幻の寺「灌頂寺」おはる狐の伝説 ~名残と灌頂寺水刎枠【坂井市三国】

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三国港の九頭竜川対岸の新保村にはかつて、一大寺坊「灌頂寺」があったとされ、その遺構が一つも残っていないことから「幻の寺」と呼ばれています。
そして、その寺坊の森には、人を化かし、人を助けた狐がいました

今回はこの「幻の寺」「狐の伝説」をテーマに、坂井市三国新保灌頂寺を見ていきます。

千坊を誇ったとされる灌頂寺は北陸第一霊場となったといわれ、福井2大寺院平泉寺や豊原寺と似ているような印象をうけます。

この幻の寺の痕跡を探し、たった一つだけその名残を見つけることができましたので、最後までご覧いただけると幸いです。

灌頂寺について

どんな寺だったのか

まず、この灌頂寺という寺はどんな寺だったのでしょうか。

灌頂寺は天平勝宝の頃(756)、白山や越智山を開いた泰澄大師が二十八浦得度修行の時、泥原新保に来た際に寺を創建し塔中千坊北陸第一の霊場として開いたのが始まりとされます。
参考:『坂井郡誌』『新保区誌』

ただ、あくまでこれらも伝説の範囲内です。
もし本当なら千坊を抱えるような大きな寺が三国の地にあったというのは驚きですね。

ただこれについて、『三国町史』では「誇張されているのではないか」と記しており否定的なことが書かれていました。

まあ、確かに北陸第一霊場にしては知名度がなさすぎますしね・・・。

ただそれに加えて『新保区誌』にはこうも書かれていました。

新保のいくつかの寺院が灌頂寺の1坊であったともいわれていて云々

新保は、確かに寺院が多いです。確認できるだけでも6つお寺があります。これらの寺院が灌頂寺千坊の名残なのか、それはわかりません。

謎多き寺なのです。

幻の寺と言われる所以

さて、この謎多き寺は「幻の寺」ともいわれています。

なぜ幻の寺なのか、その理由に

  • 規模が大きい霊場にもかかわらず知名度がなく、確かな情報がない
  • 何一つ遺跡遺物がない
  • 詳細な所在がはっきりしない

以上のことが言えます。

「何一つ遺物遺跡が無い」というのがきついですね。

千坊を抱えるという灌頂寺。
福井の有力寺院で言うと、平泉寺豊原寺などを思い浮かべます。

  • 平泉寺は六千坊
  • 豊原寺は三千坊

これらはいずれも天台宗でしかも同じく泰澄大師が開いたという寺です。

この二つの一大寺院と同じ起源で同じ宗派似たような規模の巨大寺院というので、もし本当に灌頂寺が実在していたのなら、福井の三大寺院になっているはずです。

平泉寺には様々な遺跡や、自然の岩なども伝説として残っていますね。

これらとは対照的に何も残っていない灌頂寺。

では、なぜ何一つ遺物が残っていないのか。灌頂寺衰退の原因を見ていきましょう。

詳細な所在がはっきりしない問題についても、その次の項目で見ていきます。

               

灌頂寺の滅亡

さて、何一つ遺物が残っていないこの灌頂寺。
いったい何があったのか。

実は2の滅亡伝説が残っているのです。

 1つ目の滅亡伝説について郷土史を見ていくと、建武三年(1336)足利尊氏北陸平定の時、斯波高経を送ったことから始まります。
 大きな衰退・滅亡は元弘年間、新田義貞が燈明寺にて戦死した際、畑時能が鷹巣城で呼応し、最後の抵抗をしました。その時に灌頂寺が畑時能の援護に周り、僧兵3000余りが戦いました
 しかし、時能鷹巣城落城。それと併せて、延元三年(1338)高経方の軍は台風の時川岸から奇襲し、灌頂寺へ火を放ち、一夜で大伽藍は灰となったといいます。

参考:『坂井郡誌』『新保区誌』

南北朝の戦乱の時代に関係していたというのは、平泉寺と似ている部分です。まあ、その時代は寺が戦に参加するのは普通の事だったのかもしれませんが。

平泉寺は元南朝側でしたが、途中で北朝へ寝返りました。
灌頂寺は義貞が戦死した後も、南朝側で戦ったのですね。伝説ですが。

まあ、結果的に平泉寺は勝ち組になり、その後さらに隆盛を極めました。平泉寺は賢かったのでしょう。

福井県内には、新田義貞の時代の伝説もたくさん残っており、平泉寺にも楠木正成の墓があるくらいです。

福井県内中で南北朝の戦が起こっており、影響していたということですね。

 2つ目の滅亡伝説は『新保区誌』によると、歴史小説家中島道子氏の著書で紹介しているといいます。
 南北朝の伝説の後、237年後の天正三年(1575)まで進みます。室町時代の戦国時代、加賀一向一揆の勢いが加越国境まで延びていて、灌頂寺もその拠点として準備をしていたようです。しかし、対抗勢力で一向一揆を抑えていた強敵朝倉が織田信長に攻め滅ぼされると、その織田さえも敵勢力となりました。朝倉さえも勝てなかった織田軍。しかも越前府中(武生)ではとらえた層を数珠でつなぎ、女や子ども、老人も容赦なく残忍に殺害したという話を聞き、おじけづいてしまい、天正三年に自ら寺に火を放ち夜陰にまぎれて雲散霧消したといいます。

参考:『新保区誌』

平泉寺と豊原寺は朝倉方についていて、一向一揆とは敵対していたというので、ここでは明白な違いがあります。

2つ目の織田信長の時代の滅亡伝説を少しおかしな点があります。

  • なぜ、泰澄大師創建の大伽藍であり、千坊として修行僧を保有していた寺が一向宗、つまりは浄土真宗の拠点となっていたのか
  • なぜ、蓮如吉崎滞在の際に灌頂寺に関する記述が無いのか

まず、泰澄大師の開いた寺、先ほどから出ている通り平泉寺と豊原寺は天台宗です。
なおかつ、千坊の修行僧を抱えているというのも、修行の寺である所以です。
しかし、浄土真宗は修行を行い仏となるという思想ではありません。末寺はあっても修行僧を抱えること自体が矛盾しています。

一度、南北朝時代に滅びて、その後真宗となったのでしょうか。

たしかに、現在新保区にある寺院を見てみると、すべて浄土真宗か浄土宗の寺なのです。
福井の寺院は蓮如吉崎滞在の時代から、他宗派から真宗への改宗を行った寺院が山ほどあります。
灌頂寺とその関連の寺も、その改宗を行った寺なのでしょうか。
それとも灌頂寺の千坊というのも元々修行の寺ではなかったのか?

だとしても、2つ目の謎に当たります。

蓮如上人の伝記をかいた『蓮如 吉崎布教』という本には、蓮如上人の浄土真宗が北陸に進出した際に警戒していたとされる、犬猿の仲である天台宗の寺院として平泉寺豊原寺をあげています。
この蓮如の北陸進出の時の情勢として、「灌頂寺」という名は『蓮如 吉崎布教』という本には、一切出てきていないのです。

一向宗の拠点だとしても、ここまで大きな寺院の勢力であれば何か記述はあるはずです。灌頂寺が、朝倉の時代まではあったということになると、蓮如が北陸へ来た時代とも合うはずなのに、蓮如関連で一切の記述がないのはおかしなことです。

もし、灌頂寺が歴史上あったとするならば、1つ目の元弘年間の滅亡伝説までが由来の限界かと思います。

ただ、だとしても焼け跡の礎石など残っていてもいい気がするのですが、何もないんですね・・・。

こう見るだけで、謎だらけの寺院ということがわかります。

どこにあったのか

さて、そんな謎多き灌頂寺ですが、いったいどこにあったのか。

江戸時代の供養塔も残っている歴史の古い土地です。

もし何か名残が残っていれば見てみたいものですが、「何も残されていない」と伝わっていますし・・・。
しかも一昔前、この新保三里浜は「三里浜演習場」という、陸軍の演習場でした。

なので、もし戦前何か残っていたとしても、その演習場になった時に無くなってしまった可能性もあります。

ただ、詳細な所在はわからないとのことでしたが、「大体この辺だったのではないか」と話は伝わっています。

『新保区誌』と『坂井郡誌』によると、

  1. 九丁目付近にあって、七堂大伽藍を備えてあった。
  2. 新保から黒目にかけて松林の中に1000余りの末寺を持った。
  3. 敷地の広さは他に類を見ず、隣村辺りまであった。
  4. 現在の三国西幼稚園の辺り一帯と推測される。以前この辺りが灌頂寺と呼ばれていたことは地元の高齢者なら知っていること。
  5. 新保村より濱四郷村山岸に達する道路に沿って、灌頂寺の字名のみを残す。
  6. このそばの九頭竜川付近には、江戸後期に「灌頂寺水刎枠」という水流をコントロールする施設がもうけられていた。

意外と情報があります。

その中でも特に参考になりそうなのが、4~6番目ですね。

灌頂寺水刎枠、灌頂寺最後の名残かもしれません。行ってみましょう。

地名を偲ぶ「灌頂寺水刎枠」と灌頂寺の現地へ

福井県坂井市三国新保の南端に保育園があります。

特に地名や電信柱に「灌頂寺」の名はなく、現地でも目に見ることはできないかとも思いましたが、保育園の川側に、「それ」はありました

灌頂寺の名残

灌頂寺水刎跡

そう刻まれた石柱があったのです。

おそらくこれが、現存する唯一目に見える「灌頂寺」の名残なのでしょう。

後ろには保育園の滑り台などの遊具があります。この辺りが、灌頂寺のあった場所なのでしょうか。全くその形は見ることができませんね。

ちなみにこの灌頂寺水刎枠とは三国港の土砂の堆積問題を回避するために作られたものです。三国は河口港であるため、土砂が堆積し水深が浅くなると船の運航に支障をきたし、港が存続できなくなります。江戸時代にこの問題の対策で「灌頂寺水刎枠」をつくっていました。

元々、河口付近は竹田川と九頭竜川が流れてきていますが、竹田川は三国港側を流れ、九頭竜川は新保側を流れていました。しかし、竹田川は九頭竜川よりも流れが弱く緩やかでその分土砂が海まで流れず堆積していきました。結果、三国港がどんどん浅くなり、新保は深いままでした。

その対策として寛永年間に川除け工事が行われ、三国西幼稚園付近から180m程海へ向けて石枠の堤を張り、水の流れをコントロールしました。結果、三国港の土砂は洗われて、水深を保つようになったといいます。

しかし『三国町百年史』によると、それと引き換えに、今まで自然のまま水深を保っていた新保側は、どんどん浅くなっていき、新保の海運業は徐々に衰退していったようです。

何とも皮肉ですね。
やはり、大きな港のさらなる発展のため、小さな港は犠牲となるのだ。

灌頂寺水刎枠

石柱の横にもちょっとした説明が書かれていますね。大理石なのか、めちゃくちゃ見にくいです。

そんな水刎枠が灌頂寺の名があるわけです。

新保灌頂寺川岸

石柱前の川岸です。

水刎枠も今はありません。

ここから台風の時に高経方の軍が攻めて来たのでしょうかね。

今はその水刎枠はないですが、こうやって石柱として名残があり、その名残の中にさらに灌頂寺の名残があるというのは、名前が繋いできた伝承なのでしょう。

 

そんな、灌頂寺にはもう一つ気になる話があります。

というか、私からしたらこちらがメインなのですが、この灌頂寺があったところに森があったようなのです。その森の中には「おはる狐」という狐が住んでいたという伝説があります。

最後にこの伝説を見ていきましょう。

灌頂寺の森に棲む「おはる狐」の4つの伝説

最後に見ていくと言いましたが、この「おはる狐」の伝説には4つの話があります

まあ、それほど地元から親しい存在だったのかもしれません。

『福井のむかし話』から4話紹介します。(ちなみに『[若狭・越前の民話 第2集]』にも載っています)

では見ていきましょう。

狐に化かされた話(馬の糞)

 灌頂寺の跡におはるギツネという化けるのがうまい狐がいた。人をだましたり、いたずらしたりして通行人を困らせたという。
 ある夏の夕方、新保の若者がお宮さんで遊んでいると、狐が一匹出てきた。若者は隠れてじっと観察していると、狐は見られていることも知らず、イモの葉を頭に乗せた。すると美しい女の人になり、持ってきた重箱にそこら辺に落ちている馬の糞を入れ始めた。不思議なことに重箱に入れた馬の糞はおいしそうなぼたもちになっていった。その重箱をさげて、ある家の中へ入り、そのぼたもちをあげていた。若者は雨戸の穴から覗いて、「それは馬の糞だ!」と声が出そうになったっ瞬間、
「そこで何してる」
と肩を叩かれた。
「いま狐が化けて、馬の糞を人に食わそうとしている。」
「何を寝ぼけてるんだ。馬の尻覗いてるじゃないか。」
気が付くと、本当に馬の尻を覗いていたのだという。

狐に化かされた話(殿様行列)

 三国の商人が川西へ行く途中、狐にだまされるなと注意してくれた友人の言葉を馬鹿にして、鼻歌交じりで灌頂寺の松林に入ってくると、狐が道を横切り、草むらへ逃げた。
(出たな。おまえらにだまされてたまるか。)
と、草むらの方を見ると、狐が殿様行列に化けていた。
 その行列が「下におれ!」と言いながらやってくるので、うまく化けたものだと道に立ったままじっと見ていると、商人は行列の前に立ちふさがったという罪でしばかれて奉行所に連れていかれた。
「狐にだまされたんだ。勘弁してください。」
と謝っても許されず、遂に打ち首になることになった。
 そのとき檀家寺の滝谷寺の住職がそれを聞いて駆け付けた。商人は住職のとりなしで、頭を剃って一生坊主になるという約束で命は助けてもらったという。
 商人が髪を剃られて謝っていると、近くの百姓が通りかかり、
「どうしたんだ」
というので、辺りを見ると商人は元の道に座っていた。
 頭の髪だけは剃られていた。

狐の椀貸し

 昔、灌頂寺を新保の人は「かんじよし」と言っていたという。
 かんじよしのおはるギツネは大金持ちで広いお寺の跡に立派な御殿のような家をつくって住んでいた。おはるギツネはなかなかの親切者で村の人が「明日、御法事を行うので、おぜん十人前とおわん十人分を貸してください。」と松林の奥に向かって頼むと、あくる日の朝には松林の古井戸のところに、十人前の御膳とお椀がそろえてあったという。

灌頂寺に住んでいる人にはやさしいのかな?

狐のお産と恩返し

 ある時、三国の医者のところの玄関を真夜中にドンドンと叩いた。あまりに叩くので外に出ると、立派な籠を持ってたくさんの人が迎えに来ていた。そして中の一人が、
「お産で苦しんでいるので、すぐに来てください。」
と、必死に頼んできた。医者は、こんな夜中にきついなと思ったが、人助けだと思って籠に乗った。すると、その籠は飛ぶように走って立派なお屋敷に着いた。
 そして、すぐに子どもを産むのを手伝って助けた。一人生まれたが、まだいるようなのでしばらく待っていると、また生まれた。それから次々と生まれ、八人を取り上げた。医者ははじめに脈を診た時からこの女の人は人間ではないと気付いていたが、そのまま知らないふりをしていた。
 お産が済んだので、また籠に乗って家へ帰った。
 ある夜、またドンドン玄関を叩く者がいた。寝たまま「なんだこんな時間に」と言うと、
「昨日はありがとうございました。お礼をおさめてくださいませ。」
どうせ、狐の持ってくるお金は木の葉だろうと思って、
「お礼なら、そこへ置いておいてください。」
と言って相手にしなかった。すると、表でズシンと大きな音がして帰って行った。
 次の朝、外に出てみるとたくさんのお金が光っていた。医者はそれから、大変な金持ちになったという。

幻と伝説に想い馳せ

幻の寺「灌頂寺」。

そこに残るいくつもの伝説は、灌頂寺があったということを伝える一つの方法となっているのでしょう。

おはる狐の伝説は、まるで狐伝説のオールスターのような内容です。
化かされる話、人助けの話、人に助けられ恩返しする話。

それほど多くの狐の話が伝わっており、伝えられてきた話ということは大事にされてきたのでしょう。

おはる狐は灌頂寺に住み、水刎枠は灌頂寺の名前がついています。

たとえ幻であっても、言い伝えや昔話、地名、施設に「灌頂寺」が残されており、灌頂寺の存在そのものまで消さないように保たれていることがうかがえます。

参考文献:『坂井郡誌』『三国町百年史』『新保区誌』『福井のむかし話』

基本情報(アクセス、最寄り駅バス停)

最寄り駅は、えちぜん鉄道三国駅からバスに乗り換え新保南バス停で下車徒歩3分

自動車では、国道305号線新保交差点で東へ曲がり、500メートル先に左斜め前に分岐するところがある(地蔵堂前)ので、そこを左に行くと350メートル先にあります。

駐車場はありません。

マップへ

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