敦賀町営火葬場跡(湯山火葬場)と湯山墓地【敦賀市】

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福井県敦賀市の元公営火葬場があった跡地。火葬場跡地を見ていきます。湯山火葬場といわれた火葬場とその歴史を辿ります。

火葬場跡

湯山火葬場

金ヶ崎公園天筒山駐車場のさらに奥に行くと湯山墓地が広がります。

火葬場があったのは上写真の右上に行く道です。

湯山火葬場
湯山火葬場

慰霊碑とその上の方に言霊碑というものがあります。

敦賀町営火葬場(湯山火葬場一代目)

まず敦賀に最初に公営火葬場が登場したのは明治時代、当時の関口町長は時期、水害に見舞われ、伝染病が発生したために、明治三十五年に当時の土葬習慣が改められ、共同埋火葬場を建設するなど尽力したということが『敦賀市史 通史編 下巻』に書かれています。

『敦賀市議会史 第1巻』には、明治三十四年に内務大臣に提出しているとの事。この資料にも伝染病のことが書かれています。敦賀の最初の火葬場は、この年の水害による伝染病が流行った為、土葬習慣からの改めが火葬場建設に繋がったとのことで間違いないでしょう。

また、『市制十五年史』に

昭和十七年十一・二十 湯山火葬場窯並煙突 築造

と書かれています。 

敦賀市営火葬場(湯山火葬場二代目)

二代目火葬場について

『敦賀市勢要覧資料編』にこのような記述があります。

湯山火葬場は昭和18年12月に完成

これは建て替えしたということでしょうか。

おそらく二代目の様な立ち位置で、当時の近代的な火葬場に変わったと思われます。

また『市制十五年史』には、

昭和十八年十二・二十 湯山火葬場建築工事、竣工

並びに

火葬炉 6基
墓地  1ヶ所

との記述があり、やはり建て替えし、新しくなってからはそれなりの台数があったようです。昭和十七年からの工事がひと段落したと捉えても良いかもしれません。

『敦賀市議会史 第1巻』にそのことが書かれています。

近代的な火葬場建築の件が、昭和十七年当初に提案され、時局多難の折柄工事着手に至らず、十八年の一月にようやく竣工した。
参考:『敦賀市議会史 第1巻』

予算の問題があった様で、上の文には予算の話が多かったのでその辺りを省いて載せています。年代はこの辺りだったということです。

石碑

湯山火葬場

石碑に碑文が書かれています。ここまで行けないという方のためにここに書き留めます。

 この地は、明治三十四年以来ほぼ一世紀永きにわたり、市営火葬場用地として使われてきたところであります。
 平成七年三月に市営火葬場の老朽化に伴い敦賀斎苑として移転○○いたしました。
 このたび、この地に慰霊碑を建立してここに眠る御霊に対し、とこしえに安らかならんことを念ずるものであります。
 平成七年十一月
 敦賀市長 河瀬一治

一部抜けている「○○」の場所は申し訳ありません。文字が見にくく持ち帰った写真では確認することができませんでした。しかし大まかな内容はこれで確認できます。

敦賀斎苑

敦賀斎苑はかなり仕切られた状態にあり建物の様子をうかがうことができないため写真は載せないことにします。

『敦賀斎苑 個別施設計画』によると、敦賀斎苑が出来たのは平成七年。火葬場跡に書いてあった年と同じです。

無煙無臭の設備です。

平成三十一年時点での計画説明は以下の資料から見ることができます。

『敦賀斎苑 個別施設計画』
https://www.city.tsuruga.lg.jp/about_city/cityhall-facility/shiyakusho_shisetsu/gaibushisetsu/tsurugasaien.files/tsurugasaien-kobetsu.pdf

「湯山」という名前について

湯山火葬場

「ユヤマ」ともいい、「イヤマ」とも言うといいます。これは土葬地や火葬場でよく使われる「ヤマ」をあらわす言葉から来ているとされています。

敦賀では火葬場のある所をイヤマと呼ぶ。各地に地名として残るイヤダニ・イヤヤマは古くは埋葬地であり、山中他界の遺跡とされている。墓地や火葬場ばかりか、死人をも「ヤマ」と呼ぶのはそのなごりであろう。
引用:『あどうがたり』

イヤヤマ・イヤダニは徳島県など他の地域でも畏怖感を与えるような場所のことを言うとされ普段人が近づかない場所であるといいます。若狭では葬儀を「ヤマを出す」といい、敦賀では「イヤマへ行く」というとのこと。

ではなぜ火葬場が作られる前から墓地に関する名前なのか。

私はこの場所が明治以前からの墓地だったからと睨んでいます。

こんな資料があります。

昔の三昧ハ小谷の東、今の茶ノ木原なり。寛文十二年、気比宮へ近きを恐れて、松原の二矢橋の辺へ移せしを、程なく今の来迎寺の西へ移されたり。
引用:『敦賀志』

気比宮の近くで、谷があり、その東の原。そして「ヤマへ行く」という言葉。これがある可能性があるのは今の湯山墓地周辺しかないと思われます。加えて、湯山墓地には多くの墓があり、古い墓もあり、仏教、神道、キリスト教の墓もあります。

湯山火葬場
湯山火葬場

これほどの墓がある場所が昔から使われていないはずがないと推測します。

小谷は湯山周辺であり、湯山は火葬場が出来る前から「ヤマ」だったのだと思われます。だからこそ火葬場が出来るときには既に「ユヤマ」「イヤマ」「ヤマ」とされていたのでしょう。

参考文献

『敦賀市史 通史編 下巻』
『市制十五年史』
『敦賀市勢要覧資料編』
『敦賀斎苑 個別施設計画』
『若狭の民俗』
『あどうがたり』
『敦賀志』
『敦賀郡誌』
石碑

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