越前若狭の葬礼儀式(伝承~野辺送りなど)【福井県の葬送Ⅱ】

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越前若狭の葬礼儀式(伝承~野辺送りなど)【福井県の葬送Ⅱ】

福井県(嶺南嶺北越前若狭)の葬送文化を調べた物を記録します。

4回に分けて記録します。

一回目
葬礼(儀式や道具)・墓制・火葬土葬用語集【福井県の葬送Ⅰ】
https://kofukuroman.com/sousou1-yougo/

今回は2回目です。今回は普段あまり聞かない葬礼(死の予兆・葬儀・納棺・出棺・野辺送りなど)を取り上げます。

ただし、すべては取り上げません。ざっくりと説明します。細かいところまで見たい方は、後で一覧で紹介する郷土資料を実際にご覧ください。

今回はあまり写真は出ません。

「死」について

死の予兆

この死の予兆というのは、福井県の郷土史に必ずと言っていいほど書かれている。特に多いのが「カラス」に関すること。
カラスが尾を広げて家の上で鳴くとその家の誰かが死ぬ。しかしその家の者には聞こえない。これを「死にガラス」という。

若狭では特に多く、また宮崎村でも言われている。

他には

  • 庭の大切な木が枯れると家の人が死ぬ。
  • 急に歯が抜ける、又はそのような夢を見ると近親者が死ぬ。
  • 日常使いの茶碗が急に割れると近親者が死ぬ。
  • 同じ在所で2人続けて死ぬと、3人目が死ぬ。
  • 夢が覚める時、目の前に白い玉が見えると本人が死ぬ。
  • 苦しんでいる病人は、干潮時に息を引き取る。
  • 年が明けてすぐ女の人が死ぬと、その年は死人が多い。
  • 死者は死ぬ直前に善光寺参りをする。
  • 重い病人が特定の場所の水を飲みたいというと死期が近い。

魂よばい

人が死ぬとき、肉体から魂が抜け出ると考えられていた。なので、その魂を呼び戻すために、耳元で大声で呼んだり、口に水を含んで病人の顔に吹きかけたり、屋根の上に登り瓦を少しめくり、そこに向かって大声で呼んだりしていたという。これを「タマヨビ」「魂よばい」という。

これは一種の儀式というよりも、皆無意識に行っているものと推測します。私の祖母がなくなった時、納棺前に祖父がこれを行っていました。

これは難産の際にも行われたそうで、難産で意識が無くなると、屋根に上って名を呼んだり、髪を引っ張ったりすると意識が戻ると言われていた。これらは特に若狭地方で行われていた。

また、井戸が冥界に続いていたとされていたため、井戸へ呼びかけていたこともあったという。

宮崎村では儀式的に行われた事例は無いという。

加持・祈祷

浄土真宗以外で行われるもので、病が重いものの症状が悪くなった時、近親者七人と僧侶を呼び般若心経を唱えるという。これを「七人待」という。越前でも真宗以外の一部で同じようなことが行われるところもあると言い、重病者には死霊生霊が取り憑いているからと僧侶を呼んでその人の周りを周りながらお経を唱えたのだそう。

死に水

「末期の水」ともいう。

今でもやっていると思います。

茶碗の水を含ませたり、布や紙に水を含ませ唇をぬぐったする。

鯖江中野では日吉神社の泉の水、舟枝・橋立・下河端では橋立山麓の坂清水、下新庄では十王寺の水を使用する。

宮崎村誌によると、この死に水は死者の霊を呼び戻す儀式でもあったという。岐阜県のある地方で鳥の羽で口に水を付けて大声で呼び戻そうとする儀式の事例があるという。

「死に水」は「魂よばい」とセットになっていた儀式なのだろうか。それとも後にこの2つが合体したのが岐阜県の事例なのだろうか。

死後通知

息を引き取った際に越前の方では「目を落とす」という。
宮崎村で「目を落とす」というのは、瞳孔が拡大してしまうからではないかといわれる。

その通知は例えば、福井市岡保で「おまいりになった」、大野で「まいらしてもらった」、美浜町新庄で「しまいにならした」という。極楽に往生したとか魂が抜けてどこかに行ってしまったという意味合いだそう。

大野真名川流域では「○○が死んだ」といい、特に不幸と凶事などという言い回しは使わない。体がこわばった時を死んだものとして仏壇を開きリンを打ち、北枕西向きにする。

 

若狭大島の事例でいうと、現在は同じだと思われるが、すでに病院や施設で無くなることが多いため死亡後葬祭業者・檀那寺へ連絡。霊柩車で自宅まで運ぶ。湯潅は病院で済ませてある。

上中上吉田は、亡くなると正覚寺に連絡する。

永平寺浄法寺では、親類縁者に知らせに行く際は一人では行かない。遺体はすぐに北枕又は西枕にする。

鯖江では鈴をうち隣近所や親せきへ知らせる。遺体は仏間へ北枕。

神式では産土神社に遣いを送り帰幽を伝える。

葬送

死者の装い・供物

枕ダンゴや枕飯などを供える。加えて花や線香、魔除けのための葬礼刀(地域によってはカミソリやナタなど)を供える。

死者はたいてい北枕西向きに寝かせる。小浜田烏から西沿岸では一度イロリの横座へ寝かせる。美浜新庄では一度主人夫婦の寝室に寝かせる。

納棺の際にカタビラを着せる。このカタビラはハサミで裁断をしない。大島などではフンドシや腰巻、白足袋、白脚絆、ワラジをはかせる。銭は真宗で六文銭、若狭の禅宗で銭七文。加えて若狭ではダンゴ、ハサミ(女性)、カミソリ(男性)を頭陀袋に入れる。若狭の銭七文は一文ずつ六地蔵に供え、残り1つをその人の小遣いにするという。

現在の若狭大島では、親戚が集まり葬儀の準備をする。死者には白装束。仏壇の居間に頭を西向きに寝かせる。ドライアイスを置く。死者の周りに衝立を立て、着物をさかさまにかけ、枕元に水と脱脂綿、ヘンダラ、線香、ヨツブダンゴを置く。

鯖江ではかたびらを縫う。玉結びや返し針はしない。かたびらを左前に着せ、手に城手甲、足に白きゃはん、白足袋をつける。家によっては生前来ていた一番いい着物を着せるところもある。胸に頭陀袋をかけ、手は合掌に数珠、三途の川の渡し賃を袋に入れる。

大野真名川流域では、遺体が火葬の時棺を突き破らないように足を曲げる。「つくろう」という。食物や水はかざらない。死者に寒冷紗を乗せ、頭に数珠を乗せる。

枕飯は茶碗に飯を盛り橋を二本突き立てて供える。死後の善光寺参りに持参する弁当だという地域が多い。ただし、これまた死者の魂を呼び戻す考えもあるという。

坂井郡高椋では花と線香は一本ずつ。普段は二本。枕飯や枕団子は無い。白無垢を逆にかける。足はあぐらにさせて置く。

鯖江では北枕にして遺体の胸に院号法名を書いた紙を乗せ、魔除けのための刃物を置くところもある。
葬儀の際寺に備え付けの打ち敷をかけ中央に七條袈裟を覆った棺を置く。その前に四本花、三つ具足、造花を飾り、蓮な花の下に饅頭七個をくしにさし、それを七本ずつからあげた物を一対を供え(昔は団子)、六道蝋燭一対、六道提灯一対を立て、辻ろうそくを用意。葬儀用具は寺から借り、蓮の花などは昔は近親者で作った。

上中上吉田では故人は寝間に安置、枕元には団子・四華(しか)という造花、香炉3つを供える。昭和30年までは家の前に花籠も掲げていた。(竹で籠を編み、ひごを10本ぶら下げ白・黄・赤・青の色紙を張り、籠の中は小さく切った紙を入れる。行列の際紙吹雪が散るように籠を回しながら歩いた。)

神式では枕直しの儀として近親者で集まりもがりの部屋に移し北首仰臥(北枕)とし、枕屏風を立て守刀を置き、灯火をつける。

湯灌

頭髪や髭を剃り湯灌をする。湯灌をしたものは穢れが強いという事で、今庄では何度も塩をふりかけ、名田庄・高浜では近くの川で手を洗わせ塩を体に振りかけた。さらにその人が着ていた服は死者の服を一緒に洗い、葬式が済むまでは食事の道具に一切触れられない。地域によっては一週間食事の場に加わることができない。(和泉村)

三方町では僧侶の読経が終わると近親者によってアルコール消毒で行われる。昔はたらいに湯をためて湯灌した。

若狭大島では桶に入れたお湯に布を浸し、濡らした布で死者の体をふく。拭き終わった後に死者に着物を着せる。

美浜では年配の血が濃い人が湯灌をする。遺体を動かすために力がいるからではないかという。新庄では着物を裏返しにし左前、縄帯の姿で行った。湯は蓋を取った釜で沸かす。たらいに移すときは先に水を入れて後で湯を入れる。柄杓を逆手にして使う。これらは日常で忌避されている。女は見守ったり念仏を唱える。宮代では親類や血縁が焼香を持ち真言を唱えると死者の体が柔らかくなり極楽へ行けるとされた。棺に納めることにも効く。遺体の髪は立会人が少しずつ剃ったが、葬儀業者が入ってからは行われなくなった。新庄ではネドコで湯灌して床板をめくって床下に捨てた。宮代ではタゴケにいれてサンマイのウマステバ(牛馬の墓)へ捨てた。興道寺では湯灌するのは夜だった。ムラできめたドブか田へ捨てた。

永平寺浄法寺では、日没時に近親者が湯灌をする。

青郷では夕方に近親者によって沐浴をさせる。沐浴から納棺まで念仏が絶えない。

坂井高椋では湯灌の湯は釜の蓋を取って沸かす。

坂井町では死者の肉親の親子兄弟が湯灌して往還する。

大野ではオンボウの人が来て手伝う。家族・親戚・望むものが一人ずつ、死者が生前使っていた茶碗を使って湯をかける。大野真名川流域では、湯灌の湯は日陰に捨てる。

湯灌のたらいは地域によって寺や火葬場に共用のものがあったり、七日間天日にさらして穢れを落とし普通に使ったりした。

湯灌の湯の後始末は、絶対に日にあたるところに捨ててはならないとされた。床板をまくった下や、仏壇の床板の下、寝室の床板の下、桑の木の根元などに捨てた。現在ではその風習もなくなり、湯灌しているところでも海に捨てるところもある。宮崎村では家裏の日の当たらないところに穴を掘って捨てた。畑の隅に捨てる地区もある。

武生では死者が会いたがっていた人が臨終に間に合わず、湯灌の時にやってくると死者が鼻血を流すと言われている。

先も記したが現在は病院などで湯灌は済ませてあるところが多い。

棺について

今は火葬場施設は普及したためそれに合わせて棺は寝棺が多い。しかし戦前までは棺桶が多かった。特に越前の大野勝山九寿龍川日野川足羽川流域は桶を使っていた。普通は前もって作ることはない。注文があると作るので「ハヤオケ」ともいう。運ぶとき男用は桶の口を左、女用は右という。金津町にはかつて「棺桶講」という講があったようで、各家から一定額の金額を集めて積み立て、死者が出たときにそこから出すということのようだ。

越前では桶棺が多く、若狭では桶棺ではなく箱棺が主流だった。幅一尺二寸四方、高さ二尺四寸。杉や松の板を用いた。越前でも勝山小原では箱棺で、若いうちに準備していた女の人は嫁に行くときにその箱に着物など入れて持って行き、死んだときにその箱を使うのだという。先ほどの九頭竜日野足羽川とは対照的に、和泉村坂井北部、越前町、越廼、織田、朝日などでも箱が使われた。

さらに若狭越前両方に言えるのは、座棺が主流だったこと。運ぶ際は、後ろ向きにするという。これを「シリンザ」という。住んでいた家の方向を向いて名残を惜しんでいる格好のようであるという。棺の底にはヨモギの干し草やワラ、座布団に木灰をまいた。

三方町は昔は座棺だったが、昭和五十三年三月一日に町営火葬場が完成してからは寝棺となった。

宮崎村も座棺だった。棺は桶屋に頼んで作った「棺桶」だという。あぐらの姿勢で納棺した。普通の家はこの棺桶に金襴の布を巻いた。財産家は輿も造った。

鯖江は昔は屈葬用のすわり棺(座棺)の棺桶だった。竹のたがを用いた深桶形式のものだった。現在は火葬場の近代化に合わせて寝棺となった。

大野真名川流域では「箱(はこ)」といい、寝棺だった。深さ一尺五寸、幅一尺八寸くらい、長さ四尺くらいの二つ屋根切妻造、妻の破風に卍を書いて張り、棟にはカラカミを墨で黒く塗って貼る。

大野の棺
『真名川流域の民俗』から大野の棺

ごくまれに立棺という物があった。湯灌後に一番地の濃いものが抱いて入れるという。

入棺が終わると、棺に金紙銀紙を貼って飾り付けた。

葬儀について

ヨトギ(通夜)をした。

坂井高椋ではヨトギ(通夜)のときは牡丹餅を出す。ヨトギボタモチという。

上中上吉田での夜伽は、村中の人が集まり、お寺の住職は招かずお経は仏壇の前で唱える。この名残で通夜の前の会食に近所の人を招く。

現在、大島では親戚以外が神棚や壁飾りに半紙を貼って隠す。僧侶が枕経(マクラギ)をあげ、葬祭業者が火葬場へ連絡。翌日に近所や親せきがオクヤミに来る。ヨトギは、葬儀までにヨツブダンゴを毎日取り換え、線香の火は切らさない。親戚は夜の間もずっと死者の近くにいる。死者を安置する居間と座敷の襖、座敷と出間の襖を取り払う。寺に保存される提灯・天蓋・花立・旗を撮りに行く。これは大島地区の人が使いまわす。友引と丑の日の葬儀は避ける。葬式は1時間程度で終わる。

友引と丑の日は曹洞宗で避けるという。日蓮宗では「寅除」をしたという。

宮崎村では友引を避けたという。どうしても友引を避けられない場合は六人分の藁人形を作り手を繋がせて死者の膝に乗せたという。

三方町では葬儀後三日間は村忌みといって、区民が喪に服し、神社や参拝や神棚の拝礼を行わない集落がある。
死者が生前持っていた品を近親者やごく親しい友達に贈る「形見分け(しょうぶわけ)」は今も行われる。

小浜国富では、前日から近親者が手伝う。喪の家の周りは香典として白米・さい草を持参し帳場に渡し、佛前に備えてもらい諸道具の飾りつけ・埋葬の場合、掘方(オンボウ)を、女性は炊事、年配女性は仏前で念仏を、それぞれの立場で無料の労力を提供する。これが古来からの葬儀の手伝いのあり方という。

宮崎村では、神棚や天皇の写真に紙を張り、穢れないようにした。宮崎村樫津では白紙に「雲」と書いて張ったという。
食事の準備などは喪の家以外の者がやるという。小さい集落では集落民全員で、江波など大きい集落では同じ寺の仲間や近所で執行していた。

坂井高椋では枕元へ銀屏風を置く(逆さにはしない)。

下味見村では、葬式は寺や火葬場では行わず家で完結させた。

鯖江では、葬儀は午前十時から午後二時までに執行される。自宅や寺院で行う。

今立では、大抵正午に行う。

鯖江では間の華美な飾りは取り除き、神棚に半紙を張り遺体の枕元に屏風を立てる。順当な死に方でない場合は逆さに立てる。
鯖江の日蓮宗の葬儀の配置は以下。

鯖江日蓮宗鯖江市史 民俗
『鯖江市史 民俗』より日蓮宗の葬礼

 

大野真名川流域では、神棚に紙を貼り、仏壇のウチシキを裏返しにする。
棺の配置は以下。

真名川流域の民俗の葬儀
『真名川流域の民俗』より大野の葬礼の配置

納棺

宮崎村では湯灌後に棺桶に安座の姿で入れ、寒冷沙で縫った着物を着せ、額には三角頭巾をかけ、手を合掌の形に組み、数珠をかける。部落によって頭陀袋に六文銭を入れた。現在は寝棺になったので納棺が楽になったという。

鯖江では通夜の夕方に納棺する。遺族とオンボウ(火葬の世話をする人)で行う。ぬるま湯を入れたたらいの中で遺体を清める。今はアルコール清拭で終える。

青郷では夕方に近親者によって沐浴から納棺までをする。

三方町では髭を剃り、化粧をし、上等の着物の上に、寺の印などを押した白衣(カタビラ)を左前に着せ、手甲・キヤハンを着け、足袋・ゾウリ又はわらじをはかせて納棺する。

若狭大島では、本葬当日の朝に納棺を行う。笠・杖・死者が大切にしていた物・裁縫道具などを入れる。この時は棺の蓋を置いて釘は打たない。本葬は十時十一時に行う。僧侶が棺の蓋を閉ざすお経をあげているときに家族や親類がトンカチで釘を打って棺の蓋を閉める。血の濃いものから順番に打つ。最後に喪主が釘を打ち込んで終える。

現在、若狭大島では親戚が納棺する。杖・笠・六文銭が印刷された紙をズタブクロに入れて死者に持たせる。

大野真名川流域では、棺が普通の寝棺よりも深くて短いので、死者を横向き、右手を下、左手を上に、足をつくらって(曲げて)半組にさせて入れる。納棺は死んだ翌日にする。棺の中には法名と数珠を入れる。

流れ灌頂

灌頂とは仏法で、頭に水をかけてくらいにつくときに行う儀式。

水に関係するため、お産で死んだ人や水死した人などに行われる。

三方町では、難産や産後七十五日間に産婦が死亡すると、流れ灌頂という行事をする。遊子では塔婆を七本結わって川に流し、五色の旗を立てる。常神では長い縄に四十九本の塔婆を付けて沖に流す。この縄を一本ずつ引き寄せて塔婆を抜く。これは産婦を血の池から救い上げる儀式である。

宮崎村では80年前ごろまで寺や蝉口辺りで行われていたという。ここではお産で死んだ者のみに行った。流れに四本の杭を立て、寒冷沙に南無阿弥陀仏と仏語を書き、四隅の杭に結び、柄杓を添え置き、道行く人にこの柄杓で水をかけてもらう。寒冷紗の真ん中に穴が開くと婦人の霊が成仏したといって取り除く。

葬礼

一般的にソーレンや葬式という。小浜や美浜ではトリオキともいう。

耳塞ぎ

美浜町の広い地域では若者や子供のオナイドシの者が亡くなると、キナコをつけたボタモチつくり、宮代や神代では耳に当てて悪い知らせを聞かないようにした。新庄では屋根の棟が見えるか声の届くところに住むオナイドシのものが死ぬと米粉をひいて平たくしたものを耳に当てる。これも子供に限る。武生ではオナイドシが死ぬと家の者がねじれた小さなダンゴをつくり親類や近所へ配る。大飯町では同年齢の者は、出棺のヨビガネを聞かないように耳を塞ぐ。

出棺

出棺時蓆をたたく。若狭や武生にその事例がある。理由は不明だがまじないであるという。さらに門火をたく。若狭も越前もある。名田庄では死者にさせていたワラの枕を燃やすという。他地域に死者が生前使っていた茶碗を割る風習もある。死者が戻ってこないようにするため。越前では葬列に先だって火葬場でタキビをするところがある。魔除けのためだという。

先ほども記した通り、運ぶ際は死者を後ろ向き(シリンザ)にして進む。住んでいた家の方向を向いて名残を惜しんでいる格好のようであるという。

三方町は、多くの場合菩提寺が導師となり自宅の祭壇前で読経後出棺。

若狭大島では、出棺するとイワの女性が家の前で死者が使っていた茶碗を割る。「もう帰っても食事は無い」と死者に対して戻れないことを示す意味があったという。

宮崎村では死者の頭を後ろにして(後ろ向きのことか?)、輿に棺を乗せて出棺する。

大野真名川流域では、「だしたて」という。藁縄を縫い、棺をハシゴにしばり、棺の後に相続人などが続く。出棺する場所は特に決まっていない。縁側や玄関から出す。

小浜国富では出棺時に「内ふげん」という近親女性による焼香がなされる。「外ふげん」という男性の焼香は埋葬時。出棺時に三番鐘を鳴らす。

現在、大島は土葬時代と同じように葬列を組んでサンマイまで行く。そこで小銭を撒き、遺体は霊柩車へ乗せる。小銭は10円から100円を半紙に包んでお盆に載せ年配の親戚の男性2人が撒く。一般参列者はここで解散。遺体と遺族は小浜市の若狭霊場へ向かう。

野辺送り

松明や四本花、天蓋、旗、位牌、写真、供物、棺と輿などをもって、葬列を組んでサンマイへ向かうことを言う。

三方に「チン・ボン・ジャラン」「チン・ボン・ジャガン」「チン・ドン・ジャガン」「チン・ドン・ジャン」という児童語があるというが、いずれもソーレンの葬列を意味する。野辺送りの際の楽器の音だという。

大野の真宗では道場で葬式を行い、サンマイで荼毘にする。たいていは家で家葬礼をして、火葬場で野葬礼をする。道中は庭葬礼ともいう。

三方町の神子ではシンボミチという道があり、葬列はこの道以外は通れない。今は道がなくなった。美浜町新庄にも同様なウエミチという道があり、葬列は必ずここを通らなければならなかった。火葬場に着くとサンマイマワリをおこなう。時計回りで三回回って、棺を台に乗せる。死霊に方向を見失わせて戻らないようにするためという。

越前ではほとんどの地区で辻ろうそくをつくる。火葬場までに葬列の通る辻ごとにこれを立てていく。死者が迷わず進めるようにするための道しるべという。

若狭大島では、ソウレンカイドウという決められた道を通る。

宮崎村では昔は、女は白無垢白帯。男は白の裃。棺を担ぐ者はわらじを履く。

現福井市の棗村では、輿かきの際に履くわらじは都度新作する。故意に粗末につくる。再使用を禁ずる。

現坂井市竹田では道角に辻蝋をたて、送り火迎え火といい、火葬場で焚火をする。それが火葬の火種にもなる。棺は輿で担がれ長い行列ができる。昔は導師は籠に乗っていたという。

坂井高椋では女は白無垢。後の時代は黒の木綿。男は親戚は白の上下、近い親戚以外は大肩衣と袴。男は皆草履をはき、後にサンマイで捨てる。輿の後ろは近い身内の者。前の方は遠い親戚。(死人は後ろを向いているため。)

輿の順

福井美山小和清水で取材した際も、輿の持ち手について、「後ろは長男、前は次男」とおっしゃっていた。

この配置のことを、後ろを「ホンゴシ(本輿)」、前を「サキゴシ(前輿)」という。

美山小和清水の輿
福井市美山小和清水の輿
皆処分するのを嫌がって放置されているという。

鯖江では昭和三十年頃まで火葬場があり近親者4~6人でわらじを履いて棺の輿をかついだ。わらじは座敷の中ではく。辻ろうそくは…
1、麻木の先に白紙を結ぶ。
1、麻木の先に椿の葉をさす。
1、割った竹に白紙と椿の葉をさす。
1、割った竹に木の葉の形をした紙片をさす。
など種類がある。

上中上吉田では自宅から寺へを野辺送りした。

美浜では辻々で花籠を振ってトムライバへ進んだ。松原・新庄では野辺送りは通常と異なる道を進んだ。日向では葬列が神社の前を通らないように東西に墓地があった。久々子でも神社の前を避けた。トムライバにつくと広場を三回回り、龕を台の上に安置。供物や位牌香炉を置く。

 

芦原・金津・坂井・小浜・新庄では夫が亡くなったとき、妻が亡くなったときは、もう片方は野辺送りに出なかったところがあるという。宮崎村では妻が死んだとき夫は見送ることができなかった。(妻が夫を見送るはずであるため。つまり夫が先に死ぬはずであるため)

葬礼の時間は越前では午前中、若狭では午後に行うところが多かったという。友引の日の際には、金津・敦賀・美山では藁人形作って棺に入れるという事例がある。

大昔は四本花は殯の移動での魂の宿る所「依り代」とされていたという。今はそれを写真で行っているとされる。

共食の際、大島では出棺の前に嫁婿と僧が食事をするがその時は食べ残しは厳禁。神子では一本箸で食べるという風習がある。死者との永別を意味するという。
現在は出棺後、座敷とデの間で「シアゲ」を食べる。地元の仕出し屋で注文した弁当。

坂井町では男子が死んだ場合は四十九日、女子が死んだ場合は三十五日間魚肉を食べない。

若狭大島では、十三時ごろにサンマイから帰って来ると「シアゲ」を始める。魚料理、酒を食べ、にぎやかに行われる。赤い魚と葱は使ってはいけない。食べ残っても持ち帰ってはいけない。

宮崎村江波では「しゃ前」という、葬儀前に念仏講仲間に食事を出す習慣があったという。今は廃止している。「出立ちの膳」という死者との割れの共同飲食の痕跡だとしている。

坂井高椋では家の者は台所にはいれない。

若狭上中上吉田・鯖江ではすべて精進料理。

若狭の葬礼(美浜新庄)

クヤミ・・・村の人が挨拶やお供え、香典に来る。
一番鐘・・・隠坊が火葬場の準備が終わると鳴らす。
野辺送り・・・霊前で一膳、剃髪、家葬礼後に水向け、釘打ち、出棺。
葬列の順・・・オオダイマツ(大松明)、観音幡、役僧、写真、位牌、四花(アサギ)、昼飯持ち(めし、ミソ、塩)、添持ち(笠と杖)、ダンゴ、花菓子、蓮花、ゼンの綱(金巾)、野送り(一般の婦人)、弓張、茶(ヤカンに入れてある)、前花篭、前幡、鉦、龕、負方・持方、天蓋(龍の頭を模した物)、小松明、後花篭、地蔵幡、後幡、野送り(一般の男)。
サンマイマワリ・・・広場を三回回って龕を台に置く。
野葬礼・・・導師が小松明で引導をわたし、大松明・負方・持方がひざまづいて導師に三拝。読経の中で順に線香をする。

野葬礼が終わると、隠坊に後を任せて皆帰る。死者は石積の窯にて火葬。新庄では生のマキと木炭が燃料。昔はワラ枕にオキを一つ包み、隠坊が葬列に先行して火をつけた。点火した後隣の小屋で休み、交代で火のまわり加減を見るが、しばらくすると喪家から茶・酒・握り飯・にしめ・菓子などを携えて「野見舞い」があり、丁寧なあいさつをして労をねぎらう。滞りなく終わると、隠坊は「オツコミ」を唱えてから喪家に帰り、食事が出された。自分の家へ入るときは塩をふりかけてもらい、塩で口や手足を清める。

若狭の葬礼(三方)

野辺送りの葬列の順
露払い、大だいまつ、先旗、僧侶、生花、盛物、先香炉、写真、四花、位牌、輿(持方)、天蓋、喪主、昼飯、湯茶、供物、盛物、後香炉、後旗。

道中は死者の縁故に近い者が輿の近くに並ぶ。輿には禅の綱というさらし木綿の白布一反をつけ、行列に加わる人たちはこれを手にする。

現在は火葬場・霊柩車があり、野辺送りは形式的に行い、会葬者が焼香して終わる。

若狭の葬礼(大島)

出棺時茶碗を割る。

葬列の順番
松明、旗(四本)、花籠、導師、役僧、花筒(四本)、写真・位牌、お膳、灯籠、棺、天蓋。

松明は子ども。旗は親類の男性。花籠は年配の男性。写真・位牌や花筒は親類の女性。お膳は喪主の嫁。棺は6~8人の孫などの若い親類男性。天蓋は喪主の兄弟など。

若狭の葬礼(青郷)

葬列の順(地域によって差がある)
大松明、杖笠、四旗、写真、枕花、位牌、供膳、棺(持方)、天蓋、造花

若狭の葬礼(上中上吉田)

葬列の順
露払い、位牌、大松明、遺影、香炉、四華、盛物、前提灯、警護(お寺さんの案内役)、法中、輿(棺桶)、後提灯、会葬者

昭和50年代以降は行列は行われていない。警護役だけは存続したという。

越前の葬礼(今立)

着席、帰敬式、出棺勤行、野勤行、弔詞・弔電、蓮花を折り四ヶ華を生花と取り換え、灰寄せ勤行、出棺。おそらく時代が違う。
葬列の順・・・辻ろうそく、大道ちょうちん、棺(四人で担ぐ)、花。

女は角隠しをつける。

越前ではほとんどの地区で辻ろうそくをつくる。葬列の通る辻ごとにこれを立てていく。池田町ではこれを六本用意、野辺送りの先頭の人が火葬場までの要所に立て、最後の人が抜いてサンマイまで持って行き、そこで燃やす。辻に立てる時は火をつけないが、これは死後の道は暗いので迷わず行くようにとの願いが込められているという。

越前の葬礼(坂井町)

葬儀は出太鼓を打ち知らせる。近親部落の者が集まり僧侶の勤行がある。近親者は白衣を着てわらじを履いて八人で棺を担ぐ。供物は他の会葬者が運ぶ。線香は読経中に男子が棺前で行う。通路の曲がり角に辻ろうそくを立てる。

部落内では香典の金銭以外に御前米を持参。一升から三升など近親の程度で量が違う。後に香典返し。

越前の葬礼(鯖江)

葬儀の順
浄土真宗
帰敬式・・・かみそり
出棺勤行・・・読経
葬儀勤行・・・導師が立つ、導師の線香、弔辞、勤行、線香、野勤め、肩入れ式

日蓮宗の順
枕経、沐浴(湯灌)、納棺、通夜、葬儀行列、葬式

曹洞宗
通夜は夜遅くまで念仏を唱える。「百万べん念仏」は直径三メートルくらいの大数珠を回しながら「南無釈迦牟尼仏」を繰り返しの唱える。
内諷経・・・死者を寺へ迎える儀式。
山頭諷経・・・葬儀のこと。

葬列の順
辻ろうそく、六道提灯、棺、花、葬送者

野帰り

家の入口で身を清める。清めの塩や玄関にバケツを汲んで置き、杓で足元に水をかけるなど。また、たらいで足を洗い、ワラで足を拭き、敷居の上の升の白米を後ろ手に三粒つまんで食べるなどもする地域や、塩やみそをなめる、死者が来ていた着物を羽織る、入口のコモをくぐり足を洗う真似をする、海辺で手足を洗う、寺で茶を飲む、浜の砂を一握り持ち帰りかまど部屋や神棚へふりかけるなど多くある。海水や浜砂を使うのは、塩を使うよりも古い風習という。また火葬場から帰る時振り返ってはいけないなどもある。また履いていたワラジは、棺桶の穴に投げ込んだり、火葬場に脱ぎ捨ててはだしで帰るところもある。それを年寄りが履くと長生きや健脚に効くともいわれる。

おおい町では門口に立ててある搗臼の白米を臼に後ろ向きになって取り、これを噛んだ後、水で衣服の褄先と足とを洗うしぐさをして屋内に入る。村によって、立臼に塩、盥に水と湯を入れ塩を食べて足を洗う。

宮崎村では塩を体にかけ、手を洗った。舟場地区では家の門で一人が塩を持ち、一人が柄杓で水をかけるために待っている。

ちなみに米を噛むのはお産の時にも行われた地域もある。
これはつまり「気枯れ(けがれ)」の状態から、力をつけるまじないのような意味があるとされている。

葬送後

願戻し・・・生前使っていた茶碗を割る。

流れ灌頂・・・妊婦が亡くなったときに行う。川のそばに塔婆を立てる。

賽の河原・・・乳幼児が亡くなったときに行う。小石を積み上げ、水を供える。

泣き女・・・越前海岸の村にいたという。今では誰も知らない。

忌・ケガレ

仏教には「穢れ」という思想は無く、日本固有の土俗信仰「祖霊祭祀」と習合し、その中で生まれた思想だという。

つまり「穢れ」とは日本固有の思想だったということか。

以下「死」に関するケガレ。

  • 死者の出た家の者は味噌に触れられない。
  • 葬式に出ると1週間又は10日間は味噌や醤油に触れられない。
  • 死者の出た家の者は20日間外へ仕事に行けず、川へも行けない。
  • 忌中は男四十九日、女三十五日で精進する。
  • 女の人は「月」がある人は手伝いに行けなかった。
  • 家の者は三週間ぐらいお宮・人寄りの場へは行かない。
  • 湯灌したものは特にケガレが強いとされ、頻繁に塩をまかれていたという。
  • 喪の家はケガレが強く、期間中に火を使ったものを食べるとケガレを受けるという。「忌」を「火」と呼ぶ地域もある。
  • 古来、死者の「ケガレ」の期間が終わると「仏」ではなく「祖霊神」となるという思想は、現存する祖霊を祀る若狭だけでなく、越前でも信仰があった。

または「気枯れ(ケガレ)」ともいう。これは心が消耗し弱っている意味を持つ。葬儀の時に食事の準備をしないのも、「穢れ」と「気枯れ」の両方の面から避けているのだろう。

備考

※海難で死んだときは、死体が上がれば通常の葬送をするが、行方不明の時は生前使っていたものを棺に納めて火葬する。その後、忌明け・年祭・祖霊祭などを行っていく。

※葬列は地域によって順が異なる。

私が参加した葬礼

記憶が曖昧で、細かいことは覚えていないが、覚えている限りの流れをここに記録する。

5年ほど前

病院で死去。
1日目、病院から自宅へ遺体を運ぶ。死者の自宅でその子どもと1日泊まる。

2日目、家で法事を行う。遺体は仏壇の前に置く。家が狭かったので確か遺体は南向きだった気がする。枕元の横に焼香台を設ける。死に水や死者の装いなどを行う。棺に納める。家から出棺。葬儀場へ運ぶ。夕方から葬儀場で通夜を行う。大勢の縁のあるものが参列する。親族(孫まで)は入口付近で挨拶する。親族の一部は死者と共に葬儀場に泊まる。

3日目、葬式を行う。参列するのは親族や親戚、町内会の特に関わりのあった者、特に仲の良かった友人など。僧侶は二人。葬式が終わると葬儀場からの出棺の準備(棺に花や服などを入れる)。食事はいつしたか覚えていない。出棺。出棺時、棺と遺影だけ持っていた記憶がある。他特に供物は無かったはず。霊柩車で火葬場へ向かう。火葬場へ向かうのは親族、限られた親戚と僧侶だったはず。火葬場へ向かう前に死者の家に寄る。死者の家の前や周りでは近所の人が待っている。私が記憶にあるうちで参加した葬礼は計3回だが、この家の前で車から降りることもあれば降りないこともあった。霊柩車が例のクラクション(?)を鳴らして出発する。火葬場へ到着後、入口からさらに告別室(個室)に遺体を運び、親族もついていく。告別室の天井の中央は天井ガラスとなっていた。その真下に棺が置かれる。ここでもう一度顔の部分だけ蓋があけられ、経があげられ、一人ずつ順番に最後の別れをする。これがすむと炉前ホールへ移動する。炉前ホールは数基火葬炉があり、すでにそのうちの半分以下の炉前に他の者の遺影が置かれていた(待合室に他の団体はいなかったので火葬後か)。火葬場職員の案内で死者の長男が炉前のボタンを押す。その後待合室に移動。1時間ほど待ったか。収骨へ向かう。長男は手続きがあるのか収骨に参加しない。収骨では炉前まで行き、炉前から人型に揃えられた遺骨を載せた台車が出され、それと共に収骨室へ向かう。収骨は4,5人で行う。骨の説明がある。ノドボトケ以外の骨は自由に拾う。拾った骨はハシワタシして箱に詰める。火葬場をあとにする。そこからは記憶にない。

6年程前と8年ほど前(同じ方の家)

6年程前と8年ほど前の2人とも流れは同じだったはず。ただしほとんど覚えていない。

病院で死去。
死者の自宅で法事を行う。ここは家が広かったので北枕だった。仏壇の斜め前に遺体を置き、その横に焼香台を設ける。まさに「『真名川流域の民俗』より大野の葬礼の配置」図のような感じだった。
火葬当日。確か火葬に行く前に食事をしたような気がする。火葬は同じ場所で、1時間ほどで終わった。

参考文献

『福井県史15 民俗』
『あどうがたり』
『ノヤキの伝承と変遷』
『三方町史』
『若狭がたり2 民俗』
『若狭の民俗』
『小浜、遠敷の両墓制について』
『新考坂井郡誌』
『土に還る』
『郷土誌大飯』
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
『大飯町誌』
『浄法寺村誌』
『宮崎村誌』
『総合民俗調査報告書(第17号) 宮崎村の民俗』
『郷土誌青郷』
『南越民俗』
『鯖江市史 民俗』
『上吉田集落誌』
『北谷物語』
『国富郷土史』
『小浜市史紀要 第3集』
『上舌部落誌』
『真名川流域の民俗』
『敦賀志』
『南条町誌』
『わかさ美浜町誌』
『若狭における葬送墓制の転換』
『棗村誌 前編』
『福井県大野郡誌 下編』
『鯖江郷土誌』
『越前国今立郡誌 (福井県郷土誌叢刊)』
『丸岡町史』

取材

敦賀沓見の方
福井美山小和清水の方
南条西大道の方

シリーズ

三回目
墓制と県内の火葬土葬方法とその違い【福井県の葬送Ⅲ】
https://kofukuroman.com/sousou3-kasoudosou/

四回目
県内各地サンマイ写真(火葬場・土葬地)【福井県の葬送Ⅳ】
https://kofukuroman.com/sousou4-sanmai/

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