岩本観音(磨崖仏)の言い伝えと餓死霊の墓【福井県越前町】

岩本観音

福井県越前町江波に岩壁に彫られている仏像、磨崖仏である岩本観音があります。

この岩本観音は旧宮崎村、江波地区一押しの名所です。

今回はこの岩本観音の現地の様子とどんな場所なのか、なぜ高い位置にあるのか、なぜ彫られたのかなど由緒や謎を見て行きます。

岩本観音とはどんな場所か

岩本観音標識

岩本観音があるのは、越前町江波の住宅地の中です。家が立ち並ぶ一角に岩壁があり、その崖に仏像が彫られています。

ただぱっと見、人の家の敷地内かと思うような道を通りますが、現地には由緒書きや、案内板があるので見つけられると思います。

岩本観音自体は、道からでも見ることができますが、間近に行ってみることもできます。

岩本観音への道

岩に沿って少し階段を登っていくと、岩肌に仏像とまたもや由緒書きがあり、この地の説明が書いてあります。

文化財としての価値

岩本観音磨崖仏

登った先から見上げると、いくつか仏像が彫られているのがよくわかります。ここには11体の仏像が彫られているようです。

高さ14メートル、幅47メートルの硬質の岩に、高さ79センチメートル、幅27センチメートルの観世音菩薩が精巧に彫られています。
参考『越前若狭の伝説』

岩本観音の仏像は、自然の岩肌などに彫られている「磨崖仏」と呼ばれる仏像です。

ここ江波の磨崖仏は文化財としても価値のあるものと言われています。

『宮崎村誌』には、その価値についてこう書かれています。

県の文化財保護委員の野村英一氏の談によると、斯様な磨崖仏は県内ではここだけという。線刻の磨崖仏は他にもあるがレリーフ風の仏はここだけで、そのような意味で貴重な存在だという。
引用『宮崎村誌』

確かに磨崖仏は福井県内でもいくつかあります。レリーフかどうかについては考えたことありませんでしたが、このような意味だとまた珍しい仏像になるわけですね。

それにしても、人家の敷地のような所で高い岩肌に彫ってあるのはなぜなのでしょう。

なぜ高い位置にあるのか

なぜ民家の裏に、しかも登りにくい岩肌の高い所に仏像が彫られているのか。率直な疑問です。

拝みやすい位置にも思えないし、むしろわかりにくいような気もします。

こちらもまた、『宮崎村誌』にその答えとなりそうなことが書かれていました。

昔はこの山の上の方に道があって、餓死者の墓もあり、そこからこの観音さんの前を通って下に降りてくる道があったようです。つまり今でこそ、わかりづらい場所にありますが、昔は道の途中にあって、この岩本観音は元はものすごく近くでお参りしやすい位置にあったとされています。参考『宮崎村誌』

山沿いの高い位置に道があったというのは、もともとこの江波が大きな湖だったということにつながります。

前回書いた「竜典長者の伝説とその舞台江波の資料や町の人の話【福井県越前町】」の記事には、「この江波は深い湖であり、そこに竜女が棲んでいた」という伝説もあります。

この山肌の道は、その湖を避ける道の名残なのではないでしょうか。

とにかく岩本観音は昔は、拝みやすい道の途中にあったということです。

由緒「2つの説」

では、この岩本観音はどのようにして彫られたか、彫ったのは誰なのかという由緒を見て行きます。

「一人の江波区民の作」説

まず最初は、この江波区の区民の一人が彫ったという説です。

元禄11年(1697)に亡くなったという江波の木下茂平という人物による作だといわれています。参考『越前若狭の伝説』

その動機までは、こちらの「区民説」には書かれていませんが、この仏像の上に「飢饉の墓」があったということが郷土史には書かれており、もう一つの説で説明する餓死供養の話があるので、こちらもその線が濃厚か。

ただ、元禄って天保や天明の100年以上前ですね。もしこちらの説なら飢饉説はないか。普通に信仰の為に彫ったのか。

「行脚僧による餓死供養」説

こちらの説については、動機なども書かれています。

昔の大飢饉で餓死者が出て、その腐臭が充満していたそうです。その亡骸を行脚僧が岩壁のところに集めて葬った際に、観世音を彫って弔ったと言い伝えれてます。参考『越前若狭の伝説』

つまり岩本観音は、大飢饉犠牲者のための供養として彫られたという説なわけです。

「岩壁に亡骸を集め~」ということは、現地で拝めるあたりに集めたということでしょう。

現地の岩本観音でその名残を見て取れるものはないかと思いました。この説で行くと、先ほども少し出てきた「餓死者の墓」が名残なのではないかと思い探しました。

すると、この「餓死者の墓」が今も近くにあったのです。

岩本観音近くの「餓死者の墓」

餓死者の墓の様子

餓死霊の墓

岩本観音への入口から20メートルほど西の山の麓に、その「餓死者の墓」があります。

墓の土台には「餓死霊」の文字が彫られているのがわかります。
また、わかりずらいですが、正面には「南無阿弥陀仏」と書かれているそうで、横には「天保十二丑年七月施主萬人講中」とかかれているらしいです。

夏場は草に覆われて見えずらくなっている可能性があります。横には筆塚と銅像があります。その一番右にあります。

旧宮崎村には3つの餓死墓があるらしく。そのうちの一つがこの江波の墓だそうです。さらに一つが以前「小曽原峠坂の怪異「天狗・天保飢饉の墓」【福井県越前町】」で紹介した小曽原峠坂の墓です。

江波の餓死者の墓について

この江波の餓死者の墓も、岩本観音同様に昔は高い場所にあったそうです。

それには二つの説があるようです。

  1. 当時は現在の道より高い位置に道があり、岩本観音同様餓死墓も拝みやすい位置にあった。
  2. 近くの家が家を建てる際、山を削ったところ、人骨が多く出てきたという。ここに餓死者を埋葬し、その場所に墓を建てたとされる。

参考『宮崎村誌』

どちらとも、岩本観音の由緒にもつながるところがあって、どうも岩本観音とこの餓死墓は1セットなのではないかと思います。

岩本観音だけでなく、この餓死墓にもお参りすべきかもしれませんね。

ちなみに、昭和57年九月に大雨による土砂崩れが起きて以降、餓死墓を今の位置に移したそうです。参考『宮崎村誌』

地域の加護と供養の文化財

地域に残る古くからの仏像や墓石には、その年に起こった大きな出来事が関係しています。

今回の岩本観音も、ただの「珍しい磨崖仏」というだけでなく、昔の大事件の犠牲者を弔うための供養の遺物なのかもしれません。

そんな昔の供養と共に、今までその形をとどめてきた価値ある遺物たちを目に焼き付けて行きましょう。

参考文献:『宮崎村誌』『越前若狭の伝説』

基本情報(バス停、アクセス、駐車場)

最寄り駅JR武生駅からバスに乗り換え、江波バス停下車徒歩5分

駐車場はありません。

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