稚児の松に稲荷大明神 ~歴史と狐と怪談と~【越前町】

田園の中にぽつんと浮かぶように立っているお堂や社は、何か由緒ありげな雰囲気をかもし出します。

今回取り上げるのはそのようなお堂の一つ、稚児の松稚児桜(稚子の松・稚子桜)と呼ばれ、由緒ある土地です。
稚児の松には、伝説・歴史だけでなく、現代まで伝わる村の噂まである、「因縁深い土地」です。今回その稚児の松について見ていきます。

どこにあるか

福井県丹生郡越前町小曽原の田園の中、端の方にぽつんと浮かぶように立っている赤いお堂があります。春には桜が咲きます。

小曽原は越前陶芸村があることで有名な場所です。そんな陶芸村からおよそ500m南にこの稚児の松(稚児桜)があります。

ちなみに先ほどから「稚児の松」だとか「稚児桜」だとか言っていますが、史跡の名前は「稚児の松」。『宮崎村誌』をみると地籍(小字名)が2つにわかれており、「児ノ松」「児桜」。実際現地にも松も桜もあります。これはのちの伝説枠で説明されます。「稚児の松(稚子の松)」でも「稚児桜(稚子桜)」でも通じる場所です。

でも、ある書では地籍名は「稚児桜」ともされているので、少しわからないところです。

稚児の松の伝説

さてここからは、メインの伝説を見ていきながら現地の様子を見ていきます。

由緒

稚児の松(稚児桜)

 南北朝の争いの時、足利高経の厨城が落ちたとき、乳母が高経の幼君を背負ってここまで落ち延びたが、敵の追撃が来たため今はこれまでと、自ら幼君を刺し、その刀で自分も果てた。里人はこれをあわれんで、墓石を建て、松と桜を植えて霊を弔った。

参考:『越前若狭の伝説』

なかなか悲劇の土地でした。そしてこれが「稚児の松(稚児桜)」の「稚児」の由来です。
この歴史的部分は後に、少しだけ見てみます。

稚児の松はそのような出来事から始まり、現在の形が形成されていきます。まず「松と桜を植えて霊を弔った」としていますが、今も桜と松が両サイドにあります。もちろん当時の物とは違うのでしょうが、それでも今も伝説の形を維持しているというのは素晴らしいことです。

さらに、「墓石を建て」とあります。

五輪塔

ここで果てたのは「幼君と乳母」です。
玉垣内の社の横に2つの石塔があります。まさにこれが供養の墓なのでしょう。今でも花が手向けられています。

石塔はかなり古く、もしかしたら当時の物なのかなとも思いましたが、越前町の文化財を見ると小曽原の石塔についての記述が無く、南北朝あたり遅くても室町時代の建立なら文化財になっていてもいいと思うので違うのかな・・・。建立年がわからないとか?

それにもう一つ疑問点があります。
なぜ片方は「宝篋印塔」で、片方は「五輪塔」なのでしょうか。わたしは、これが非常に気になるのです。

もしかしたらこれは、「幼君」と「乳母」の墓なのではなく、2人の墓を1つに。最初は五輪塔(又は宝篋印塔)を建て、その後改めて宝篋印塔(又は五輪塔)を増設したという具合なのでしょうか。

何かに詳しく書かれている可能性もありますが、私はこの真相は見つけられませんでした。
何にしても色々考えさせられる場所です。

怪奇伝説

 この松は気高く育って行ったが、あるとき小曽原の光照寺の住職がこの松を気に入り、自分の庭に移植した。ところが翌日から丑三つ時になると、きらびやかないでたちの武者一騎が松の根元に現れ「稚児の松を返せ」という。住職は松を元も場所へ返した。武者も消えた。

参考:『越前若狭の伝説』

伝説らしい伝説ですね。
今の稚児の松が若干怖い雰囲気をかもし出しているように思うのも、もしかしたらこの伝説があったからなのかもしれません。

光照寺は今も小曽原にあるお寺です。果たしてこの伝説が本当かはわかりませんが、稚児の松に一番近いお寺にこういった伝説が絡められると、なんだか光照寺が巻き込まれただけなんじゃないかと思ってしまいます・・・。

それにしても、小曽原はお寺が不幸に巻き込まれる話がもう一つあります。
峠坂の怪異です。

こちらも伝説の地に一番近いお寺(の小僧)が不幸にあっています

ひょっとしたらこのあたりでは、怪異的な伝説にはその地に一番近いお寺が巻き込まれるような構成になっているのでしょうか。

偶然かな。

狐と稲荷神社

稲荷社

さて、伝説から年月が経ち、やっと稲荷社が出てきます。

月日が過ぎ、そのあたり一面は昼も暗い森林となっていた。狐や狸がでて村人を悩ますので、有志が相談し、稲荷明神を祭ったところ狐や狸のいたずらが止んだ。今は田園となっている。

参考:『越前若狭の伝説』

今は田園ですが昔は欝蒼とした森林だったと。そんな中に因縁の地である稚児の松があったと思うと、なかなか怖そうですね。

今稲荷社があるのは、狐のいたずらを抑えるためという、結構よくある理由でした。というか、この稲荷社を祀った為か、いたずらどころか人を助けるようになったのかもしれません。

 明治44年10月。ある方の父親が織田の親類へ行ったきり夜8時になっても帰らなかった。向こうで泊まるのだろうと思い家の者は皆寝付いた。しかし午前二時。外が明るくなり大勢の人が騒ぐ音がする。すると父が玄関を開け帰ってきた。父は、
「午後七時に提灯を借りて織田を出て、下河原、西の宮まできた。当時は原っぱで、稚児桜の稲荷堂まで来ると、提灯の火が消えてしまった。何度付けても消えるので立ち止まっていると、急に周りに灯がともり、何人も提灯を持って集まってきた。その人たちと一緒に稲荷堂の周りをぐるぐる何回も回った後、その人たちに送られて今帰った。」という。その話が終わったとたん、外にあった提灯の明かりが消えた。狐が化けて家まで送ってくれたのだろうと。そのころには午前三時をまわっていたとのこと。

参考:『宮崎村誌』

狐に化かされる話は数多くありますが、狐に助けられる話もそれに負けじと多くあります。
さらに、稲荷社を祀った後に狐といい関係になったというのもありますから、この話も先ほどの『越前若狭の伝説』の稲荷社を祀った伝説の続きと見ていいのではないでしょうか。

高経の幼君と斯波義将

さて、先ほどこの稚児の松の始まりは「高経の幼君とその乳母が果てた地」という事を記しました。

しかしこの「高経の幼君」がもしかすると違うのではないか、という考えもあるようです。

『宮崎村誌』の集落史をみていくとそのことが書いてあります。
それを箇条書きでまとめると、

  • 『越前国名跡考』によると、左門屋敷跡があった。
  • 『越前国名勝志』によると、厨城に足利高経入道の時、義将が籠ったとあり、義将の居館もここにあった。
  • 『越前町史』によると、左門とは左エ門という役職で、義貞は厨城に拠ったことがないので、厨城に入った者でいうと義将こととだろう。
  • 高経守護下の越前では国人や小領主が荘園を侵し、高経側は幕府とも対立して、貞治5年(1366)幕府側は守護職を罷免して追撃(貞治の変)高経は杣山城、義将は厨城に1年足らず厨城に籠ったことがある(後に高経が杣山城で病死し、それを境に義将は幕府へ帰参)

ということでした。
『宮崎村誌』、他の郷土史を凄いまとめてあります。本当はちゃんとそれぞれの本を自分の目で見ないとですが、今回史実の話では許してください。

それにしても、この辺りは斯波義将と接点があった土地なのでしょうかね。

 厨城は貞治5年に厨浦から攻められ、厨村焼失。左門屋敷も攻められ、義将の家族もその時逃げたというのです。その時に義将の幼児を抱え逃げて来た乳母が共にここで果てたのがこの地なのではないかと。つまり、高経の子ではなく、義将の子ではないかということです。実際高経は厨城にいなかったのだそう。しかし、義将は当時17歳。当時の結婚年齢から考えられなくはないが、『越前町史』では別の一部隊の大将の子ではないかともしているそう。

参考:『宮崎村誌』

この宮崎村誌でほとんど完結しています。素晴らしいですね。
しかし、念のため今ここに出ていない資料を見てみましょう。
『丹生郡誌』です。

丹生郡誌には何が書かれているのか。

厨城山 暦応 足利高経
引用:『丹生郡誌』

と書かれていました。
え…!?と思ったのですが、集落史の項目には、

暦応年間足利高経の四子斯波義将の據?(よ)りし城跡なり
引用:『丹生郡誌』

とあり、あとは『宮崎村誌』と同じように、「貞治五年に高経が杣山城、義将が厨城に籠った」という内容した。あとこの話の元は『太平記』から来ているようです。

どうやら厨城の所有者のような立場が高経で、実際入ったのが、子(四男)の義将だったというわけなのですね。だから伝説では所有者の「高経」の子が「稚児の松の幼子」という風にとらえられたのかもしれません。

何にせよ、この「幼君」については3つの可能性があるのですね。

  • 足利高経の子(伝説通り)
  • 斯波義将の子(宮崎村誌考察)
  • 部隊一大将の子(越前町史)

考察の謎部分

色々伝説の裏にある歴史を見てきましたが、どうしても引っかかる部分がいくつもあるのです。(私が歴史弱いだけかもしれませんが)

  • 『丹生郡誌』、時系列がおかしい。「暦応」って斯波義将まだ生まれてない・・・。貞治の間違いか?しかしこの後に、「然るに幾くもなく新田義貞は金ヶ崎より攻め来りてこの城を奪取し~」と書かれていて謎。貞治の場合、義貞はもういない。
  • 『丹生郡誌』において、新田義貞が厨城を攻めた時、いったい誰が厨城にいたのか。(足利高経が厨城に入ったという記述は確かにどこにもない。)
  • 『宮崎村誌』に、「新田義貞は厨城に拠ったことがないので」とあるが、城主として居城した時期があるはず。
  • こうなると稚児の松伝説は、義貞の時期の厨城(暦応)か、義将の時期の厨城(貞治)かわからなくなる。
  • そもそも稚児の松伝説では、厨城が落ちた時、攻めて来たのはどこの軍なのか。伝説内では攻めた側の名は一切書かれていない。そのため時代がよくわからない。
  • 『越前若狭の伝説』やこの元の伝説の話では、「南北朝の争い」の時としているため、金ヶ崎の戦いの同時期又は直後の暦応の時代と思われ、義将はまだ生まれてすらいなく、『宮崎村誌』『越前町史』の説と矛盾がある。
  • しかし逆に『宮崎村誌』『越前町史』の高経・義将と幕府の戦い「貞治の変」の時だったら、厨城(と杣山城)を攻めたのは幕府方の軍であり、戦いの攻防の状況がはっきりわかる。(だから宮崎村誌ではこの時を稚児の松伝説の歴史と結びつけたのか?)

・・・ま、まあ、ずいぶんと昔の話なので断定はできないでしょうから、ここは「稚児の松の伝説」として楽しむ程度がいいのかとも思いますね。

様々な因縁が絡まる土地

山に囲まれる宮崎地区。その中の集落はずれの田園に浮かぶ稚児の松の稲荷明神。

今あるその姿はまさに稚児の松伝説を伝えるに十分な形となっています。

松、桜、稲荷社、石塔。
現地で見ることのできる、稚児の松の由緒、伝説、因縁を是非感じ取ってみてください。

参考資料
『越前若狭の伝説』
『宮崎村誌』
『丹生郡誌』

基本情報(アクセス)

最寄り駅北陸本線武生駅からバスに乗り換え、陶芸村口下車徒歩19分

駐車場はありません。

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