三国氏の斎に赴いて読経。この時灼熱波羅門の縁を感じ、斎家に告げて火を戒めて帰った。まもなく大垣から「本月二十九日正午火を失して堂宇悉く烏有に帰した」という通知が来た。雪爪は大垣に帰った。檀越の人々は重修することを議論した。雪爪は功徳のないことを説いたが皆聞かず、財や力を出し合って再建した。

大旱

嘉永六年の大旱魃。雪爪は全昌寺にいた。

そこへ郡宰の高岡西溝が来て言う。
「民は日夜神に祈っていたが、たいていは真宗の信徒だった。彼らは平素は神を信じないのに稲枯死するときはこのようになり笑うべきことだ。」

雪爪言う
「彼らは愚民であるから深く咎めるべきではないし、君は郡宰なのだから民の艱苦を座視するのは大いに咎むべきではないか。」

雪爪は一誌を書いて渡した。それから郡宰は猛省し励んだという。

松平春嶽に招かれ天女山孝顕寺へ

大垣にて鉄心と同遊すること数年。安政五年、春嶽公に招かれた。鉄心は官事として海鷗を同行させ、弟子月珊と共に二月八日に発した。

越前天女山孝顕寺に移錫し二十八日上堂。

孝顕寺門

鉄心と雪爪のやり取りはその後も続いた。

天女山孝顕寺は愛国洞授禅師の開山地であり、結城秀康公の廟でもあった名刹。安政四年に住持仏天隆和尚が遷化したので、春嶽はその後継に名僧を迎えたいと思っていた。この時春嶽は江戸にいたので、雪爪が来るという知らせを聞いたときは大喜びだったという。

春嶽はこの年に帰国する予定だったが、井伊直弼が大老となり、安政の大獄が起こり、春嶽公自身謹慎を受けたため帰国が出来なかった。安政の大獄では、同じ福井藩内では橋本佐内が処刑された。さらに吉田松陰もこの時に処刑され、元小浜藩の梅田雲浜が獄中死をした。

横井小楠と共に福井藩の相談役となる

春嶽公は藩政改革のために、熊本から横井小楠を迎えた。小楠が福井に就いたのは雪爪の一か月後だった。

藩政改革のために相談役となった2人について、雪爪の談話がある。

安政五年の頃に至り私は越前の春嶽公より請待を受け公の菩提所孝顕寺に輪住を致すと同時に肥後の横井小楠平四郎が請せられて私と前後に福井に入りました既に春嶽公が政治総裁職の時で随分時勢も知られ事情にも通じて居られましたけれど何分まだ時が時なれば固陋の藩論があり藩士も頗る頑固の徒多くありました故横井は表面より勤めて説き入り私は陰に裏面より薫陶致したと申すやうなことで云々
引用:『方外功臣鴻雪爪』

横井小楠が表から藩政改革に当たり、鴻雪爪が裏からこれを助けた。

福井藩士たちの相談役となっており、雪爪がいた孝顕寺には多くの福井藩士(藩老芦田、本田氏、中根雪江、由利公正、堤正誼、松平正直等)が訪れたという。

足羽山に橡栗山房を作り楽しむ

寺の背後の山に橡栗山房を作り、時々登って楽しんだと記されている。

四季、白山眺望、足羽川眺望し、文詩を書いていたとされる。

足羽山から白山

現在足羽山から白山を眺望しようと思うと自然史博物館へ上らなくてはならない。以前は上写真の愛宕坂上の展望所から白山が見えていたが、福井駅周辺の再開発で高層ビルが建ち、ちょうど白山の位置と被ってしまい見えなくなってしまった。

足羽山に在った橡栗山房の位置は不明だが、孝顕寺はかつて足羽山一帯を境内としていたため、白山の眺望の良い東側にあったのだろうか。

橡栗山房

現在、孝顕寺内に「橡栗山房」という建物がある。これは孝顕寺と鴻雪爪の縁もあるということで、かつて足羽山に在ったという橡栗山房の名を持ってきて掲げている。

城崎温泉へ行く

越前に来てから毎冬寒さが骨にしみていたので、城崎温泉に赴いた。京都、丹波、但馬出石、豊岡、城崎温泉という経路だった。その後天橋に行った。

鉄心越前へ「丹巌洞の会」

丹巌洞

文久二年五月、鉄心は山中温泉を浴するという建前で六日に発し、越前孝顕寺へ雪爪を尋ねた。

十日には福井藩士など相謀り鉄心を丹巌洞にもてなした。雪爪と鉄心は笏渓に沿って赴いた。

参加した藩士には、藩老蘆田本田、長谷部南村(後の笠松県知事)、三岡八郎(後の由利公正)などがいた。会は衆皆歓飲し夜帰った。

丹巌洞

それを見ていた傍人の論者が言った。
「今国家多事、朝武暮文之れ暇あらず、鉄心何の暇あってかこの地に浸遊するか」

雪爪は言った。
「多事だからこそ遊ぶべきである、晋文公は天下を周流して成す所があった、鉄心も見るところがあるのだろう、鉄心とて藩の衰弊を挽回したことがある、夷艦が相海に入り廃甲論を唱え、兵制を定めて賽蹟があった、この状況では遊ぶべきでなにも怪しむことはないではないか」

元和以来、藩に制限があり外藩士の往来がなくなること三百年、近いうちにそれがなくなり他藩士との深いつながりが始まるとして、雪爪はその仲介役として行動することは想像に難しくない。

またこの歓迎会のことは、江戸にいた春嶽にも知らせられ、それを聞いた春嶽は深く喜び、後に師を経て鉄心に一書を贈り、殷勤の意を通した。この親交は後の明治維新の政局にも影響を及ぼした。

鉄心はその歓迎会の後日、三国港に三日、後山中温泉に赴いた。

春嶽公の謹慎を免ぜられ帰国後、初対談

文久二年四月に春嶽は謹慎を解かれ、翌三年正月に京都へ行き、三月二十日に京を発し帰国。

小楠は春嶽公の謹慎が解かれた二年七月に江戸に赴き始めて謁し、予九年三月に熊本へ帰国した。

雪爪と春嶽公の初対面は春嶽公の帰国後まもなく行われた。すでに五年間もやり取りをしていたので互いに完全な初対面というものではなかったと想像されるという。

また春嶽公が雪爪と対面したとき、「仰げば弥高く鑚れば弥堅し」とある。

武田耕雲斎通過の際の話

元治元年冬、水戸の武田耕雲斎が加賀越前の境を通過。春嶽公は雪中を武装し出陣した。その途中孝顕寺門前に馬を降り祖廟に詣でた。入り口で笠を脱ごうとしたが手が凍ってうまく外せない。春嶽公は出迎えていた雪爪に「和尚これを」と頼み、雪爪は笑って笠絆を解いて進ぜたという。

雪爪は出陣の祝辞を述べた。その時に春嶽公は「詩が出来た」といって雪爪に手渡した。

春嶽公とキノコ狩り

慶応元年の秋、雪爪は病気がちだったが、春嶽公からキノコ狩りの誘いを受けて大いに喜び気分爽快になる。春嶽公と南山の麓へ行き、さらに場所を移して後、勝概を献じ、風月を談じ、夕陽に至り山を下った。

春嶽との関係は深かった。

越前を去る

慶応三年春。雪爪が福井に来て十年目。彦根井伊家が雪爪を清涼寺へ請うた。

春嶽公と井伊家には「安政の大獄」での因縁があった。井伊直弼の安政の大獄で、春嶽は謹慎させられ、福井藩の重要人物だった橋本佐内(享年26)も処刑された。

雪爪は直に春嶽公に言って越前を去ろうとした。春嶽公はこの時政事総裁として大将軍に従って京都にいた。雪爪を手放す上に因縁のある井伊家彦根に渡してしまうということもあり、雪爪の書を得ても春嶽公は喜ばず、なかなか承諾しない。

春嶽公も書を贈った。そこには「寡人本、仏を喜ばず、一たび師に天女山に参禅してより粗仏乗の深遠なるを知る」や「師實に寡人の心を知るもの、深く師の心を知るなり」、「親灸すること十年一日の如し」「士人を鼓舞し民庶を薫陶し、以て我治を資く、寡人久しく之を徳とす」などと書かれており、非常に名残惜しんだようである。

後継を弟子の雪鴻にするということでようやく承諾したといわれる。この承諾を得るまで半年費やしたという。

八月十四日福井を発した。

彦根清涼寺と明治維新、「鴻雪爪」へ

慶応三年に彦根清涼寺に就いた。

この辺りで、「鉄面清拙」から「鴻雪爪」へとなったとされる。

後に鉄心が訪問し、時の緊迫を告げた。
大垣藩戸田家は元来徳川と深いつながりがあるが、文久より宮闙の守護を務めたともあり、鉄心は勤王の志はあり、朝廷と幕府の板挟みの苦境に立っていた。

五箇条の御誓文

明治維新後、五箇条の御誓文など明治色が強くなった。

五箇条の御誓文の起草は、丹巌洞の会にもいた福井藩士の由利公正である。その五箇条の御誓文の起草の際にも雪爪から指導があったとも言われている。

明治維新後の宗教界の問題

神仏分離令が発令された。神社を管理していた僧侶の兼務を禁止するという物から始まった。

明治の政策の中で法教について、雪爪は思うところがあったようで、建白書を朝廷に提出している。

その内容は、「日本国家の宗教は、神道を以て体となし、儒教・仏教用となす、この三教に頼って風俗を維持す」ということ。そして神官僧侶の制度も改めるべきとしている。

後に廃仏毀釈があったためでもある。

廃仏論が出たときは、東西本願寺を始め各宗本山が大いに怖れ慌てふためいたとしているが、この雪爪の建白書により、完全な廃仏論は無くなった。この建白書には松平春嶽、土州の容堂公、肥前の閑叟公などが賛成した。

この建白の起こりは、開国するなら耶蘇教(キリスト教)も解禁しなければならないという議論から生まれたものだった。木戸や大久保はキリスト教解禁を許さなかったから、雪爪の建白に賛成した。しかし雪爪は解禁するしないは第二義であり、本当に大切なのは「外国人が入ってくればそれに着いてキリスト教も入ってくるのは当然で仕方のないことだから、一番の目的はそうなった場合に外の宗教が蔓延し侵略されることの無いように、神道仏道を強固なものとし、神官や僧侶が安心できるものとし、国民を教導させることが必要である」ということだった。

鴨川の水荘

戊辰閏四月十七日、会合が開かれた。雪爪はこう記している。

余客に謂う公等は堂々たる丈夫、身廟堂に立ち、既に中興の大業を画策し、實に天下の中心である、顧うに余は江湖の一貧僧のみ、公等の荐りに臨まれるのは何の故たるを知らない、然し退いて考えうるに、凡そ人の愛するものは富貴高名であって、生命よりも甚だしきものがある、而も此二者は吾には何等の関係もないのである。故に形を刳り皮を去ると云うことは或いは有るであろう、語に曰く魚は江湖に相忘ると云うが、今日の遊は全くこんなものであろうと、此日会者は大久保甲東、木戸松菊、廣澤兵助、福岡孝悌、三岡公正、小原鉄心、横井小楠、寺内暢三、名和緩等である、乙夜にして散じた。
引用:『方外功臣鴻雪爪』

京都・東京へ

雪爪は彦根藩社寺役所から、朝命御用召の伝達を受け、明治二年正月三日に出て、五日に京に到着、十日に赴いた。

同日午後に越前邸に春嶽公を尋ねた。二十四日に早々に去るべき命を伝えられ、二十九日に出た。この時の京都は暗殺が横行していたため、横井小楠と共謀し、岩倉は弾正台の手で警戒し、春嶽は孝顕寺雪鴻に随行を命じた。雪爪はこれらの庇護により雪鴻を伴って東上した。

               

宗教会議

明治二年五月九日、会議が行われた。
雪爪と他の人々と別れ大激論だった。雪爪以外は皆神官であり僧侶は雪爪一人だった。雪爪の主張である神仏二教連合して外教に対抗するというものだったが、他の人は仏教を廃し、キリストを入れないという暴論で妥協の余地はなく、議論は沸騰。特に小野石斎との議論は激烈なもので局外に響き渡っていた。山内容堂は春嶽を顧みて「教導局ではない、騒動局だ」と笑ったという。結局この日は喧嘩別れとなった。

雪爪は前日の会議で、神道者とは到底提携の望みは無いとして、仏教側の振興を図ろうとしたが、その後辞職を決意した。

この件で何度か暗殺されかけている。雪爪がキリスト教を入れようとしているというデマも出回っていたという。

余談「福井の僧学校」と「曹洞教会」

この宗教問題の中で福井では、雪鴻や三国の真宗勝授寺の侗睡(公正の弟)等が僧学校を福井城郭内に起こし、国内各宗派の青年僧侶を入学させ、国漢梵洋の四科目を教授することになり、英語の教師には英国人を当てるなど、当時では最も進歩的な方法を採用したといわれる。これが日本新式学校の嚆矢であるといわれる。

また、「曹洞教会」という地方組織をいち早く結成したのが、当時永平寺の責任者「青蔭雪鴻」と当時総持寺の「滝谷琢宗和尚」だった。青蔭雪鴻は雪爪の弟子。滝谷琢宗和尚は雪爪の信奉者。

反俗

明治四年、雪爪は再び東上した。鉄心と春嶽公から促されたこともあった。東京では真宗と浄土宗の人々が待っており、島地黙雷らと宗教問題について議論し、再び建白書を政府に提出することになった。

そこには、「僧侶の肉食や妻を持つこと(肉食妻帯)を許すこと」、「学校を起こすこと」などが書かれていた。これは僧の減少による、さらなる仏教衰退を危惧した上でのものであった。

当時は最も廃仏が行われていたときだった。宮中の仏具はみな外にやり、仏事も廃止された。

この建白書で、反俗申付左院議官への辞令を受けた。

反俗については相当衝撃だったといい、春嶽や松菊の元へ訪ねた。松菊によると岩倉公と話し、このやり方では手温い手段であるため駄目だから、師(雪爪)を還俗させて左院議官の地位に立たせ廟議を決するという事で一致した。雪爪が承諾するかどうか気遣ったが、相談なしに交付したのだという。雪爪はこれに関しては覚悟していたようで直に快諾した。

左院議官から神官へ

雪爪は左院議官となって、建白書は議案となって改めて提出された。反対意見もあるので数か月かかったが、明治五年三月に議了確定した。明治五年四月二十五日付で「僧の肉食妻帯、俗服着用許可」がおりた。

これに基づいて神祇省を廃して教部省を置き、雪爪はその中の御用掛に命じられた。神仏二教を国教とし、神官僧侶を教導職とした。

 

雪爪の努力は実を結んだ。仏教は国教としておかれることとなった。

明治五年九月には東京に神仏合併の大教院を設け、全国に中教院を設け、神仏の協和を計った。
十一月に雪爪は教部省の出仕をやめ、専ら院長として大教院の事務を総裁するようになった。
雪爪は教部省をやめると同時に虎ノ門琴平神社の神官となった。これは芝神社、神田明神、深川八幡と共に府社としてその収入を納める周到な措置だった。翌六年九月には権大教正に補せられた。

事あるごとに雪爪は春嶽公に報告していたという。

雪爪は役人の立場で、院長として教育や宗教界の改革を実行していき、高まっていた廃仏の熱もようやく鎮まった。

神仏分離

廃仏毀釈はおさまったが、神仏合同や融合は可能性のないものであった。結局分離は訪れた。

西本願寺より海外視察に行っていた島地黙雷が明治七年に帰国し、宗教事情を聞きとった。その結果、宗教は決して国家から束縛を受けるべきものではなく、欧州の制度に倣って信教は自由にすべきもので、三条の教則で僧侶を律するのは全くの無意味とした。

翌八年に神仏合併不況を差し止めるべきと達しが出た。神道においては新たに管長を選ぶことになったが各教正の意見は一致して雪爪を選んだ。政府はこれを認め、雪爪はもっぱら神道の内容を整頓し国民には敬神思想を普及させることに力を注いだ。

数年後、明治十七年に神道管長を辞任し、閑地に着いた。七十一歳の時だった。

鐵肝雪鴻(青蔭雪鴻)

鴻雪爪にとって最も道心の堅い者と言われた弟子雪鴻。生まれは越前武生の青蔭氏。幼名童寿。幼児に全昌寺で無底和尚に得度を受ける。元々無底和尚の弟子であり、雪爪の弟弟子だった。

「雪鴻」というのは、鴻雪爪と同じく「雪泥鴻爪」から取ったものといわれる。

普段は温和に接するが、規則を乱すものは一切許さなかった。
鴻雪爪が天女山孝顕寺を去った後、春嶽公は雪鴻を後住とした。

後に明治維新、神仏二教連合などあったが、あるとき永平寺の主席が欠けた。雪鴻を選任し勅して「円応道鑑禅師」を賜った。春嶽公は大いに喜んだ。雪鴻が本山へ行くとき、雪爪は自分の竹簾を与えた。明代のもので蘆葉達磨、天光雲影、瑞草奇花、蒼松古柏の十二字のある竹簾。雪鴻は感涙し受け取った。

その後、三年満たないうちに円寂した。55歳だった。

雪爪はこう記している。

余は慟哭して世は亡くなった感があった。
引用:『方外功臣鴻雪爪』

その後

明治二十八年には一度因島へ帰省。そして日清戦争起る。横浜へ鎮遠・定遠の二艦が来た時に偶々旧知の鳥地黙雷が来訪していたので共に見物へ出かけた。それを迎えた海軍上官は、八十余りの仙翁と老僧の元気旺盛なことに驚き且つ喜んだという。

明治二十九年朝廷から従四位に叙せられていた。

明治三十年に八十四歳。本師無底禅師の塔を拝すために金沢へ。弟子の孝顕寺春堂が随行し、その帰途に福井に十余日停留、生存の旧知に会す。

終焉

明治三十七年。91歳
日露間に不穏な空気が漂う。

六月十二、十三日、東京麻布飯倉町にて多少の不快気を感じ、十八日朝に予感があったか、端書に「老人大患」と認め麻布法普寺楪大仙に送り、暫くして粥を求め、喫すること一啜で、其儘溘焉として眠るが如くに大往生を遂げた。

二十二日青山斎場にて葬儀、会葬者二千人、青山墓地に葬り、墓面の「従四位鴻雪爪墓」は弟子春倪が題した。

鴻雪爪(1814~1904)。

余談

春嶽公と鴻雪爪の関係

『鴻雪爪翁』に書かれている。「演劇の一齣になりそうな場面である」という文から始まる、とある話。

ある日、春嶽公は使者を雪爪の元に遣わし、「今日春嶽公を招くから、老師も席に陪せたい」との口上であった。それで雪爪は一喝して「春嶽は自分の弟子である、師が弟子に陪するということがあるか、よく主人に聞いて参れ」といった。使者は驚き帰って春嶽公に告げた。春嶽公は失策に気づき、改めて「今日は老師を招き春嶽を陪せしめるから来てくれ」という口上をもたらした。それで雪爪は笑って出かけたという。

鉄心遺稿に
「肥前の閑叟公、一日雪爪禅師に謂うて曰く、余将に春嶽公を招かんとす、師も亦来り陪せよと。師曰く、否、余を以て上客と為さらば則ち行かんと。公笑うて諾す。毎会師必ず来って上座に在り」
とあるのはこのことだという。

幕府と雪爪の周辺の人物

春嶽公は徳川の家ではあるが、勤皇家であり考えが新しいかったので、幕府の反感を受けていた。その陰にあるのが雪爪と小楠であったとされている。

先に記した通り雪爪は三度襲撃された。

小楠は暗殺された。明治二年、61歳。

明治維新の指導

先ほども書いたが、由利公正が五箇条の御誓文起草の際に、雪爪が指導したともされ、また由利公正・小原鉄心が明治政府の財政責任者として太政官札を発行したときも雪爪の助言があったとも言われている。

孝顕寺への取材によると、五箇条の御誓文の原文はこの孝顕寺で作られたのだという。

五箇条の御誓文の原稿が寺にあったという。昭和十二年にだるまやの展示会で出品もされたことがある。しかし後の戦災で焼けてしまった。

丹巌洞と本多の別荘な名付け親

鴻雪爪と丹巌洞

現在の丹巌洞で鴻雪爪の名を見ることができる。

丹巌洞の南にあったとされる「静古山荘」という本多復斎の別荘の名を付けたのが鴻雪爪であったとされ、その石碑も丹巌洞に残っている。

孝顕寺と丹巌洞

鴻雪爪が住持した「孝顕寺」と、鴻雪爪と福井藩士・小原鉄心が交流した「丹巌洞」

孝顕寺への取材によると、かつて孝顕寺と丹巌洞の洞窟を結ぶ地下通路があったのだという。ちなみに丹巌洞には明治から大正にかけての笏谷石の採掘場の洞窟がある。

龍泉寺と孝顕寺

鴻雪爪が修行した「龍泉寺」と鴻雪爪が住持した「孝顕寺」。

龍泉寺への取材によると、孝顕寺はかつては足羽山全体が境内だったという。

龍泉寺内に、明治時代の僧で西郷隆盛の師ともされた、永平寺60世・臥雲童龍墨蹟「厳鑑」という物が龍泉寺白雲台に掲げられている。これは元々孝顕寺にあったもので、かつて孝顕寺が龍泉寺にしていた借金の返しとして譲り受けたものだという。

ここにも鴻雪爪に関係する福井の寺同士の交流があったのだった。

還俗の非難

『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』によると、

雪爪はある人に
「仏者が敬神に主張するのは如何」と問われて、
「敬は敬なり、信には非ず」
と答えたという。

これにより、鴻雪爪が仏教を棄てたのではないことが伺えるとする。

鴻雪爪の還俗と印象、功績

以上が鴻雪爪という人物です。

「還俗」が鴻雪爪について一番印象深いものになっているかと思います。

しかし、今見てきた通り、鴻雪爪は日本の宗教界を守るため、また日本の仏教界を守るために還俗しました。もし廃仏、廃キリストをし、国の宗教を神道一択の決まりで政治を進めていたら今のこの時代もどうなっていたかわかりません。

「還俗した」という一文では、どこか悪いイメージが持たれてしまうこともあるようですが、今ここで見てきたことを踏まえると、今ある日本の仏教と神道、加えて宗教から国や生活の形を救ったのが、鴻雪爪という人物であるということがわかります。

廃仏毀釈を抑えた人物。
多くの仏教施設が残るのも、仏教の文化財が残るのも、神道が残るのも、そして日本の由緒ある宗教・遺産・文化財が残るのも、また日本という国が続いているのも、鴻雪爪がここまで尽力したからといっても過言ではないはずです。

幕末福井のゆかりの人物といえば福井市が主にPRしていますが、この鴻雪爪という人物こそ、もっと広く伝えるべき人物なのではないでしょうか。

参考文献・取材協力・情報提供

参考文献
『方外功臣鴻雪爪』
『鴻雪爪翁』
『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』
『我らの郷土と人物』
『<続>福井百年の群像 福井人物風土記』

取材協力・情報提供
「第一関太平山龍泉禅寺」
「天女山孝顕寺」
「丹巌洞」

 

ちなみに大垣市とも深い関りを持つことになり、町の交流という点でも、現代でも活用できるものと思われます。

『大垣地域ポータルサイト西美濃 小原鉄心ゆかりの福井の料亭』
https://www.nisimino.com/nisimino/turedure/back/16_back_msg.shtml

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