加茂神社(納田終)と人身御供 ~白羽の矢が立った村~【おおい町】

当記事には広告(商品リンク、旅行予約リンクなど)を掲載しています。
※ステルスマーケティング防止のため

加茂神社鳥居

「白羽の矢」
それは、村の神から生贄に選ばれた少女の家の屋根に立つ、人身御供の印

かつて、日本の村で「人身御供」という風習があったとされています。
ある時期になると、村内の少女がいる一軒の家に白羽の矢が立ちます。すると、その家の少女を神への生贄として捧げなければなりませんでした。そうしないと、村が災害に襲われたからだといいます。

福井県おおい町名田庄村納田終。
ここにも、その伝説が語られる土地があります。

今回は、福井県おおい町納田終の「人身御供」伝説と伝説の伝わる土地を紹介します。

白羽の矢と人身御供伝説

まず、今回のテーマである納田終の「人身御供」の話について触れておきます。

 昔、この加茂神社から毎年春2月頃に白羽の矢が放たれ、氏子の中で若い娘のいる家の屋根に立てられた。この矢が立った家は、娘を「人身御供」として神殿に供えなければならなかった。
 氏子は皆、春になるとこれをおそれて悲しみ続けたが、応じなければ村中が大嵐に遭うか、疫病が流行するなど悪事災害が必ず村を襲うとされ、矢が立った家では、嘆き悲しみながら泣く泣く娘を檻に入れ、寒い夜中に神殿に供えた。娘の安否を気遣い、夜明けに神殿を見に行くと娘の姿はなかったという。
 しかし、こうした犠牲にいつまでもたえることはできなかった。氏子は強い意志を固め、総動員で神前に詣で、人身御供に変わるお供えをもって災害を逃れさせるように祈った。
 その甲斐あって、神のお告げにより、夏の土用の日に清浄な川で魚をとり、これを塩でおしにした川魚に米の飯を固めて抱き合わせ、新しい桶に詰めて石の重しをかけた「すし」をつくり、これを人の身にかえる意味で「身ずし」と称しお供えすることになった。
 氏子は毎年正月3日、白羽の矢が放たれる前におみくじで当番を決め、身ずしをつくって供えた。それ以来、白羽の矢は放たれなくなったという。
 現在の「白矢」の地名は、白羽の矢が放たれた在所ということで名づけられたと伝えられる。

参考:『名田庄のむかしばなし』

他『越前若狭の伝説』『わかさ名田庄村誌』『福井県神社誌』にも記述があります。

今考えると恐ろしい日本の風習。
そんな状況や村人の感情、経緯が伝えられています。

ちなみに敦賀別宮神社の蛇池にも人身御供の伝説があります。

ほとんどの人身御供伝説は、神とされていた正体が「ヒヒ」だったり、「むじな」だったり「大蛇」だったりして、村に訪れた侍が退治して人身御供の歴史を閉じる、または偶然の奇跡で人身御供が終わるという結末です。

しかし、この納田終加茂神社の人身御供伝説は、偽りの神などではなく、本当に神が生贄を求めていて、その人身御供を終わらせたのが、侍などではなく村の氏子であり、総出で祈願したということです。何ともリアリティがある終わり方で、他の人身御供伝説とは一味違うように思えます。

人身御供伝説の地 納田終「白矢集落」

白矢

納田終の「白矢」

「白屋」とも書くそうですが、現地バス停は「白矢」でした。先ほどの伝説にも書かれていましたが、その由来はもちろん「白羽の矢」から来ているとされています。

場所は、おおい町山間部の京都にほど近い場所。国道162号線沿いにある集落で、自動車ならばアクセスしやすい場所です。また、800メートルほどの近くには「道の駅名田庄」があります。

そして何よりも有名なのが、「土御門家」つまり「陰陽師の安倍家」が一時滞在していた土地として知られており、白矢集落には「天社土御門神道本庁」道の駅近くには「暦会館」なるものもあります。

そんな中にある「人身御供伝説」です。

加茂神社

ここからは、人身御供伝説で生贄が捧げられたという加茂神社について記します。

実際私が訪れた時の写真と共に、現地の様子と祭神、祭礼などを見ていきます。

加茂神社について

加茂神社全様

神社があるのは白矢集落の西。山の麓です。
杉の大木がいくつもあり、鳥居の社標は黒に金と高級感があります。最初境内中央にある茅葺屋根の建造物は神楽殿かと思っていましたが、『御大典記念福井県神社誌』には主要建造物として、

  • 本殿:木造、瓦葺、流造
  • 拝殿:木造、茅葺、入母屋造

と書かれていたので、どうやら境内内茅葺の建物は「拝殿」らしいです。

祭神別雷神、泰山府君、善積河上大神、天御中主命、闇靇神
境内荒神神社、稲荷神社

この神社は、京都上賀茂神社の神霊を勧請し、養老二年(718)から祀られ、谷川家初代が貞和五年(1349)神社建立したといわれています。

この神社の地を「宮山」といい、国道挟んで向こう側に流れる南川の淵を「加茂の御手洗」と呼ばれてきました。

納田終には昔から加茂大明神、御霊明神、泰山府君、善積河上大神が祀られていたらしく、明治41年にすべてがこの加茂神社に合祀されたそうです。『わかさ名田庄村誌』と『御大典記念福井県神社誌』によると、この内の「御霊明神」は、先ほどの谷川家の記録により、「清明御霊社」「御霊川上明神」と呼ばれていたらしく、「清明」は「晴明」、つまり安倍晴明関係の神社とされているようです。

以前紹介した味真野神社もそうでしたが、やはり明治41年に福井の神社は神社合祀政策の影響を受けたのか、大量に合祀されているようです。

納田終の安倍家(土御門家)の聖地というと、暦会館や天社土御門神道本庁、安倍家の墓など思い浮かべますが、この加茂神社も土御門家の聖地というわけで、切り離せない関係のようです。

加茂神社階段

拝殿後ろには、石積みの上にコンクリートで整えられた急な階段があり、そこから本殿へ向います。

もとはこの下にある石階段だったのでしょうか。

本殿は下の段とは違い少し薄暗く、全く違う雰囲気でした。

『わかさ名田庄村誌Ⅱ』の中に、
「この社の背面上に大きい岩石が露出しているが、この岩石を神の降臨する磐座と見立てて、この社は建立されたものと想像される」
と、書かれています。

加茂神社磐座

わかるでしょうか。写真上の方に大きな岩があります。

加茂神社境内から山の上を見ると、大岩を見ることができます。磐座とは、おそらくこの岩の事でしょう。

身ずしと加茂神社の祭礼

さて、この加茂神社には今でも「人身御供」伝説の名残だといわれている祭りがあります。

それが、3月2日と10月2日に行われる例祭です。
ここでは簡単に見ていきます。

  1. おはけ建の儀。一週間前に当番の家へ神霊を迎え、お供え物を供える。その間神霊の迎えた室内には、家の当主の他、何人たりとも一切出入りを許さない。当主が外泊することも許されない。この1週間、当主は毎朝水行をする。
  2. 柴走り。春の例祭で行われる。本殿から100メートルほどのところにある2本の杉「杉の鳥居」まで2人の人を競争させる。京都加茂神社の馬競と同じ意味と言われる。
  3. オロオロ祭り(大膳大食(オロオロ)の儀、オロロ祭り)。前述の1週間が終わると行われる。ご飯や大根、味噌汁、魚など供える。その後本殿に納められる。
  4. 本殿祭。白もち、トコロの根、甘酒、生大豆を24枚のヘギ板にのせて供える。外には末社の供物もある。他に「牛の舌もち」という小判型の餅を供える。(餅は後に氏子へ配る)

この祭礼は、昔はもっと段階があったようです。明治35年の神社法改正から省略されているといいます。

今は廃絶した儀式は以下です。

  • 御神楽祭。柴走りの際、真榊の枝に水を付けて一般参詣者を清めるため水をかける。
  • 御飯ふみ。柴走りの勝者の家で米を蒸し莚で包み4,5人で踏み固め、四角い餅をつくる。翌朝、餅を丸桶に入れて背負って本殿へ持って行き供える。この途中で休むと穢れるとして、休むことは許されない。
  • 身酢祭(身酢鮨、みずし)。夏の土用の丑の日に川魚を撮ってきて、塩漬けにし、御飯に混ぜて、大桶で供える。
  • 忌指祭。柴走りのゴールである大杉に、毎年正月と8月に2人の当番が縄を貼り、御幣を祭り、神官が祝詞をあげる。この時から3日間(春は2月2日、秋は9月2日)、氏子一同はもちろん、他国の人であっても納田終にいる人は、どんな用事があっても一切納田終から出ることを禁じる。

かなり厳粛に行われていたということがわかりますね。

素晴らしい文化ではありますが、当事者側の苦労は相当なものだったでしょう。

それにしても、「人身御供」の名残である「身ずし」が現在行われていないのは残念な気もします。しかし、先の『名田庄むかしばなし』にはこうも書かれています。

何時の頃からか、その身ずしを「舌餅」(楕円形状のうまい餅)に代え、祭典の儀式は今も厳粛に受け継がれ、身ずしの名残として川魚を供物に供えている。

何時の頃からかというのは、明治35年からでしょうか。本祭に川魚が供えられている様子はないので、オロオロ祭りの時の魚のことを言っているのでしょう。

加茂神社社殿

納田終加茂神社の社殿。階段上なので、こちらが本殿になるのでしょうか。

本殿は重要文化財

相当昔からある本殿ということです。まあ、さすがに「人身御供」時代からあるというわけではないでしょうが、かつて遠い昔、ここに人間が「人身御供」として供えられて、それが「身ずし」として供えられてきたと思うと、なんとも深い気持ちになります。

 

ちなみに「柴走り」について、大杉の鳥居があると書かれています。
この大杉、昭和57年におおい町の天然記念物となっているようなのですが、現地へ行くと。

加茂神社大杉

このような状態でした。
どうやら2019年に伐採されてしまったようです。今ある杉は、先代大杉の分岐されていた若い木だそうです。

ちなみにグーグルマップのストリートビューではまだ残っているときの様子がうかがえますので、見てみても良いかもしれません。

『わかさ名田庄村誌』の方には、この祭りについて事細かく書かれていますが、それは本記事に載せられる量と質を超えているので、細かく見たい方は郷土史の方を見て頂けたらと思います。

その『わかさ名田庄村誌』には「加茂神社の祭礼の儀式は安倍家の陰陽道信仰の影響が強かった」と書かれているので、細かく見ていくと、詳しい方なら何かわかるかもしれません。

土御門(安倍)家と加茂神社

さて、いままで見てきた中で、納田終加茂神社がかなり土御門家と関係が深いことがわかりました。

この土地には土御門家(安倍家)が駐在した地としても知られています。先ほども記しましたが、この加茂神社も安倍家とは切り離せない存在です。

そもそも安倍晴明と賀茂氏が関係があります。

『わかさ名田庄村誌』でも言われていますが、安倍晴明が幼少期に賀茂忠行、保憲に陰陽術を学んだとされており、賀茂氏自体が陰陽道に精通していたということもわかっているようです。

納田終の加茂大明神、御霊明神、泰山府君、善積河上大神の4神もすべてが陰陽道とかかわりのある神とも言います。
つまり、この納田終の地でも土御門家と加茂神社との関係が深いとはっきり言えるということでしょう。

『福井県神社誌』には、「往古京都土御門家この地に別荘を建てられ、時々この社へ御参拝ありしと伝えられる」と書かれています。

安倍晴明の師が賀茂氏ならば、納田終の土御門家が加茂神社を崇めるのも、安倍家と賀茂氏の関係からくるものなのでしょう。

 

加茂神社との関係はわかりましたが、先の祭礼に安倍家の陰陽道が深く関係しているとは面白いです。
応仁の乱を避けてこの地に移り住んだとされる土御門家ですが、はたして土御門家と人身御供伝説との関係は…。

  • 納田終加茂神社と土御門家との関係は明白。
  • 納田終加茂神社の祭礼は安倍家陰陽道信仰の影響を受けているとみられる。
  • 人身御供伝説と土御門家との関係性についての言及はどの郷土史にも一切なし。

直接的な事は、私が見たどの郷土史にも一切書かれていません。関係性を問うようなこともありませんでした。

もしかしたら、『若狭郡県史』や他文書には何か書かれているかもしれません。しかし、私にはこれが限界です。

・・・ここまでにしておきましょう。

納田終の人身御供伝説とは、なんだったのか

安倍家陰陽道信仰と深いかかわりを持つ納田終の加茂神社。

その加茂神社に伝わる人身御供伝説。

この人身御供伝説は、陰陽道信仰の祭礼から派生した「伝説」なのか。それとも、本当に行われてきた村の風習なのか。

ただ私がこの伝説で一番印象に残ったのは、前半でも記したように、通常の人身御供伝説である「侍が偽りの神を退治して人身御供の歴史を閉じるという結末」などではなく、本物の神が生贄を求めていて、その「人身御供を終わらせたのが村人たちの堅い意志であり、総出で神に向かって祈願、言い換えれば、あまりにも理不尽で残酷な神に人々が反発して、村人自らの力で人身御供という忌まわしき歴史を断った」ということです。

たとえこれが「伝説」であっても、「人々の一致団結は神にすら負けない理不尽なものに対しては皆で抵抗して自分たちを守ろう」という現代まで続く強いメッセージなのではないかと、そう思うのです。

参考資料:『名田庄のむかしばなし』『若狭遠敷郡誌』『わかさ名田庄村誌』『わかさ名田庄村誌Ⅱ』『越前若狭の伝説』『御大典記念福井県神社誌』『福井県神社誌』

基本情報(アクセス、バス停、駐車場)

最寄り駅は、JR小浜駅からバスに乗り換え、名田庄線の白矢バス停下車すぐそこです。

自動車では小浜ICから車で31分

駐車場は、国道162号線沿いの大杉前集落内加茂神社横あたりの2つがあります。

マップへ

【当サイトはリンクフリーです】

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
おおい町
スポンサーリンク
シェアする
  • コメントはメール返信ができませんので、該当ページ上での返信となります。
  • コメントは審査をしますので、反映・返信までに数日かかる場合があります。(1週間経っても反映・返信されない場合はサイト運営者に何かあったと思ってください)

コメント