熊野神社の由緒~青葉山今寺登山口の謎のお堂と共に【高浜町】

当記事には広告(商品リンク、旅行予約リンクなど)を掲載しています。
※ステルスマーケティング防止のため

福井県高浜町今寺の青葉山の麓、今寺登山口の道中に熊野神社と謎のお堂、そして陸軍省の石杭があります。

熊野神社の由緒と御祭神。謎のお堂、今林寺について見ていきます。

熊野神社の由緒・御祭神

今寺熊野神社

御祭神:伊弉諾尊
創建は不明だが、少なくとも長元三年(1030)には既にあったとされる。

神社誌には記述がみられず、ここに載せる情報は『郷土誌青郷』を参考にします。その『郷土誌青郷』によると、

境内地に合祀する長元三(1030)年の創建と伝える青葉神社があり、このことから、それ以前に祭祀されたものと考えられる。
引用:『郷土誌青郷』

と書かれており、この熊野神社の創建は相当古い物のようです。

石垣の先には社が3つあります。

今寺熊野神社

神さびている。

中央は熊野で伊弉諾尊、左右どちらかは青葉神社ということでおそらくイザナミか菊理媛尊かと。ではもう一つは何でしょうか。西と東の青葉神社なのでしょうか。郷土史にはそこまで載っていなかったので不明です。

いずれにしても雰囲気がある場所です。

今寺熊野神社刻

狛犬の台座には明治二十二年と刻まれています。

陸軍省石杭

陸軍省石杭

熊野神社には陸軍省の石杭が残っています。

しかも他の面にも文字が刻まれています。

陸軍省石杭

正面には「陸軍省」と。
右面には「第七■三■」と。よく読めない。

 

陸軍省石杭

背面には「舞鶴要塞第二地■」
左面には「明治■■■■」

それにしてもなぜここに陸軍省の石杭があるのか。

これに関しては、以前青葉山登山で載せた部分でわかります。

この記事で載せた一部を見ると。

明治維新で地券制度が施され、神仏分離が行われた。この際、西青葉神社の所有権をめぐって松尾寺と今寺との間に大論争が生まれ、明治11年ごろが最も激しかった。今寺は青郷総出で西青葉神社を破壊。松尾寺はこれに対し宮津裁判所に告訴。今寺区民は宮津裁判所に呼び出される。明治12年6月26日、今寺の首謀者2名に懲役70日、9名に懲役30日の判決が下ったが、青葉神社の所有権は今寺の物と認められた。事件後、今寺は改めて加賀白山比咩神社から分神を請け、祭祀している。
明治以降は陸軍要塞地帯となった。
参考:『わかさ高浜史話』

しばしば今寺側と松尾寺側では争いがあった様で。

そして明治以降に陸軍要塞となったということがしっかり書かれています。

まさにここは陸軍の所有だったわけですね。

謎のお堂と像

さて色々と神社の境内について見てきましたが、この熊野神社のすぐ横に謎のお堂があるのです。

お堂

立派な銀杏の木。その下にお堂があります。

お堂と大木

墓らしきものと六地蔵。なんだか葬送の香りもしますが、とにかくこのお堂が何なのか。

『郷土誌青郷』にこのような記述があります。

『若州管内社寺由緒記』に「熊野権現、御神体阿弥陀、右は今林寺と申す寺の鎮守なり、開基跋覚上人、松尾より引越し、今林寺を建立なされ、ただ今は大破して久しく時代知れず」とある。いずれにしても古い寺と共に同社は存在した。
引用:『郷土誌青郷』

今回見てきた熊野神社は今林寺の鎮守社だというのです。

「今林寺」・・・。これが「今寺」という地区の由来なのでしょうか。

今の熊野神社と謎のお堂にしてもこのお堂が今林寺の痕跡みたいなものなのでしょうか。

近くにいた地元の方に聞くと中に入ってもいいというので入らせていただきました。正面には仏像。その右には何やらほぼ原形をとどめていないような像がありました。まるで燃えた後のような。如来なのか菩薩なのか、はたまた僧侶の像なのか。それすらもわからない状態です。

お堂と像

中で撮るのはあれだったので外から取りました。今思えば戸を開いた状態で撮ればよかったなと思います。

見えている像。これがその古めかしい像で、なんとも不思議な感じがしたのです。その地元の方に聞くと、

わからないけど相当古い

とおっしゃっていました。

最近焼けたとかそんなのではないということが分かります。ということは、大破した今林寺の遺物なのでしょうか。

今ある熊野神社、そしてこのお堂。
かつての今林寺と熊野神社の名残のようにも思えます。

葬送の雰囲気

今寺六地蔵

さてちょっと気になった「葬送の香り」について見ていきます。

よく見ると後ろの方に墓がありますね。これはやはり墓地です。六地蔵の左手には舟形地蔵さんもいました。そして写真の撮り忘れ。実はこの六地蔵の前に石の祭壇のようなものがあるのです。棺台のようにも見えます。グーグルストリートビューで見れます。

もしかしてサンマイが近いのでしょうか。今のお堂もサンマイのため?それとも今林寺時代の墓地を受け継いでいる?

たしか穢れを気にして神社の前は通らないはず。熊野神社は右手だから、左手に墓地があるという配置はある意味理に適っているかもしれません。ただしこれがサンマイなのか、石塔墓なのかは不明。石塔があるから石塔墓なのかな。

ここで、水上勉の本を思い出しました。その人はこんなことを書いているのです。

 私は、十歳の頃に縁があって、京都の禅寺の小僧になるため若狭を去ったのであるが、私をもっとも可愛がってくれた文左の婆の松尾詣りについて山ごもりをした記憶は忘れられない。
 青郷の関屋から高野、今寺の村を越えて、山を縫う道を歩いていくと、足もとに、崖が落ち込み、波しぶきのあがる難波江の浜が見えたことを覚えている。
 道は、いくつもの尾根を越え、襞を分け入り、暗い山間を潜り抜けていくが、そうした路ばたに、時に、かなり広い墓地のかたまりを見つけた。祖母たちはその墓に来るといっぷくしたものだった。墓地のわきには必ずのように湧水があり、その湧泉のそばには、古びた柄杓がおかれていた。咽喉のかわいたものはこの柄杓で水を呑むのである。
 墓地は苔の生えた石塔が並んでいたり、くさりかけた塔婆がいく本もさしこまれてあったりしたが、それらの墓のそばに、何やら得体のしれない大きな箱がころがっていた。朽ち果てた板が破入れた隙間から、骸骨らしいものがのぞいているのを見た記憶がある。骸骨は箱のフタから頭の部分をのぞかせ、土まみれになって、雨露にさらされていた。
「この墓はな、無縁の墓じゃ」
と祖母は教えた。 
(中略)
 墓のある場所は、眺めが素晴らしく、たもの木や、もちの木の黒い林が割れて、澄んだ空と、広い若狭湾の紫紺色の海が、絨毯を敷き詰めたように眺められる高台にあった。波がいつも騒いでいた。
引用『若狭がたりⅡ わが「民俗」撰抄』

水上勉が見たという墓地は難波江の見える高台ということで、今寺ではなく青葉山の東の方だったと思われますが、おそらく「関屋から高野・今寺」を通ったということで、このお堂の前も通ったのではないかと思われます。

青葉山を取り巻く環境にはこうした葬送文化の歴史も垣間見えるのです。

社寺で歴史を見る

長元の平安時代から、明治時代までの痕跡を見ることができる今寺熊野神社。

あまり知られるような場所ではありませんが、青葉山の今寺登山口にあり、この登山口を通る人は必ず目に付く場所です。

今も人が通るその場所で、それらの時代の姿をとどめています。

参考文献
『郷土誌青郷』
『わかさ高浜史話』

基本情報

最寄り駅JR小浜線青郷駅から徒歩52分
自動車大飯高浜ICから19分
駐車場なし
  • コメントはメール返信ができませんので、該当ページ上での返信となります。
  • コメントは審査をしますので、反映・返信までに数日かかる場合があります。(1週間経っても反映・返信されない場合はサイト運営者に何かあったと思ってください)

コメント