福井県坂井市下兵庫大森(だいもり)に大森円墳と呼ばれるものがあります。
この場所は「古墳」とされていますが、かなり謎が深いものです。
いったいどんな古墳で誰の古墳なのか。そしてその古墳には何があるのか。実際に赴いた際の現地の様子や資料から正体と謎の魅力を探っていきます。
大森円墳のある場所
大森円墳があるのは、福井県坂井市下兵庫大森。
えちぜん鉄道の三国線の下兵庫こうふく駅から500メートルほど西に離れた所に、木々が生い茂る小丘がぽつんとあります。
道路に隣接した田んぼの中にあり、道の方からも説明板が掲げられているので見つけることができます。これが大森古墳です。
こう見ると、確かに典型的な古墳の遺跡です。
古墳の形状と現状
形状は「大森円墳」とあるように、円墳です。
下の道路から見ると小丘になっているのがよくわかります。
そして、その場所には昔からあると思われるさまざまな種類の木が生えており、小さな森となっています。杉の木は後で植えられたものでしょうか。そこまで大きくはなく手入れもされています。
丘の上には神社の社殿と石祠、2体の仏像があります。古墳というよりかは神仏の信仰の場となっているのでしょうか。
大森古墳の謎
古墳に関して郷土資料から見る情報
では、ここから肝心の古墳についての情報を見て行きたいと思います。
まず、なぜこの古墳が謎なのかというと、以下の点が挙げられます。
- はっきりした資料がない
- 発掘調査がされていない
- 継体天皇の娘の古墳とされる
つまりは、伝承では「古墳」とされていますが、それを立証できるものがないのです。
下兵庫の郷土資料や、坂井町の郷土資料を見ても「大森古墳」という記述はあるのですが、その内容はあまりにも薄く少ないです。
兵庫地区が発刊する『えんりゅう ふるさと兵庫4500年の歴史と文化』では
男大迹王(継体天皇)の娘、千鶴姫が埋葬されているとされるが未発掘。 参考:『えんりゅう ふるさと兵庫4500年の歴史と文化』 |
ということしか書かれておらず。
ましてや『新修坂井町誌』では、
兵庫地区で明確な墳丘は確認されないが、大森にある塚形の高まりが古墳時代後期の石室を持つ古墳ではないかとされており、県の遺跡台帳にも大森古墳と書かれているとされている。ただ、墳丘が崩れたものとみれば古墳と考えられなくはないが、遺物などを肯定できる資料がないため不明と言わざるを得ない。 参考:『新修坂井町誌』 |
というような扱いなのです。
坂井町公式の郷土史がこういってしまっているので、余計に謎が深まるばかりです。
大森古墳は誰の古墳なのか
先にも示しましたが、継体天皇の娘の古墳とされているようです。
その名は「千鶴姫」というのですが、道麻呂というこの地の長の娘である「琵琶女」という女性と継体天皇の間に生まれた娘らしいです。3歳にして亡くなりこの古墳に埋葬されたとか。
現地の墳丘の前にある案内板にも簡単ではありますが、千鶴姫のことや古墳の概要が書いてあります。ただ、その内容もまた郷土史のように非常に簡単な内容です。
しかしまた、この琵琶女と千鶴姫自体も謎です。資料を探そうにも出てきません。公に話が出ている天皇の妃や妾とは違いますから、本当にこの地域内での出来事なのでしょう。明確なことは分らないです。
継体天皇の妃の謎とその子の謎
天皇の妃の不明確さにはほかにも事例がいくつかあります。
越前市の佐山姫公園の由来となった「佐山姫」も妃だったそうですが、こちらも旧跡が残るだけで人物の詳細が郷土史に書かれておらず不思議です。
天皇の妾ぐらいになると、『花筐』など能や有名な絵画として登場して資料も残ると思ったのですが、この『花筐』の照日の前も本当にいた人物ではないにせよ、モデルがいたのか完全に架空の人物なのかも怪しいものになっています。
花筐関連の記事があります。
ただ、琵琶女と千鶴姫に関して、兵庫地区の近くの長田という地区にもこの千鶴姫に関する史跡が残っています。そこには千鶴姫の産湯に使ったとされる長田池が今でも形だけ保存されています。こちらも併せて見てみると良いかもしれません。
それにしても、継体天皇の娘が埋葬されていると伝えられる重要な古墳がここまで淡泊に示されているのは謎としか思えません。
そのミステリアスな部分を多く秘めていることが魅力的でもあるのでしょう。
古墳にある「勇島神社」とは
勇島神社の概要
大森古墳の上には「勇島神社」という神社が鎮座しています。読み方は「勇島(ゆしま)」です。
現地は草木が生い茂り、古い石階段があります。
由緒や創建は不詳とされています。これまた謎の古墳に鎮座する謎の神社です。
ただ創建に関しては手掛かりが見つかっているようで、『新修坂井町誌』によると、
享保~延享(1716~1747)にかけて社殿の修理が何回か行われていた |
という記述があり、その時代以前にはすでに存在していたことは分っているようです。江戸時代以前にはあったというので、それなりに古い神社ではありますね。
勇島神社の謎
それにしても、この「勇島神社」という神社ですが、他ではあまり聞かない名前です。一体どういう神様なのか。これに関しては分らないです。
最初は継体天皇、琵琶女、千鶴姫あたりが関係している神社なのかなとも思いました。
ただこの勇島神社の社殿の後ろに石祠があったのです。
古の時代からあるような、時代を物語る石祠です。
そんな石祠には「白山」という文字がかすかに見えます。そう、この祠は「白山神社」ということです。
しかし、こういう祠と社殿の関係は、本殿に相当する祠と拝殿に相当する社殿という関係性が多いように思えます。
例えば、祠だけだった神社に社殿を増築して立派な神社として祀るなどです。
もしこの神社もその関係性ならば、「勇島神社」の正体は「白山神社」ということになるのでしょうか。
『新修坂井町誌』によると、石祠が建てられたのは江戸中期ごろだとされています。つまり、勇島神社の社殿が修理された年代とほぼ同じです。これは偶然でしょうか?
ただ、この「勇島神社」と「白山神社」の関係性ははっきりとはしていなく、『新修坂井町誌』でも「関係が注目される」としかコメントしていないので、同じだと決めつけるのはまずいみたいです。
これまた謎が増える一方。
追記
『新修坂井町誌』内の神仏集の中の中に「勇島神社境内社白山神社」という文言がありました。今時点では勇島神社と白山神社の祠は別物となっているようです。
安置されている石仏
大森古墳の西の道路側に石仏が二体安置されています。道路からだと見やすい場所にあります。
右は観音像で、左は地蔵ですかね。
右の観音像については、『新修坂井町誌』に記述がありました。
延享2年の開眼供養が大善寺の文書に残っている。 |
とのことで、しっかりとした由緒が残っています。また、現在見に行った時は観音像を覆う石祠は新調されていましたが、資料では開眼供養の前、延享元年の物だったらしいです。
ちなみに大善寺は、この大森古墳から150メートルほどのところにあります。つまり、ここは仏教の信仰の場にもなっていたということです。
ちなみに同じ下兵庫内の「火霊神社」にいる弥勒様もこの大善寺が開眼供養をおこなっているようです。
大善寺は相当な力を持っていたのでしょう。
大森古墳の役割
さて、いままでこの大森古墳についていろいろ見てきて、謎が多いということは分りましたが、結局大森古墳とは何者なのでしょうか。
おそらくは、古墳という遺跡というよりかは、信仰の場所となっているのではないかと思うのです。
古墳が信仰の場となるのは、敦賀の穴地蔵のように他の地域でもあることなのでひょっとしたら、その用途がメインの可能性も考えられますね。
古くから地域の人々の心のよりどころなのかもしれません。
謎から生まれる魅力のある場所
坂井平野に存在する兵庫地区。
そんな兵庫地区にひっそりとたたずむ大森古墳は、多くの可能性と謎を秘めた魅力的な遺跡でした。
人々の神仏信仰と古代の遺物である古墳、そして継体天皇との関り。すべてが謎で、「謎」ということが魅力であるように感じさせる場所です。
そんな謎に包まれた大森古墳、今後も程よく有名になってもらいたいものです。
参考文献:『えんりゅう ふるさと兵庫4500年の歴史と文化』『新修坂井町誌』
基本情報
最寄り駅は、えちぜん鉄道三国線下兵庫こうふく駅から、徒歩7分。
アクセスは、県道106号線沿い。
駐車場はありません。
同じ地区の近くには、スイレンで有名な「淵竜の池」や、富山の石動を本尊とする「石動神」の跡地もあるので、併せて見ても良いかもしれません。
同じ兵庫地区の記事。
コメント
興味深く拝見させて頂きました。古墳だとは思いますが画像を見た時「森山」の様にも感じました、田んぼの近くにある稲魂を授かる神事を行う場所です。千鶴姫の存在は知りませんでした。ただ花筐よりは1000年近く前の事ですから、能や伝世品に残さることは無いかと思います。そして、古代は女系国家や女性天皇の時代ですから、
必ずしも天皇の妾という表現は適切ではないかもしれません。
現代人が知っている歴史観は飛ばして4500年の歴史を伺ってみたいという気持ちになりました。
福井は継体天皇ことオオド王の由縁の地。
日本中で継体天皇を祭る神社は少ないので興味が尽きません。
これからも発信宜しくお願いします。
コメントありがとうございます。
確かに今の私たちが思う国の形とは違っていたのかもしれませんね。
福井平野にはかなり多くの継体天皇と関わりの深い土地が点在しているので面白いです。
たしかにこの辺りはこういった小丘がたくさんあります。土地改良で消えてしまったものを含めるとかなりの数です。それに石祠もかなりの数が点在しています。同じ兵庫地区でも他に稲荷社もありました。やはり古墳とはいっても、これまでは純粋に村人の祈りの場だったのかもしれません。