伊地知姓発祥「伊知地」畑ヶ塚と時能~古戦場に紫陽花咲く【勝山市】

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福井県勝山市北郷に伊知地という地名があります。

薩摩の苗字「伊地知」の由来の地という。南北朝時代の古戦場であり、畑時能の墓や古い石塔がある。梅雨の時期、2023年6月10日付近に訪れた時に、近くにはアジサイが咲いていました。そんな一時の歴史や古戦場について見ていきます。

また、最後には足利や楠木正成など、今まで取り上げた南北朝の遺構や墓の記事のリンクを載せます。

花見の特集は、桜や彼岸花などの名所・穴場のまとめ記事があります。

>>【福井県】桜の名所・花見スポット -有名から穴場まで情報一覧

>>【福井県】彼岸花の名所・穴場スポット一覧情報

>>【福井県】紫陽花の名所・穴場を紹介。梅雨の風物詩へ出かける

※当記事がそのページの場合があります。

意外と近くにも、名所や穴場があるかもしれません。

どこにあるのか

伊知地

勝山の伊知地集落は、北郷という地区にあります。九頭竜川の北側で、岩谷川の西側にある集落です。勝山市の西端付近です。

畑ヶ塚については、周辺に特段目印は無く、道は集落の生活道路を通っていくので、狭い道を通ることになります。

集落自体はそんなに大きくないので、たどり着けないことはないですが、集落側から入ってしまうと結構入り組んでおり迷うかもしれません。岩屋川沿いに進むといいかもしれません。

伊知地駐車場

すると墓地があるんですが、その墓地の中に駐車場があります。

塚なので、古くから墓地の空間だったのかもしれません。

伊知地墓地

さらに墓地を抜けて畑ヶ塚へ行けます。

地名の由来

伊知地

まずはいったん地名について見ていきます。

伊知地とは結構特殊な地名のように見えます。

『大野郡誌』によると、「伊知地」の名は鎌倉時代には既に見えていたといいます。
『勝山市史』『大野郡誌』にその名の由来の考察が載っています。

  • 『大野郡誌』には、「伊地志村」とあり。
  • 『越前国絵図』には、「井筒二二〇五石五斗」とあり。

『勝山市史』によると、

「いちじ」「いづつ」「いじち」は自然堤防のような小高い所にある田畑を意味する「いしき」の転訛したものであろうか。とすれば、岩屋川に沿った小扇状地の地形からくる語ともいえよう。
引用:『勝山市史』

と書いてあります。地形からの名であるということです。

伊地知の苗字の由来

伊知地発祥地

畑ヶ塚にある石碑です。あとで詳しく見ますが、まずこの名前を見ていこうということで先にこの石碑だけ見ておきます。

さてここで思うのが、「伊知地」なのか「伊地知」なのか。どっちだ。

苗字は「伊地知」とされていますね。地名は「伊知地」ですが。

『勝山市史』の記述で鹿児島の歴史研究をあげ、「鎌倉時代承久三年(1221)七月、島津忠久は越前の守護になり伊知地を所領とした。忠久は畠山重忠の孫を伊知地にかくまい、その後薩摩へと同行した。薩摩の伊地知氏はその子孫である。」ということが述べられています。

重忠は源頼朝の家臣で、頼朝の死後に北条と対抗し、義時と戦って戦死した人物。
島津重忠も頼朝によって守護職に命じられている。息子忠義も越前守護といわれ、次男忠綱も所領があったといいます。
江戸時代の薩摩家文書には、「次男忠綱が越前守護代で越前島津家といわれ、忠綱の嫡子忠行は弘安二年(1279)七月に播州下揖保庄地頭になって移住。以後その地で天文三年(1536)まで家は続いた。忠長がその年に戦死し断絶。」ということです。

いづれにしても、「伊地知」は越前国と島津家から出来上がった名前のようです。

鷲ヶ岳(伊知地)古戦場

鎌倉幕府滅亡後、南北朝時代に入り、南朝側の新田義貞に従い、武藤国秩父郡の土豪畑六左衛門時能は伊知地の原野で足利軍と戦いました。近くの平泉寺ははじめ南朝に三方氏の地に北朝に寝返り、新田義貞を戦死に追い込みます。義貞の死後、畑時能は孤軍奮闘し、興国二年(1341)に27人の部下と坂井郡の鷹栖城(鷹巣城)にこもり、足利の斯波高経をひきつけ、勝山伊知地の鷲ヶ岳に16騎をつれて旗をあげる。高経は兵が二つに分かれた畑勢を平泉寺がまた寝返ったと思い込み、3000騎を伊知地に差し向けた。十一月二十二日、時能は四尺三寸の太刀を持ち、城を出て敵の中へ突入。伊知地の原野で数時間激戦。時能の甥は戦死。時能も体中傷を負い、肩先に白羽の矢が射られた。時能はこれを引き抜いたが、矢じりが体に残り、三日悶え苦しみ息絶えた。
参考:『勝山市史』

どれほど壮絶だったのか。あんまりその痛みは考えないようにしましょう。

鷲ヶ岳

鷲ヶ岳登山口に伊知地古戦場のパンフレットがあります。後に行く畑が塚の方にもパンフレットがあります。

それにしても熊の注意張り紙が怖すぎます。

伊知地古戦場

伊知地の野です。岩屋川の扇状地になっています。

この辺りで多くの人が倒れたのでしょうか。今の集落辺りも南北朝時代は野だったのでしょう。

畑ヶ塚(畑時能の墓)

畑ヶ塚

さて、先ほどちょっと見ましたが改めて見ていきます。畑が塚です。説明板もありますが、先ほどの戦場の話が載っています。

ここは畑時能の墓地で、明治末までは「御墓堂」と呼んでいたといいます。『大野郡誌』にも、

御墓堂 伊知地区の東北に在る小丘にして、里人畑時能の墓なりと称す
引用:『大野郡誌』

とかいてあります。

また、畑時能は日本で初めて軍用犬を使ったことでも知られ、その愛犬は坂東の「猫壁」で倒れたと言われています。

畑時能のお堂

お堂の中はこんな感じで、畑時能と思われる浮世絵があります。先ほど言っていた、長太刀…というか鉾っぽいものを持っています。あと犬もいます。

畑時能のお堂

経歴や伊地知の苗字の由来の紙が貼ってあります。由来の紙は下が破れていますが・・・。

 

畑時能の墓

正面には古墳のような小山と、その上に石が載っていました。その前に二対の杉と木の枝が建てられています。

畑時能の墓

この上に載っている石が墓印なのでしょうか。

昔ながらの自然石の墓ととらえるべきでしょう。

畑時能公殉節之地碑

畑時能の墓

お堂の奥横にあります。

墓の正面左側です。

この石で墓地であることがはっきりわかります。

ちなみに鷲ヶ岳山頂にも戦死の碑がありますが、実際は先ほども見た通り麓の野で戦って戦死しています。

石碑や石塔

墓の正面むかって右側にもいろいろと建てられています。

畑が塚碑

おそらく明治時代に建てられたであろう碑があります。読めません。

 

畑が塚石塔

その奥には、石塔があります。年代などは不明ですが、南北朝時代の物なのでしょうか。なんだかロマンがあります。

 

畑が塚の小丘

墓の小山の真後ろにも何かありましたが、ちょっといろいろあっていけませんでした。

ちなみに遠目から見ると、「南無阿弥陀仏」と書いてある墓石の様でした。

 

いろいろとはですね、梅雨に行ったのですが、足元をみると、茶色い丸っこい虫が大量にいたんですね。ちょくちょく羽広げてるんですけど。これゴキブリなんですよね。家にいるような不潔なゴキブリとは違うのでまあいいんですけど、やっぱりね、無理でした。

               

古戦場の伝説

  • 畑ヶ塚から火玉が出て東の方へ流れる。昨今は祭りをするようになって、この噂が消えている。
  • 鷲ヶ岳城が落ちたのは、吉田郡浄法寺村栃原の老婆が「この城は水に乏しいから火攻めにするが良い」と教えたからだという。ときどき焼米の跡が掘り出されるという。
  • 小雨の降る夜、山頂からと上志比村市荒川の方から火玉でて両方が衝突し、衝突するたびに数を増やし、聲や刀の触れ合う音が聞こえ、もの凄い光景になるという。春から夏頃は、この辺で「かまいたち」に遭って傷を受ける。
  • 鷲ヶ岳の南の麓の九頭竜川に若葉淵というのがあり、ここに獅子岩がある。時能の犬獅子という名の愛犬がこの川で殺されて岩になったという。猫壁で殺されたともいう。犬獅子は賢い犬であったといい、時能は敵の動向をうかがわせ、敵に備えがあれば一声吠え、備えがなければ尾を振った。時能・快舜・八郎為頼三人は犬に従い敵地に入り、毎夜戦術を変え、雄たけびを上げて襲撃し、敵は不意を突かれて逃亡したという。

紫陽花

さて、かなり壮絶な古戦場の伝承と土地でしたが、そんな野に、この梅雨に美しい鮮やかな花が咲き、この地を彩っています。

伊知地の紫陽花

駐車場から東に100m行かないくらいの所に、長さ130mほどの紫陽花の道が出来ています。

梅雨ならではの低い雲が山の多い勝山の山々を覆い、さらに「里」の雰囲気を増長します。

伊知地の紫陽花

段になっているここは、一番最初に見た岩屋川の河岸段丘です。つまり「伊知地」の由来とされる地形に、あじさいが咲いているのです。

かつてはここも戦場だったのでしょう。しかしここにはこれほど鮮やかで美しい花が咲き、現在は美しく里を彩っています。

参考文献
『勝山市史』
『大野郡誌』

基本情報

最寄り駅えちぜん鉄道勝山線越前竹原から徒歩32分
自動車上志比ICから9分
駐車場あり

同区伊知地の白山神社について↓


紫陽花の一覧記事

 

その他南北朝時代の遺構。

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