鷲塚神社の歴史と伝説 ~荒鷲・空也上人・新田義貞【福井県福井市】

鷲塚神社

古代、越前平野がまだ沼だったころ、この地には鷲が住み着いていました。

福井県福井市川合鷲塚。その地区内に「鷲塚神社」という名の神社があります。

「鷲塚」とは、いかにも何か伝説がありそうな名前です。今回そんな鷲塚神社について、調べていくと数々の伝説と歴史が見えてきました。

鷲塚の地名の由来になった「鷲」の話「新田義貞」が関わったとされる話、さらにはかの有名な「空也上人」の伝説まで紹介します。

どんな場所なのか

鷲塚神社社殿

鷲塚神社は福井市川合鷲塚の県道5号線(芦原街道)沿いにあり、鳥居と社標が大きく掲げられていますので、比較的見つけやすい場所にあります。
駅にも近く、えちぜん鉄道三国芦原線鷲塚針原駅からすぐ近くです。(鷲塚針原駅は、昭和3年の建物で国の登録有形文化財です。駅の記事もありますので、興味があればご覧ください。)

鷲塚神社境内はきれいに整備されており、掃除も行き届いている印象です。また、遊具もありこの地区の憩いの場ともなっているのでしょう。

社殿は鉄筋コンクリート製で、近年改修工事がされていたようです。

祭神と旧称「矢放神社」

鷲塚神社集落側入り口

集落側の入口には古い狛犬と灯籠があります。

祭神:大己貴命
鷲塚神社という名前になる前は矢放神社(又は「矢発神社」)という名前でした。この詳しい由来は、次項の「荒鷲伝説」で紹介しますが、その昔、祭神である大己貴命が荒鷲を射ったことに由来するようです。

古代の話になりますが、それほど昔から伝えられてきた神社だということです。

また現在の鷲塚神社の名もその荒鷲を埋めた塚であるという所から来た名前だそうで、今でもその伝説を伝えていることになります。

そんな由緒ある神社であるためか、その他にも数多くの歴史伝説が伝えられております。

では、ここからが面白い所です。その数々の伝説と歴史を見て行きましょう

数々の歴史と伝説

名前の由来となった「荒鷲伝説」

まずはこの地区の名前ともなっている「鷲」の話からです。

継体天皇の治水伝説よりも昔の話になります。

 昔この辺り一帯は沼でした。その中に小高い丘があり、そこに欝蒼とした大槻(けやき)がありましたが、そこに荒鷲が巣をつくっており、角鹿(敦賀)から能登の羽咋の間を通行する旅人に害を加えていました。そんな時、第10代崇神天皇の時代に、天から大己貴命が降りてきて、その荒鷲を射止めました。その鷲の遺体を槻の下に埋めて、「鷲塚」と呼ぶようになりました。
 その後、第26代継体天皇が越前の治水事業を行い、この辺りに人が住み始めると、この塚の場所に祠を建てて、「矢放大明神」として、荒鷲を矢で射止めた大己貴命を祀りました。

参考:『河合村誌』『越前若狭の伝説』『福井県の伝説』『御大典記念福井県神社誌』『吉田郡誌』

このような伝説があったのです。

また諸説には『越前若狭の伝説』内の『越前国古跡拾集記』には

この辺りは昔、羽咋の国で一面水だったので、角鹿(敦賀)から能登の鳩山まで船で往来していた。

とも書かれています。

このサイトでは何度も登場しますが、継体天皇の治水事業まではこの越前平野は湖でした。
継体天皇の治水に関する伝説の記事がいくつかあります。

これら以前の時代の話まで遡った伝説が、この鷲塚の地の由来とされているわけですね。

 

荒鷲といえど、人の裁量で駆除するのは何とも横暴な気がしなくもないです。

そして実は、この川合鷲塚以外にも近くに「鷲塚」の名を持つ村があります。
それが坂井市春江の「藤鷲塚」

藤鷲塚の藤でも少し名の知れた集落です。

藤鷲塚の伝説は今回の荒鷲伝説の前の時間軸の話で繋がっていますので、また別記事で紹介します。

荒鷲は結構可哀そうな存在なのです

 

ちなみに今回の川合鷲塚について、出典の郷土史の中に、鷲塚の痕跡がいくつか書かれていたので紹介します。その郷土史の発刊年も記載します。

  • 今も神社内に塚の形があり、土地が高くなって丘のようになっている。『吉田郡誌 発刊1909年』と『福井県の伝説 発刊1936年』
  • 社殿すぐ南に大きな欅があり、伝えられる荒鷲の巣のあった木だと思われる。昔角力があったときはこの木の上で太鼓を鳴らした。『河合村誌 発刊1982年』

この塚と大ケヤキが近年まであったようです。社殿南にケヤキとその下に塚ということなので、現地で見てみます。

鷲塚神社境内

現在はこの通り、きれいな平地となっております。ただ向う側に瑞垣が見えます。これはまた後に見て行きます。

では、大ケヤキが無くなった理由塚が無くなったとされる経緯の可能性を探します。『河合村誌』と境内由緒書きにこれではないかと思われる文があったので紹介します。

  1. 大ケヤキが無くなった理由
    昭和23年(1948)、福井大震災により社殿も大木も倒壊。『河合村誌』
  1. 塚が無くなったとされる経緯(可能性1)
    矢放神社は大正時代は現在より境内は狭くて高く、西南の3分の1くらいは竹やぶで境内の周りは杉の木で囲まれていたが、昭和10年(1935)京都市在住の方の石垣奉進を機に竹やぶや杉は伐られ、石の玉垣が建てられて桜の木が植えられた。『河合村誌』
  2. 塚が無くなったとされる経緯(可能性2)
    昭和23年(1948)の福井大震災で社殿大木が倒壊した後、昭和27年(1952)11月に新しく建立。『河合村誌』
  3. 塚が無くなったとされる経緯(可能性3)
    昭和34年(1959)の土地改良で境内が県道まで拡張整備。『河合村誌』
  4. 塚が無くなったとされる経緯(可能性4)
    豪雪、台風の老朽損傷により再建され、昭和56年(1981)2月に社殿と境内の整備完成。『境内由緒』

大ケヤキが無くなったのは間違いなく福井大震災が原因でしょう。
塚が無くなったのは、4つも可能性があるので、悩ましい所です。特に2番目の震災時と、4番目の老朽化による再建が個人的にはあやしいのではないかと思っています。

鷲塚神社由緒

ちなみに、境内にはその由緒書きと、奥に「玉垣奉進」の石碑が立っており、京都の人の奉進の記念碑が建てられています。京都の人にまで支援される神社なのですね。

長くなりましたが、近年までその様な伝説の痕跡があったとされ、由緒ある神社なのです。

「空也上人」の供養塔

お次は、空也上人の旧跡の伝説です。

空也上人と言えば、六波羅蜜寺に立像のある方で、念仏を唱える口から仏が出てきている像でとても有名で、平安時代の中期に活躍した僧です。

そんな超有名人の旧跡がこの鷲塚にあるということで、「なぜ?」というような感じですが、地区にはその伝説と供養塔の言い伝えが残っているのです。

  • 空也上人墳 大字鷲塚矢放神社境内に墓石の破片累々たるを見る 絵図記云 矢放明神境内塚あり、空也上人の古墳と云伝う。引用:『吉田郡誌』
  • 境内に墓石の破片があるのは空也上人の古墳であろう。引用:『福井県の伝説』

一昔前の文献ではこのようにしっかり「空也上人の古墳」と書かれています。

また、もっと詳しく書かれている文献がありました。『福井・新田塚郷土歴史研究会』という方々が川合鷲塚地区の方に取材した内容が載っていたのでそちらも少し見ましょう。

社殿裏の玉垣にある石造五重塔2基について住民によると、「空也上人の層塔だと聞いており、鷲塚の人もそう思っているらしいが、あくまで伝説であり、確かなことは分らない。」としています。

参考:『越前の新田義貞考』

伝説としてもそう伝えられているのなら価値のあることです。

その玉垣のエリアは、社殿向かって右奥にあります。

鷲塚神社祠と供養塔

祠が2つと、石塔が2つです。

この五重塔型の石塔は、全国でも何かの供養塔とされているので、これも空也上人の供養塔とする伝説も間違いとは言えないでしょう。空也上人は修行僧として諸国を巡ったとされるので、その際にこの場所に来ていてもおかしくないかもしれませんね。

ただいくつか気になる部分はあります。

  • まず、郷土史には「境内に墓石の破片」と書かれています。しかし、現地の空也上人の旧跡と思われるのは、明らかに破片ではないです。
  • 次に、供養塔が2つあるというのが気になります。二つとも同じ年代っぽいし、同じ人の供養塔を2つ造るというのは不自然です。

中央2つの祠は、昔の矢放神社時代の祠でしょうか。ではもう一つはなんでしょう。

それぞれ謎の2セットの組み合わせです。

この2つの五重塔について『越前の新田義貞考』は2つの仮説を述べています。

  1. 「空也上人の供養塔」「新田義貞の供養塔」
  2. 「新田義貞の供養塔」「脇屋義助の供養塔」

なぜいきなり新田義貞がでてくるのか。その理由は、この神社のあった丘に新田義貞が砦を築いたという言い伝えがあるからです。

「新田義貞」の砦

新田義貞とは、鎌倉~南北朝時代の武将で、「元弘の乱」や「建武の乱」で後醍醐天皇側について活躍した武将とされています。

そんな新田義貞は建武の乱の後半は越前も拠点としており、その砦が鷲塚にあったという言い伝えも、郷土史に載っています。

第96代後醍醐天皇の時代、新田義貞がこの矢放神社境内に仮砦を造って足利高経と戦ったと伝わる。

参考:『河合村誌』『吉田郡誌』『福井県の伝説』

この辺り一帯は、かつて大きな戦場だったとされています。春江あたりにも古戦場の霊が出るなどの伝説も伝わっていますし、三国の幻の寺「灌頂寺」もこの南北朝の戦の際にほろんだともいわれているほど広範囲が戦場だったようです。

この福井一帯、一揆から武将同士の戦まで多くの戦場になったところであることは可能性が大いにあるでしょう。

ここ鷲塚の地もその中の一つなのかもしれません。

では、新田義貞の砦に関して、どんな話があるのか。それに先ほどの供養塔の説の理由は何なのか。

『越前の新田義貞考』を見てみると、現地の方への取材や考察などが書かれていました。ほんの一部だけ抜粋し箇条書きでまとめてみます。

  • 脇屋義助は石丸城(福井市石盛)、義貞は鷲塚に砦を築き、斯波高経は黒丸城(福井市黒丸)にいたという。
  • 取材した古老の話において、「村民思いで、大変優しくされたらしい」という記述がある。
  • 義貞旗揚げの神社(おそらく「生品神社」)の祭神が大国主(「大己貴命」は同一とされる)で、矢放神社も同じ祭神ということで信仰していたのではないかと記されている。
  • 筆者知人の考古学者によると、五重塔は鎌倉か南北朝時代のものとされるということ。(ただ区民はこれを空也上人の供養塔と伝わっているらしい)
  • 石丸城を本陣に、鷲塚を砦にしたのは河合庄が皇室領であったからだという。

参考:『越前の新田義貞考』

以上の点から、先ほどの供養塔の一つは「新田義貞の供養塔」であると、この 『越前の新田義貞考』 の中には書かれています。

そして、この『越前の新田義貞考』の著者は2つの供養塔について、

「新田義貞の供養塔」「脇屋義助の供養塔」

の説を推しているようです。

確かに供養塔の時代が前述の鎌倉か南北朝というのが事実ならその可能性は高いですし、空也上人古墳について郷土史では「墓石の破片」としているので、そこについても供養塔であるというのは郷土史と少し食い違いがあります。

『越前の新田義貞考』著者の言うように、新田義貞と脇屋義助の供養塔の可能性も否定できなくはないですね。

ただ、『越前の新田義貞考』内でも書かれていましたが、区民の間ではやはり五重塔は空也上人の供養塔と伝わっているようです。

個人的には、2つのうちどちらかは空也上人の供養塔だといいなー、と思っています。

複雑で確信のない遺物もまた魅力です。

矢放神社から鷲塚神社へ

これまで、数々の伝説や歴史経緯を紹介しましたが、基本この鷲塚神社は「矢放神社」と呼ばれてきました。

では、なぜ「矢放神社」から「鷲塚神社」になったのでしょうか

昭和23年の福井大震災の倒壊により、矢放神社と稲荷神社が合祀、昭和27年11月に鷲塚神社と改称された。

参考『河合村誌』

先ほどもあった、福井大震災。これがすべての現況なのかもしれませんね。

とにかく、稲荷神社との合祀で「矢放神社」の名前のままにすることはできずに、この地名から取った「鷲塚神社」に改称したのでしょう。

どちらにしても、名前の由来の大本は変わらないのでいいような気がします。

ここで先ほどの空也上人の項目に出てきた2つの祠を思い出してみると、もしかしたら「1つが矢放神社の祠」「1つが稲荷神社の祠」なのかもしれませんね。

他、境内の様子と見所(狛犬と灯籠)

ここからは境内の狛犬と灯籠についてみて行きます。

狛犬の姿と年代

鷲塚狛犬

いきなり見るも無残な姿の狛犬を載せて申し訳ないのですが、集落側の片方の狛犬がこんな状態です。

どうしてこんなことに・・・。

鷲塚神社行幸記念

狛犬の土台には「本縣大演習 行幸記念」と刻まれています。

側面は見にくかったのですが、人の名前とおそらく「昭和八年」の文字が刻まれていました。

『河合村誌』によると、近くの九頭竜川中角あたりで大演習を行ったというので、おそらくはその時の物ではないかと思います。

年代物ですね。狛犬さんは福井大震災の際に砕けてしまったのでしょうか。

灯籠

鷲塚神社灯籠

こちらも集落側の灯籠です。

「明治四十四年四月」と刻まれています。こちらも年代物。

境内が整備されて狛犬や灯籠が新調されても、こういった昔の物も置かれているのはとてもいいことです。

伝説と歴史があふれる鷲塚神社

古代から現代までつながってきた鷲塚の地と鷲塚神社。

数々の歴史と偉人たちが言い伝えを造り、多くの人々がその言い伝えを繋いで、伝えてきました。

それは、この鷲塚が地域の人々にとって特別な土地であったからこそであり、その土地を大切に思う気持ちが繋いできたということなのでしょう。

これからもこの素晴らしい言い伝えの数々を伝え続けてほしいです。

参考文献:『吉田郡誌』『福井県の伝説』『河合村誌』『越前若狭の伝説』『御大典記念福井県神社誌』『越前の新田義貞考』

アクセス、最寄り駅、駐車場

最寄り駅は、えちぜん鉄道三国芦原線鷲塚針原駅徒歩6分

アクセスは川合鷲塚内県道5号線沿い。
駐車場はありません。

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