福井県敦賀市沓見のサンマイには、敦賀市指定文化財となっている宝塔(石塔)があり、そのサンマイはかつて土葬だったといいます。後に集落火葬場が設けられました。六地蔵前の棺台含めた葬送空間に独特な石仏が彫られていたりと興味深いものとなっています。
古くからの葬送空間を見ていきます。
サンマイの位置
沓見のサンマイがあるのは沓見集落内の一番南の山の麓です。
一段高い所に形成されており、山の中へ続くように墓地が続いています。
ただし、実は沓見のサンマイはここだけではなく、西神社入口、信露貴彦神社北などにもあり、特に信露貴彦神社北の方は土葬両墓制の雰囲気が残っています。
今回は南にあるこのサンマイを見ていきます。
葬送空間(サンマイ)
ソウレンバ
まず目を引くのがこのソウレンバ(葬礼場)です。
そこには葬儀を行う空間が作られていました。
正面に供物台(焼香台?)が置かれ、その先には棺台、その真横に六地蔵、灯籠。
この供物台がなんとも特徴的で、下に何やら石板が置かれ、仏と宝塔が彫られているのです。
さらにその石板の両サイトにも石仏と舟形の彫刻物があります。これは一体何を意味するのか。ちなみに沓見は曹洞宗です。
そんな供物台の後ろには「H」の文字のように並べられた石。これが棺台です。取材の中で聞いたので間違いないです。
ここに棺を置いて最後の別れをし、この先にある火葬場へ運んだのだそうです。
火葬場への道
取材の時期は桜が咲いている時期でした。火葬場への道に一本の桜の大きな木が覆いかぶさるようにして咲いていました。
春に送られる葬儀では、この満開の桜の下を通っていったのでしょうか。
火葬場跡
桜の道の先へ山に入っていくと、広い空間にたどり着きます。
ちなみにここまでは墓も道沿いに連なっています。
かつてはここに火葬場があったといいます。右の方に見えている説明板は、市指定文化財の説明板ですが、その説明板にも
近くには最近まで集落の火葬場が建てられていた。
という一文があります。
取材した方によると、それなりに大きな建物だったということです。
火葬から土葬へ(取材より)
さて、取材をして分かったことですが、ここはかつては土葬を行っていた場所です。
取材によると、取材した方の旦那さんの親の代までここで土葬をしたのだと聞いており、その後に集落火葬場造営、後に湯山の火葬場へ移行、昭和42年には既にここに火葬場は無かったそうです。
土葬した場所の上には菊の花を手向けたといいます。その菊の花は虫除けになるのだとされており、死臭を消すためともいわれていたそうです。
これが意味するのは両墓制か。それとも数か月~数年経ったらその上に石塔を立てる単墓制か。それは不明です。
今でも土葬の跡らしき場所が所々に残っています。わかるでしょうか。石塔の並ぶ中、草が生えたところに小さな石だけが置かれています。また、奥にある古めかしい石塔墓も土葬の跡ではないかとも思うのです。
前回、和久野の葬送を見ていきましたが、その中で敦賀の町営火葬場造営を機に土葬から火葬へ移行した集落が多いのではないかという話をしました。
しかし、この沓見では集落火葬場が設けられた時期があります。昭和初期に町営火葬場が湯山に出来て、敦賀平野部の土葬はその時期に一気に火葬へ移行したと考えます。しかし、それは町営火葬場を使用し始めたという前提の話です。沓見は集落火葬場を持っていたということはその前から火葬に移っていたのか。しかし取材した方の旦那さんの親が土葬したということは昭和初期付近までは土葬だったのではないかと考えるのです。でも昭和42年には既に火葬場は無くなっていた。
そうすると、ここからは私の考察ですが、沓見の火葬場はかなり短い間しか使われていなかったのかもしれません。町営火葬場が出来て周囲が火葬に移行する中、それに合わせるように沓見も火葬に移行するが、町営火葬場は使わず自らの集落火葬場を造営して運営していた。その後、やはりこのやりかたでは厳しいということで町営火葬場を使うようになった。ということなのではないかと。
集落の方も記憶が曖昧のようでしたが、話を信じるならこういうことだと思っています。
沓見宝塔
市指定文化財。沓見宝塔。
現在は小屋内に保存されています。扉は開けることができ見ることができます。
室町時代の物で、その時代としては大型の宝塔とされています。石材は砂岩。丸っこい部分に地蔵が彫ってあります。
説明板によると墓地の最奥中央に置かれていたことから、惣墓の意味があるとされているそうです。亀裂以外は完全な状態で保存されているということです。
墓地の最奥でしかも火葬場跡にあるということで、一般の人はあまり立ち寄りがたい場所だとは思いますが、価値あるものです。
取材協力:沓見の方
参考:現地説明板
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