小曽原峠坂の怪異「天狗・天保飢饉の墓」【福井県越前町】

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福井県越前町旧宮崎村の小曽原と江波の境界にあたる峠に恐ろしい言い伝えがあります。

今回はこの峠に伝わる「怪異」を紹介します。

峠坂地籍と「3つの怪異」

今回訪問する峠坂には2つの怪異が伝わっています。

タイトルにもあるように、「天狗の話」「天保の餓死者の墓」の話です。

それぞれ、別の話ではありますが、同じ「峠坂」怪異が伝わる土地となっています。峠坂とは一体どんな土地なのでしょうか。

怪異の伝わる地は「峠坂」というのは地籍、いわゆる字名です。峠坂地籍は小曽原側の24番の小字です。冒頭にも説明した通り、小曽原と江波とをつなぐ峠道なのです。

峠は人家もないですし鬱蒼としているイメージではあるので、そういった怪異が伝わることも珍しくはないかもしれないです。

では、本題の怪異を見ていくと共に、現地の様子も見て行きましょう

天狗の話

言い伝えと怪奇談

わたしどもは小学校の五年になると江波の本校にかよった。そして、峠坂を毎日かよったものである。ところが、この峠坂の頂上近くに大きな松の木があり、その松は上に高く伸びず、根元に枝葉が密集していた。ここに天狗が住んでいるといわれ、わたしどもはここを毎日おそるおそる通ったものでした。

引用:『宮崎村誌』

まずは「天狗の話」から取り上げます。

天狗の話は、この地域一帯で伝わっており、小曽原だけでなく江波や熊谷などここら辺の地域で有名な話のようです。『宮崎村誌』では、2つの話を取り上げています。

  • 熊谷の女の子が夜8時になっても帰ってこず、区民全員で探しても見つからなかった。しかし、三日目に武生の村国橋で見つかったという。当時は峠坂の天狗にさらわれたのだという話でもちきりだったそう。
  • 江波側の話。ある時女の人が畔(あぜ)に前掛けを置いておき作業をしていた。夕方になり帰ろうと前掛けを探したがなくなっており、山の上の木にその前掛けが掛かっていたそう。天狗のいたずらだといわれる。

参考:『宮崎村誌』

峠坂の位置

ここではまず、「峠坂を通って本校へ通った」という、小曽原かそれ以南の集落の方の話が紹介されています。

わかりやすく地図を見てみます。

峠坂と本校の位置
出典:国土地理院(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html)
地理院地図(電子国土web)を加工して作成

宮崎村の小学校本校は江波の村にあります。

宮崎小学校本校は、昭和40年7月の現本校完成まで、現在のJA福井県宮崎支店の場所にありました

今の位置にせよ、小曽原以南の人たちは、この小曽原から小学校までの最短の道である峠坂のある道を通って学校に通っていたということです。

峠坂の天狗を求めて現地へ

宮崎小学校交差点

今回は、宮崎小学校が一番の位置を現わす手掛かりでしたので、江波側から峠坂へ向かうことにします。

県道365号線宮崎総合事務所前交差点を宮崎小学校のある山へ入る南へ曲がります。

そこから山道です。しばらくは道は大きいですが、少し行くと道は細くなり、且つ急なカーブも現れます。山肌を沿うようにして登っていきます。

峠坂道中

もう建物はなくなり、木も道の両脇にかかり、鬱蒼としてきます。

確かにこれは怖いです。昼間なのに薄暗い。それに坂もなかなか険しいです。これを毎日通学で往復するとなれば、体力着きますね。

峠坂江波側

ほどなくして峠の頂上に着きました。

小曽原の標識があります。峠坂は小曽原の地籍なのでここですね。

確かに鬱蒼と茂った峠道です。しかし、例の「大きな松の木」は見当たりません。想像はしていましたが、やはり道路の整備とともに消えてしまったのか。

それにしても若干獣臭いです。こんなところ夕方の薄暗い時間に通ったらそれは怖いですね。しかも、子供たちの主要な通学路だったとは。

怪異や怪談の1つ2つはできるのもうなずけます。

「天保の飢饉」餓死者の墓

怪異の伝承

この峠坂にはもう一つ怪異が伝わっています。

こちらもなかなか恐ろしい物語です。

峠坂の小曽原方に、天保の餓死者の墓がある。元々、墓の文字の上に卍印が刻んであった。ある時、山へ薪を取りに行った子どもが、鎌でそこをつついてしまい、穴が開いてしまった。その子どもはその夜寝るときに手がうずいて眠れなかった。医者に診てもらうと「指を切らなければいけない」といわれ、ついに指を切ってしまった。その子どもは西応寺の小僧だったという。

参考:『宮崎村誌』

これまたもう一つ、子供向けに柔らかくされたバージョンもあります。

 ある年、子供たちが山へ薪を取りに行った。その時にこのお墓を見つけた子供たちはお墓の上に彫ってある「卍」の字に目をとめた。「卍」の字を見つけた子供たちは持っていた鎌の先でコツコツと字を叩いた。石がやわらかいので「卍」がだんだん消えて行った。子供たちはおもしろくなり、いよいよ叩いているうちにくぼんで丸い穴になってしまった。その晩、きつねが大層騒いだという。それだけでなく、狐が火をくわえて走っていったという。そして穴を彫った子供の家がとうとう火事になって燃えてしまったという。
参考:『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』

墓はどこにあるのか

峠坂小曽原側

この2つ目の言い伝え、「天保の餓死者の墓」現在も峠坂にもあります

峠坂頂上から小曽原へ約60メートル程下ると、道の傍らに地蔵堂と例の墓が並んで建っています

天保の餓死者の墓と地蔵堂

写真右の墓が「天保の餓死者の墓」です。

左の地蔵堂の方は古い地蔵さんが、大小・座像・舟形いろいろな形で六体いました。(多分全部地蔵さんだと思う)

ではこの墓、じっくり見てみます。

天保の餓死墓について

天保飢饉の墓

見た感じかなり昔のものとわかります。年季が入りすぎて風化で所々欠けてしまっています。

しかし確かに文字が見えます。見て取れる文字として…

『天保~』『南~~陀佛』『餓死霊』『供養塔』

と書いてあります。間違いなくこれが例の「天保の餓死者の墓」でしょう。

後に調べたところ、『宮崎村誌』にその書かれている文字が記されていました

天保十亥年
[梵字] 南無阿弥陀仏
夏五月上旬
餓死霊
供養塔

引用『宮崎村誌』

このように書かれているそうです。

墓の裏には世話人として9人の名前が書かれています。現地では風化してほとんど読めません。

また墓の内容についても書かれており、

天保8年に亡くなった11名を、本保の代官の斡旋によって墓裏の9人によって建てられた
参考:『宮崎村誌』

とされています。

ちなみに天保飢饉の墓は宮崎の地にあと2つあります。

江波にある餓死者の墓は、「岩本観音(磨崖仏)の言い伝えと餓死霊の墓【福井県越前町】」で紹介しています。

言い伝えの痕跡

そして、私はこの墓の現物を見て驚きます

先ほどの伝説に「元々、墓の文字の上に卍印が刻んであった。(略)子どもが、鎌でそこをつついてしまい、穴が開いてしまった。」とありました。

飢饉の墓怪異の痕跡

わかるでしょうか。

写真真ん中、「南」の文字の上が欠けてくぼんでいるのです。

まさに、文字の上にあった「卍印」が欠けている。伝承の通りなのです。

こんな怪異の話を実際に現物で目の当たりにするとは、滅多にない、なかなか衝撃的な場所でした。

正元平の幽霊

怪談

昔、殿様が武生の隣の本保という所におり、そこで年貢を取り立てていた。ところが小曽原の隣の山干飯の百姓たちが年貢を納めることになり、その一人が皆の金を集めて風呂敷に包んで腰に巻き歩いてきたという。小曽原を通って山道を登り峠坂を登り、江波の学校付近まで来た。ここを正元平(まさもとだいら)という。ここで枯死に巻いていた皆の金が無くなったことに気づいた。彼は何度も何度も細い山道を行ったり来たりして探した。しかし見つからなかった。もう皆の所にも帰られないと思い、ここで首をくくって死んでしまった。それからその幽霊が出る様になった。百年ぐらい前は何人も見ていたという。
参考:『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』

こういう物を運ぶ人は昔も今も大変ですね。特に昔は年貢だとか、偉い人の手紙だとか。

年貢ではないですが、似たように大切な届け物をおとして悲惨な最期をとげた「裸半兵衛」という話が大野にもあります。

現地

正元平

正元平というのは伝説である通り宮崎小学校の近くです。

宮崎総合事務所前という交差点があります。その交差点と、宮崎小学校の間。ここが「76字 正元」です。

先ほども見ましたが、この道の先に峠坂があるので、この道を行き来して、落とした年貢を探していたのかもしれませんね…。

古くからの怪異や怖い言い伝えを目の当たりにする

もちろんこれら言い伝えが、本当にあった話かは分かりません。特に天狗とか。天保飢饉の墓は史実ですが、それに関する怪異の真意はわかりません。

今回の墓の怪異に関しては、「墓を粗末に扱ってはいけない」などのメッセージがあるのかもしれません。そうやって生活を戒める役割もあるのかも。

そういった怖い話、怪異などをこういった峠坂などで目の当たりにして、純粋にその非現実的な時間と空間を楽しむも良し、またはその言い伝えにどういった真意があるのかを考えてみるのも良し。

怖い伝説や言い伝えにはそういった楽しみ方もあるのです。

参考文献:『宮崎村誌』『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』

アクセス

峠坂
江波側から県道365号線宮崎総合事務所前交差点を宮崎小学校のある山へ入る南へ曲がりそのまま道なりに行くと峠坂頂上。
小曽原側から県道4号線の越前宮崎線の道中。

天保餓死者の墓
峠坂頂上から小曽原へ約60メートル程下る。

マップへ


この記事でもたびたび登場した、隣の江波には「竜典長者」という伝説もあります。

昔江波は大きな池だったようで、そこに竜が住んでいたのだそうです。

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