福井県越前市神山地区池の上にある恩沢池。
この池の成り立ちや歴史は水に苦労した神山地区ならでは。池の上には慶応の石碑や龍神の祠、鳥居などがある。この池の歴史と現地を見ていく。
地理
恩沢池がどこにあるのかというと、池の上の一番奥。集落から一段上に上がった高台に、溜池として存在しています。その池のまた向こうには龍神山があり、その山から龍神川が注いでいます。
ここは弥平蛇池で見た通り、龍神信仰がかなり厚い土地でいたるところに龍神が祀られ、この龍神山と龍神川もその内です。
中央が龍神山。その下の池の畔には鳥居があります。
そんな龍神川が恩沢池に流れ込み、その後池から砂防の滝のように流れ、ここから「沖田川」神という名前に変わり、山地区の水田へ注ぎます。
歴史
この恩沢池は見た目通り、人口の溜池です。
この池が出来た経緯はかつての池の上が、水に苦労していた歴史があります。
かつて西尾藩領だった池の上。東には山があり、平野部を流れる日野川の水を引くこともできなかった。なので、山の谷に数カ所池を掘って、雪水を貯めて夏の灌漑に備えていたが、狭い谷の水では数日の日照りが続いただけでも防ぎきれず、田は割れて苗は枯れた。旱期になると村人は寝食を忘れてで一滴の水を求め東奔西走し、租を免ぜられ、飢える者も多かったと云う。
このことから古老は文化五年(1808)秋に西尾藩に話し、藩は池の拡張を許可。藩の役人が事情を調査し、若干の水田は失うもののその分減税し、米を貰い、夫人足を命じて二つの池を一つにし、貯水量を倍にした。十数年間試したところ旱災を半ば防ぐことができたという。
村人はなお水不足に嘆き、天保元年(1830)再び藩へ申請し、藩から調査があり租税の若干の免除と米と銭を貰い、村長が監督して工事を始めた。村は藩の仁恵に感謝した。女子供も朝から晩まで働き、半年かけて幅が数十倍になり湖のようになった。それから四十余年旱災はなくなった。村民が飢えることもなくなった。
参考:『うるわしき神山』
元々は二つの池だったのですね。
これだけ大きな溜池になったのは、この地区の努力の結晶でできた物だったのです。
「恩沢」の名前の由来
以上のような池拡張と藩からの賜り物の歴史がありました。
これ皆藩の賜である。として、ここから「恩沢池(おんたくいけ)」とされ、「めぐみ」「なさけ」「おかげ」の池というようになったのです。
現地にも説明版があり由緒が書かれています。
「藩と官民協力の汗の結晶」とし、「恩澤之池」と名付けたとあります。
『うるわしき神山』にはこの歴史に続いて、こう書かれています。
このことを忘れてはならない。しかし干害にあえばその恩は骨身に浸みて忘れないであろうが、災害に遭わなければ、年が経てば忘れやすいものである。忘れないため、将来の者に告げるためこれを記すのである。これは我々村民の意志である。
引用:『うるわしき神山』
まさに、「恩」の歴史を忘れないために刻んだ名前だったのです。
石碑
今や鳥たちの住家となっているようで多くの鳥がいます。そんな恩沢池の中央部北側あたりに高台があります。鳥居などが見えますね。
急な階段ではありますが登れるようです。
そこは4つの石碑と、神の祀られる空間になっていました。
手前の物は昭和49年に建てられた石碑のようです。そのうち2つの石碑には細かい碑文が書かれています。碑文は2つともとほぼ同じ内容でした。昭和の物はもう一つの後ろにある古い時代の物を現代語に訳したもののようです。
では後ろの石碑はいつの物なのだというと、
慶應三年の物でした。「恩澤池」です。
横の碑文は細かいし古い言葉なのでよく読めませんでしたが、『うるわしき神山』にこの碑文に書かれている名前と同じ人が書いた文章が載っていました。
予聞いて嘆いて言う。古人は人を養う唯民の仁を知るのみである。故に川道を通し、谷を開いて田・桑畑とし、溝をふさいで干害を防ぐ。それは民の為、利を興す政に外ならない。これを以て下々はこれを愛おしみ、子孫は人を養う、唯税を知るだけである。これを持って一令を出し、一事を行うはただ国の利の為である。民政を知らなければ何をすべきかわからない。故に民の為利を興す政は厳しい。世は聞くなかれ、言うなかれ、民の不孝である。
西尾藩主についての人柄は知らないが、いかに患いを防ぎ、利を興す政をしたのか、江州の言うように、村民その徳を久しく忘れてしまうことを恐れる。文を欲するにより之を記した。すなわちその仁民の徳、事実を見れば、それを思うべし。夫々之をつなぐ詩に池上村、流泉ない所、堤池がない、干害の時には田は割れ、苗は枯れる、村人は飢えに苦しむ、藩主はこれを憐れみ、米を与え人足を授ければ、畚・鋤を取って堤池を造った。灌漑し田への水は不足なく、わが田園稲苗はほこり、秋には収穫物が倉に集まり感謝して拝する。誰の恩金石に刻んで子孫に知らせる。福井島剛の文
慶応三年八月十五日 応需竹堂書
引用:『うるわしき神山』
碑文の年月は「慶應二年九月六日」となっており、ずれがあるのですべての内容が同じというわけではないと思いますが、同じ「福井島剛」が書いた文で、書かれた年もそう変わらないことから、同じようなことが書いてあるのだろうと思われます。
池を見渡す祠
先ほどの碑文の後ろにはさらに階段があり、すぐに鳥居の場所にたどり着きます。
小さな祠が祀られているようです。
かなり古めかしい祠。昔からあるものでしょうが、ここにあるということはやはり龍神の祠なのでしょうか。その可能性は高いと思っています。
龍神山に在るという祠と屋根の形が同じです。正面の形は違いますが。
ヤマップなどを見ると龍神山には今も祠があるようなので、別物であることは間違いないです。
池を望む祠。
池の守り神か。
龍神山の鳥居
先ほど少し見ましたが、池の最奥には鳥居が立っています。
その鳥居は正面を池側にして、龍神山に向かって建っているのです。
扁額には「夜叉龍神」と書かれており、夜叉ヶ池の伝説と関係するのではないかと思います。実際弥平蛇池の伝説は夜叉ヶ池の伝説と関係しています。
龍神信仰にあふれた地区です。
水に苦労したという歴史を見ると、水を司る「龍神」という存在が、村人にとっていかに大切で重要視する存在だったかが想像できます。
その龍神信仰は今も続いています。
参考文献
『うるわしき神山』
基本情報
自動車 | 武生ICから14分 |
駐車場 | 路上、又は池ノ上スポーツ林道 |
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