泰澄大師御生母廟所(墓所)七重塔と五輪塔~泰澄の母と勝山について【勝山市】

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泰澄大師御生母廟所

福井県勝山市毛屋の県道17号線沿いに泰澄の母の墓であるといわれる場所がある。

なぜここに泰澄の母の墓があるのか。その史跡の歴史と由緒はどのようなものか。毛屋は勝山でも特に古い土地であるので、この史跡について調べる。

地理

泰澄大師御生母廟所

勝山の大野寄り、県道17号線沿い、毛屋バス停のすぐそこに茂みがあり、そこには垣があり、中には石標と石造物があります。

まわりは住宅も多く、スーパーマーケットやホームセンターもあり、完全に生活圏です。

そんな中にある廟。ただし、平泉寺白山神社にほど近い場所でもあるので、歴史的には繋がりはありそうな土地です。

泰澄大師御生母廟所と毛屋について

概要

泰澄大師御生母廟所

まずはこの墓についてみていきます。

この石標は昭和三十四年に作られたものです。笏谷石製。
奥にさらに垣があり、七重の石塔、両脇に五輪塔があります。その両脇の五輪塔の前にも石塔らしきものがあります。七重塔に文字はありません。

『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』によると、石碑の文字は平泉寺白山神社の宮司平泉澄博士、彫ったのは若猪野の長谷川秋男氏。石は片瀬の大岩近くの田から移したものといわれます。

現在は更に新しく勝山の史跡認定の石碑も付け加えられています。

石塔など廟の詳細

泰澄大師御生母廟所石塔

ではこの廟についてもっと詳しく見ていきます。

泰澄の生涯が伝説化して語られた平安時代の中頃から鎌倉時代にかけての頃、泰澄の母は伊野氏で、その出生地は猪野村であるという伝説も固定化したようである。そしてこの村に、泰澄の母の墓地といわれる区域があり、その中心に七重の石塔が立っている。七重塔は相輪だけが古い作品で、五重の屋根は江戸時代の補修、安置されている石像は室町時代末期の作であろう。また、左右両側に五輪塔がある、とくに右側のものが室町初期あるいは南北朝のもので、蓮弁のきざみはまことに美しい。この場所に、どういうわけで七重塔や五輪塔がおかれ、いつのころから泰澄の母の墓というようになったのかわからないが、貞享絵図作製のときに書かれた「越前地理指南」には、「石塔アリ、一ハ七重ニテ七尺アリ、ニは三尺宛アリ」とある。
引用:『勝山市史』

泰澄母墓
下毛屋に三基を存す、墓頭梵字を刻せり古来世に名高し、盖足利利時代の物なるべし
引用:『大野郡誌』

泰澄大師御生母廟所石塔

現地の七重塔。古めかしく、かなりスリムな印象です。私が何よりも目を引いたのは、石塔下段の内部。ここに石像が祀られているのです。写真ではわかりにくいかもしれませんが石像があります。

『勝山市史』に書いてあった、「室町時代末期の作の石像」なのだと思います。

また、『若越墓碑巡り』には「泰澄母石塔」という名前で載っています

毛屋という土地にあるこの墓所。そもそもこの毛屋という土地自体がかなり古い土地と言われ、勝山市史には

古代の郷名が現代まで残っているのは、勝山地方では毛屋だけである。
引用:『勝山市史』

と書かれており、平泉寺の前の前にある土地であることも合わさって、重要な土地だったのでしょう。

泰澄の母の墓といわれ、中世平泉寺僧徒の修造したものであろうと「大日本地名辞典」は述べている。
引用:『勝山市史』

このようにも書かれ、やはり平泉寺が関わっているとされています。

 

さらに追加で詳しく見ていきましょう。

というのも、この泰澄母と勝山との関係について非常に詳しく調べられている本が、先ほど何度か登場した、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』という書籍です。正直これを見ていただければ、当記事を見る必要もないのではないかというほどのもので、かなり詳細に、そして様々な考察がなされています。写真も載っており、まだ廟が整備される前の写真も載っているほどの書籍です。

それによると、この廟は元禄年間作であると仮定される「中宮白山平泉寺境内図」にも「大師母君御廟」として、松と広葉樹の林の中に七重の石塔と左右の塔もしっかりと描かれているそうです。

明治の地籍図にも廟周辺を「泰澄」という字名にして、大正十一年には泰澄大師の没後千百年祭を行い供養したと言います。ちなみになぜ泰澄母の廟で泰澄大師没後千百年祭が行われているかというと、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』には「御母の没年が明確でないために泰澄の没年に合わせて供養したものでしょう」という理由が書かれています。

昭和三十六年ごろに国道157号線が作られるのを境に、廟が荒れたままではもったいないということで勝山町の有志が整備し玉垣を張り巡らせたと言います。(伊野姫遺跡保存会)

 

さて、私は妙の所で引っかかってしまったのですが、七重塔の両脇に五輪塔がある事は十分に説明されていました。しかしその五輪塔の前にある石塔について、いまいちよくわかりません。

それぞれの五輪塔の前にある石塔。かけてはいますが、見た感じだと、右の方は同じく五輪塔。左の方は多重塔のようです。二重に見えますが、二重塔などあるのでしょうか。

『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』にの整地前の写真にもこの2つの塔は写っていましたので、昔からあるようです。

また

七重石塔を中心に五重塔4基が囲んでいる形である。
引用:『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』

ということも書かれてはいるのですが、五重塔…。五輪塔も一応五重塔なのかな。ただ一つだけ五輪塔ではないことは触れないのか…、という感じです。

長い時間の中で伝承も途絶えてしまうのは仕方のない事ではありますね。

近年の毛屋にとっての御廟

これも『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』を参考にします。

あまり文字を連ねてもあれなので、簡単に箇条書きで要約します。

  • 廟の土地は下毛屋の共有地。
  • 昔は供養は平泉寺本坊から供物を持ってこられ毎年六月二十日に祭りがあった。いつからか口調の方から平泉寺白山神社宮司を案内し、村の八幡神社春祭りの日に合わせて祭りがおこなわれるようになった。
  • かつて泰澄地籍に住んでいた三屋兵衛家が勝山町へ移住するとき、今まで家で祀っていた石像を廟北の小さな祠におさめた。
  • 以前は廟のあたりは枷場(はさば)としても使われていた。
  • 七重の石塔は雪の為頂上部分が落ちたことがある。現在は針金で補強してある層もある。
  • 昭和四十七年四月二十一日に勝山市指定文化財となる。

お泉水(養浩館)に移された石塔

『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』参考にすると。
「かつて毛屋にあった石塔が福井のお泉水にある石塔は下毛屋から移した」という記述があります。『越藩拾遺録』にも同じことがかかれているといい、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』にはいくつか仮説が建てられ、「永享六年の文字がかかれている九重塔が伊野原から養浩館へ移した」とされているようです。ただし、福井空襲福井地震で礎石だけとなりその写真も掲載されていました。

現地の説明板にもこのことが書かれています。

はたしてこの壊れた石塔がいまも養浩館に残っているのか。

機会があったら見てきたいと思います。

泰澄の母について

お次はそもそも泰澄母とは何者なのかという話に移ります。

九頭竜東岸の伊野原は泰澄の母の出生の地であるというのである。泰澄の母がこの地の出身であるということの真実性はともかくとして、これがもとで泰澄の母の名を伊野姫と伝えるようになり、そして、おそらく江戸時代のころ、毛屋村に泰澄の母の墓所がいとなまれたのである。
引用:『勝山市史』

ただし他にもこの泰澄の母の出生地には説があり、『大野郡誌』の「猪野瀬村」の項には

此人名は伊野姫、伊野村の出生と伝うる所以、石徹白村にては該村杉本氏の出なりと伝う
引用:『大野郡誌』

と書かれ、さらに『大野郡誌』の「石徹白村」の項には

泰澄大師の母
杉本家より出てしなりと伝う、大途見彦命、即、伊野原の宿禰の七世孫を河武丸という、子あり、曰く此定(和銅七年甲寅四月三日死年七十)曰く、櫻姫、〔杉本系譜〕櫻姫は亦名を伊野姫と云う、麻生津三神安角に嫁す、神融禅師の母也、養老三年己未四月死す。
引用:『大野郡誌』

このようにかかれ、大野郡誌では比較的石徹白村の方が詳しく書かれている、というか参照が石徹白村なので、こちらの説の方が濃いのかもしれません。

『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』には

伊野姫という呼称は『越前国名蹟考』や石徹白村誌稿本などに基づく伊野姫伝承の影響を受けたものらしく、猪野瀬地区の住民にとって伊野姫はなじめない。
引用:『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』

と書かれています。この一文を見るとやはり元は石徹白村発祥の話なのかとも思ってしまいます。

勝山の朝日新聞にはかつてこの廟が登場したことがあり、それには

またこの伊野村は泰澄大師の平泉寺開基に因縁を持ち、平泉寺に先だち大師が母里を訪れていることが想像される。
引用:『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』

と書かれています。

石徹白の伊野姫伝承が伝わる場所には、大師堂がありその中に伊野姫像が祀られていると言います。

越前馬場の平泉寺伝承では、少なくとも江戸時代までは下毛屋に伊野姫説は一件もなかったと言います。明治四十四年の『猪野瀬村誌』には「泰澄先妣ヲ本村伊野ノ人ナリト云ヒ、又石徹白村杉本左近ノ出ナリト云フ、是非ヲ知ラズ」とあるようです。
ただし『類聚国誌』(1804年~)には「泰澄ノ母ハ本県伊野原ノ人ナリ伊野原ハ下毛屋ノ隣ニ在リ」とあるようです。

               

 

『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』によると、明治四十年代に石徹白村説が流れてきたとし、猪野瀬村には郡上藩の陣屋があったことも一つの要因であるとしており、一番の影響は『大野郡誌』が石徹白推しだったので石徹白村説が濃くなったのだとしています。

泰澄母は後に伊野氏から三神氏に嫁ぎました。没年は触れられていないようです。

ただし、『平泉寺史要』と高島勝栄氏著書『泰澄大師』では養老三年に死去したという説を押しているようです。

実際、私自身『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』以外でも、「白山平泉寺の伝説に泰澄母が泰澄に会うために白山へ登ろうとして、山腹付近の岩に妨害され会うことが出来なかった」という伝説をどこかで見たような気がします。高島勝栄氏著書『泰澄大師』ではその時に急死したとしているようです。

敷地にある堂の石像はてっきり何か観音さんか地蔵さんの石仏かと思っていましたが、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』によると「泰澄母像」と呼ばれる石像だということでした。近年奉納されたということです。

泰澄大師御生母廟所仏像

いずれも謎に満ち、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』でも多くの考察をしていますが、決めつけるようなことはなく、可能性として語られています。

歴史なんてものは後世の人によって都合よく書き換えられることもありますし、創作の可能性も否めませんが、私は様々な説があっていいと思いますし、それもまた面白いので、こういった伝承伝説の醍醐味として楽しむものなのかなと思います。

ただ、やはりこの勝山の平泉寺境内などにも泰澄の母の伝説も残っているので、この地は間違いなく泰澄の母とは深い関係にある土地だといえるでしょう。

街中にある越前の歴史の一母の墓所

泰澄大師とは、言ってしまえば越前の歴史の大部分を築いた人物ともいえるでしょう。

その人物像や出生は未だに謎に満ちているようですが、平泉寺も泰澄が開き、白山も越知山も文殊山も開き、豊原寺も泰澄が開き、鯖江の長泉寺も泰澄が開き、少なくとも越前全域にはこの泰澄大師の伝説であふれ、越前の山々を修験の地として開かれ今に続いています。

そんな泰澄大師の母というのは、越前の母の一人ともいえ、その墓所は越前にとってとても大切な聖地であるのでしょう。

参考文献
『勝山市史』
『勝山市石碑調査報告書「勝山市の石碑」』
『若越墓碑巡り』
『大野郡誌』
『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』

基本情報

最寄り駅えちぜん鉄道勝山駅からバスに乗り換え毛屋バス停で下車すぐ
自動車勝山ICから9分
駐車場なし

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