福井県越前町旧宮崎村の陶の谷野地区。ここに蝉丸の墓と言われる場所があります。
なぜここにあるのか由緒と伝説、現地の様子を見ていきます。
どこにあるのか
今の宮崎地区陶の谷。
ここに野地区というのがあります。
そこに蝉丸の墓というのがあるのですが、墓が三基建っています。
今は住宅地の端にあります。道も微妙で何ともわかりずらい所にありますが、一区画住宅地が綺麗に並んでいるので以前は野集落の端の田の中にぽつんとあったような様子だったのかもしれません。
蝉丸の墓の伝説
ある夕暮に一人の旅人が家の門口に立ち、背負っていた琵琶をおろし、鳴らした。それは美しく誰が聞いてもうっとりする音色だった。琵琶の音に合わせて平家と源氏の闘いの物語の歌を歌った。よく見るとその人は目が見えないようだった。
「お名前は。」と聞くと
「蝉丸です」と答えた。
蝉丸は「どうぞこの村へ泊めてください」と頼んだ。
「いいともいいとも」と村人たちは泊めることにした。
村人は「いつまででもこの村にいて美しい琵琶の音を楽しませてください」と言った。それから蝉丸はこの村に住むことになった。
春の霞、桜の日。夏の緑の木の葉の下、夕涼み、星を眺め。秋のもみじの山、美しい月の晩。冬の静かな雪降る銀世界をながめ歌った。春夏秋冬いつも美しい琵琶の音と物語が流れていた。村人は楽しい毎日を送り、美しい心になっていった。やがて蝉丸は年を取り死期を悟った。その時に村人たちの前で
「私が死んだら私を七谷の真ん中に埋めてください」と頼んだ。
それが今の陶の谷の真ん中の蝉丸の墓のある所である。蝉丸のいた所を蝉口というといわれる。
参考:『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』
四季の言い方がまさに古今和歌集の様で日本的ですね。
それはいいとして、なんとも穏やかな伝説ですね。禍々しさの欠片もない、美しい伝説。
蝉丸の遺言に「わたしは七尾七口のまん中に舟を埋めよう」とあった。よって末野郷の真ん中に蝉丸を埋め、その墓所の入口を蝉口村という。この墓所を砂で積み立てた頂には、今に至るまで雪が積もらない。
引用:『宮崎村誌』
ともいい、雪が積もらないというのは吉崎御坊の蓮如の腰掛け石などにも言われますが、やはり神聖なものとして扱われている言い伝えである証拠なのでしょう。
蝉丸の墓について
陶の谷字野の田の中に広さ七、八坪の琵琶の形をしている築山があって石の五輪塔三基がある。
引用:『福井県丹生郡誌』
ということです。たしかに琵琶の形をしています。
なぜこの場所に蝉丸の墓があるのかというのは先ほどの伝説にもあった通り、蝉丸の遺言があったからということのようです。ただ、なぜ三基あるのかは不明。
一つの説に、時代ごとに新しい墓を造ったという可能性です。
福井の明智光秀の墓、勝山の石田三成の墓、池田の足利尊氏の墓もまた、複数基築かれています。これは時代ごとに新しく作られていったのではないかと。蝉丸の墓もそれと同じように更新されていったのではないかと思うのです。
それはつまり地区の人からずっと忘れられずに来たということなのでしょう。
現地の説明では
鎌倉時代から江戸時代にかけての少なくとも7基の石塔と2点の部材から構成される。江戸時代の地誌に記述が確認されないことから、明治時代になって倒壊していた石塔群を再構築し、蝉丸伝承と結合したと考えられる。
参考:現地案内板
とあります。
この説明板の言い方では、「元々は蝉丸の墓ではないけど蝉丸の伝説に結び付けた」ような感じで書かれていました。
でもやはり石塔は鎌倉時代~江戸時代の物ということで、時代ごとに更新されていったものという説も捨てきれないです。
ただ蝉丸は平安時代前期の歌人なので、結構時代が違う気もしますね…。
ただし蝉丸の伝説は、この宮崎地区にもう一つあります。蝉丸の池があり、同じ地区に2つの伝説があるのは価値のあることのように思えます。
それに墓については、平安時代の山奥の村にこんな立派な石塔を建てることなんてできなかったのかもしれません。前節を見てもどうやら土葬したような感じですし、その後砂を盛ったようです。
まさに土饅頭。今も土饅頭のようにも見えます。よく言うサンマイですかね。
他地域でもいえることですが、平安時代の石塔はあまり見ませんが、鎌倉以降の石塔はよく見ます。なので蝉丸を葬った後の時代、まさに鎌倉時代からそこら中に石塔が作られ始め、この蝉丸の墓にも満を持して石塔が建てられたのかもしれません。
長い時代受け継がれた「墓」なのです。
参考文献
『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』
『宮崎村誌』
『福井県丹生郡誌』
基本情報
最寄り駅 | 北陸本線北鯖江駅からバスに乗り換え、陶の谷バス停で下車徒歩10分。 |
自動車 | 鯖江ICから15分 |
駐車場 | なし |
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