福井県おおい町父子。この地はかつて土葬両墓制または単墓制でした。
今回お寺で土葬についてのお話を伺えたのでここに記します。現存する土葬地も許可の下でここに掲載します。
個別に記す経緯(ここは飛ばしてもらって構いません)
当サイトには、私が実際に訪れた火葬場や土葬地を記録し掲載している専用ページがございます。
父子の土葬地も今まではこちらに掲載していましたが、情報と写真の量が多すぎたこと、せっかくご住職にたくさんのことをお話していただいて記録したこと、時代の流れ風景が今現在進行形で変貌しているということ、ミドリトウバという若狭の葬送において重要な物が現存していたことなどを踏まえまして、個別ページで改めて記事に致します。
内容量は変わりませんが、より見やすくなっているものと思われますので、どうぞご覧ください。
土葬地
父子のメインとなる土葬地は集落のはずれではなく、海元寺という集落の寺院の敷地隣接地にあります。
単墓制か両墓制か不明。両方の可能性があると考えられます。
3つのマクライシが置かれ、花筒がその中央や前、石の上に置かれています。
茶碗や湯飲みも置かれており、埋葬の様子が分かる風景です。茶碗や湯飲みが裏返されているのもあります。
場所によっては卒塔婆が建てられている場所もあり、在りし日の土葬風景を思い起こさせます。
石の下に埋葬されていると思われますが、見てわかる通りかなり間隔が狭いです。家ごとに場所が決まっていたのでしょう。
他の土葬地でもそうですが、同じところを掘っていると昔埋葬した人の骨が出て来ることがあります。そういう時は今埋葬する人の棺の上に骨を置いて再び埋めるのが通常のやり方です。
土葬墓について
ご住職のお話
さて、この海元寺さんでご住職に話を聞くことができたため、それをここに掲載します。
本当にありがとうございました。
ご住職のお話
・すべてにおいて土葬してから50~100年経っているからすでにトムライアゲは終わっている。
・土葬が終わったのは昭和初期頃。それまではすべてが土葬だった。
・集落の皆が寺に土葬するわけではなく、自分の持ち山がある人はそちらに土葬していた。
・すべて座棺。
・墓へのお参りは土葬のお墓にしに来ていた。花を手向けている。
・今石塔の墓がたくさんあるけれど、あれも全部元々は土葬墓だった。改葬して石塔墓になってきている。なのでこの土地一面が土葬墓の様子であった。
・近年亡くなった方は皆石塔の墓に入れているけれど、おばあちゃん・ひいおばあちゃんなどのお墓はまだ土葬の墓であるという人もいて、近年亡くなった親族の墓参りは石塔墓へ、おばあちゃん・ひいおばあちゃんの墓参りは土葬墓の方へ来るという人もいる。
・今残っている土葬墓もいずれは石塔墓に改葬してゆくと思う。
多くのお話、本当にありがとうございます。
このように消えゆく風景でなのです。
ここで注目したいのが、「墓参りに土葬墓に来る」という点である。海元寺にはほかに石塔墓はありません。ということは元々石塔墓がほとんどないのです。ただし寺内の一区画にの古い石塔が集められている場所はある。これが石塔墓でしょうか。だとしても今はなく、皆土葬墓に参りに来るということは、これはある意味で単墓制であると言えるのではないでしょうか。
では郷土誌を見てみましょう。
郷土史『若狭の民俗』
なんと郷土史には詣り墓と埋め墓が分けて書いてあったのです。
埋め墓の名称:ミバカ、ミハカ
詣り墓の名称:ザントウ
『若狭の民俗』からである。これはどういうことなのでしょうか。『若狭父子の民俗』にも「ザントウ」の名が出てきます。
私が知らないだけで他に石塔墓の土地があるのか。
それとも、ご住職が言っておられた「寺に土葬墓がない人」のための両墓制なのか。
または一区画に集められていた古い墓が詣り墓なのか。
少なくともご住職の話では、お参りに来る際は土葬墓に参りに来るということになっているようです。
集落外れにあるような忌みの場所にあるわけではなく、集落の山の麓の寺内に土葬墓があるという点を見れば、ここでは土葬地はあまり忌み嫌うというような存在ではないのかもしれません。
村外れの土葬地
このように集落のはずれや中の山の麓に土葬墓が点々としてあるのを見つけました。知るところ大きく分けて寺の土葬地以外に父子集落内に2地点の土葬墓を確認しました。
これがご住職のおっしゃっていた、「自分たちの山へ土葬した方の土葬墓」なのでしょう。
ミドリトウバ
さて、今回の父子の土葬地でもう一つ感動したものがあります。それがこれ。
木が生えているのがわかるでしょうか。これはミドリトウバというものです。何回忌の節目に植えられるか括りつけられる木の枝塔婆のこと。まさかこの時代にその実物を見ることができるとは。感動です。角塔婆が墓標になっているという点も素晴らしい。
このように若狭の土葬において、土葬の頃の形を伝えている墓がいくつもあります。いずれ改葬されてしまうのかもしれませんが、それでも今、こうして記録できたことがとても嬉しいことです。
協力してくださった海元寺ご住職にも改めて御礼申し上げます。
参考文献
『若狭の民俗』
協力・情報
海元寺ご住職
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