池ノ上の弥平蛇池伝説と今も残る遺産 ~禅明院跡・龍の牙・小西家【越前市】

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池ノ上の弥平蛇池伝説と今も残る遺産 ~禅明院跡・龍の牙・小西家【越前

夜叉が池の龍神伝説に関わる話に福井県越前市神山地区池の上の弥平蛇池大蛇伝説があります。

今もこの伝説の舞台や遺物が現存しており、蛇池は現地に。遺物「龍の牙」は武生に。小西家跡ははっきりと残り、龍の牙を元所有していた禅明院跡も残っていました。

今回、禅明院・弥平蛇池について地元池の上の方の案内で取材させていただき、蛇池伝説を取り巻く地元で伝わる口伝や現代の諸事情などもお聞きしました。さらに龍泉寺さんでも伝説関連のお話や遺産を見聞させていただきましたので、その取材まとめとさせていただきます。

今回はこの弥平蛇池に関する現地・遺産・口伝を巡ります。

弥平蛇池の伝説

以前、武生の龍泉寺龍の牙御開帳の時に、この弥平蛇池について触れましたが、改めてこの場でも紹介します。

いつものように2つのパターンがあります。

パターン1

 池の上の谷口末吉氏の宅地にある。現在は直径二メートルばかりの沼池で、落葉で埋まっている。弥平の娘がこの池に入って蛇になったという。
 池の上の小西弥平という豪家が、ある年の大干ばつの時、「何人たるか問わず、雨を降らして庶民の難儀を救う者には、わが娘を与える」という高札を掲げた。すると夜叉丸という武士が現れ、高札の通りなら私が雨を降らすといい、弥平は相違ないことを誓約した。夜叉が去ると雨が降り、田畑はよみがえった。夜叉丸は約束として娘をもらいに来た。弥平の三女が自ら犠牲の名乗りを上げ、夜叉丸と共に家の裏にある池に入って、蛇となった。夜叉丸は夜叉ヶ池の大蛇だった。その後、娘と夜叉丸は夜叉ヶ池へ行った。しかし、すでに本妻である美濃の娘がいたので、弥平の娘との間に争いが生じた。
 弥平の娘は南杣山の関ケ鼻にて北陸道に蛇の姿で横たわった。唯一自分を飛び越えた加賀の武士がおり、娘は美しい女の姿になり「あなたの勇気を見込んで頼みたいことがある。池で争う蝶のうち腹の赤い蝶を射止めてほしい」と頼んだ。武士は断れず、鯖波の的場家で十数日練習した後、赤い腹の蝶を射止めた。
 それから山を上下するたびに娘は的場家で休むようになった。寝るときは一室に閉じこもり、寝姿は見るなといった。しかし女中がそっと見ると、蛇体になって寝ていた。それ以来娘は来なくなった。
 娘は毎年一度池の上の蛇池に帰った。この時的場を休憩所にした。娘はその都度鍵に鮭をかけてお礼をした。後に木の鍵を鉄の鍵に改めてからは鮭をかけることがなくなった。
 その後、池の上で火災があった。すると雄の大蛇が現れ、弥平の家を七たび巻いて防いだ。大蛇は首を伸ばして水を求めたが、人々は恐れて誰も水を与えなかった。そのため雄蛇は焼け死んだ。その骨を拾って宅地の西南に葬った。今でも禅明院には、そのときの蛇の牙という中指大の骨を蔵している。
 弥平の家は明治28年に北海道旭川へ移住した。
参考:『越前若狭の伝説』『神山村誌』

パターン2

 池の上の小西弥平が大干ばつの時、「雨を降らせたら娘を与える」という高札を掲げ、ある武士に自分の娘を与えることで雨を降らせるという誓約を交わした。雨が降り、弥平の三女が自ら犠牲の名乗りを上げ、武士と共に家の裏にある池に入って、蛇となった。あるとき池ノ上が火災に遭う。すると雄の大蛇が現れ、弥平の家を七たび巻いて防いだ。大蛇は首を伸ばして水を求めたが、人々は恐れて誰も水を与えなかった。そのため雄蛇は焼け死んだ。焼け死んだ蛇の牙は現今禅明院に預けてある。
 その後、雄蛇がいなくなったので、弥平の娘は夜叉ヶ池に移った。しかし夜叉ヶ池には既に美濃の娘がいた。この2匹は常に喧嘩をしていたので、雄龍は見かねて片方を制したいと思い、北陸道に大蛇の姿で横たわり、跳び越える勇気あるものを待っていた。すると加賀の武士が藩金を江戸へ届けるべく通りかかり、急いで居たので飛び越えた。雄龍は山伏となり、彼に「その勇気を見込んで頼みたいことがある。藩金は私が届ける。私の頼みを断ったならば汝の命を絶つ。夜叉ヶ池の雌龍2人が蝶となり争うので、腹の赤い蝶を射止めてほしい。」という。加賀武士は絶体絶命だが引き受け、的場で練習した後に赤い腹の蝶を射止めた。赤い腹の蝶は在来(美濃の娘)の雌蛇だった。
参考:『福井県の伝説』『越前若狭の伝説』『福井県南条郡誌』『神山村要覧』

 

この弥平蛇池の伝説ですが、現地でもその文字を目にすることができます。

現地弥平蛇池の看板

恩沢池の畔に池の上の名所の由来が書かれた看板があります。ここに「弥平蛇池」の文字があり、現地でもその伝説に思いを馳せることができます。

ただ今回はちゃんと蛇池を取材しました。

パターンの違いについて

伝説の内容へ戻ります。

この伝説の違いについては、[龍泉寺の新春祈祷法要 「龍の牙」御開帳と伝説【福井県越前市】 「龍の牙」の伝説由緒と考察]の伝説紹介の後に詳しく見ていますのでそちらを見ていただければと思います。

簡単に違いを書くと、

  1. 龍の牙は
    ・夜叉が池の龍のものか
    ・弥平蛇池の大蛇のものか
  2. 弥平の娘が龍神に嫁いで蛇になったのは
    ・夜叉が池の龍に嫁いだときか。
    ・弥平蛇池の主に嫁いだときか。

この違いです。

後になぜこの夜叉が池と弥平蛇池の違いが出てしまったのかその謎が解けるのですが、またこの記事の[地元の口伝とQ&A]の項に記します。

蝶を射止める話の違いについて

蝶を射止める話は、以前[夜叉が池]の記事を書いた際にも紹介しました。

元居た雌龍というのは、岐阜(美濃)の安八太夫の娘「夜叉姫」のことです。

南条の伝説では、「安八太夫の娘が射抜かれ、弥平の娘が夜叉が池の雌龍になった」という事になっていますが、もちろん美濃の方では今も夜叉姫(安八太夫の娘)は池に祀られ雨乞いの霊験もあると伝わっています。

ただここにも違いがあります。これについては以前追及していないのでここで書かせていただきます。

まずその話の大まかな流れです。

弥平の娘は蛇池の主が焼け死んだので夜叉が池に移ったが、そこには美濃の雌龍がいた。なので、毎日喧嘩ばかりしていた。なので、(※)は北陸道に大蛇の姿で横たわり、これを飛び越えた勇気ある加賀の武士に「赤い腹の蝶を射止めてほしい」と頼み、武士は的場という家で1週間練習し、約束の日にその赤い腹の蝶を射止めた。

という内容です。

さて、(※)のついたところが違いです。その違いとは蝶を射てもらおうと依頼するのが誰か。です。

伝説によっては

  • 雌龍同士の喧嘩に呆れた雄龍が頼んだ。
  • 弥平の雌龍が安八太夫の雌龍を消すために頼んだ。

という2パターンがあるのです。

これは先ほどみた

  1. 龍の牙は
    ・夜叉が池の龍のものか
    ・弥平蛇池の大蛇のものか
  2. 弥平の娘が嫁いで龍神に嫁いで蛇になったのは
    ・夜叉が池の龍に嫁いだときか。
    ・弥平蛇池の主に嫁いだときか。

のパターンの違いによって変わっていました。

もし先に夜叉が池の龍が焼け死んだのなら、夜叉が池の雄龍はもういないので、武士に依頼したのは弥平の娘
弥平蛇池の主が焼け死んだ後に夜叉が池に移動したなら、夜叉が池の雄龍は生きているので、武士に依頼したのは雄龍

ということです。

ただこれに関して、[龍泉寺の新春祈祷法要 「龍の牙」御開帳と伝説【福井県越前市】]でも述べましたが、最も地域密着であろう郷土史『神山村誌』は「弥平の娘が依頼した」ということになっています。この理由は、まさにその地域でしか伝わっていない口伝によるものが理由です。後に記します。

弥平蛇池の現在

今回、この伝説の池と関連する場所に取材に行きました。地元の方の案内で回りました。

というのも、今蛇池は宅地内にあるので、許可なしに写真撮りサイトに上げることはできません。なのでその許可について問い合わせたら案内してくださるという事になりました。
本当にありがとうございます。

そうあるのです。まだ蛇池は残っています。

弥平蛇池1

こちらです。宅地の隅に小さな池があります。これが今の弥平蛇池です。

現在この蛇池のある敷地に家を構える方は、もちろん小西という姓ではなく、伝説にある谷口という方でもなくなっているようで、近年越してきた方なのだそうです。(近年と言っても歴史的に見ればという意味なので年数的には相当在住歴はあると思います。)なので、伝説の深い事情はこの敷地の方はご存じないのだとか。

今の見た目は本当に庭の池という感じではありますが、案内してくださった方曰く、この地区ではここが蛇池だという認識は皆持っているとのことで、間違いなくここが蛇池です。長い年月の中で形は変わったのかもしれませんが、今でも「池」として現存するのはすばらしいことですね。

池の上地区は古来水に苦労した土地柄だという事です。

池の上の水の苦労は恩沢池の詳細記事で説明しています。

そんな水に苦労した村なので、この蛇池は池の上の人々にとって相当信仰され重宝された場所だったと想像できます。もしかすると、そういう経緯からこの伝説が生まれたのかもしれません。

龍の牙と禅明院の現在

龍の牙

さて、タイトルにもあるように、この弥平蛇池伝説については、池以外にもまだまだ遺産が現代まで伝わっています。その最たるものが、「龍の牙」でしょう。

現在は龍泉寺に保存されており、新春法要の時に御開帳されます。

龍の牙
龍泉寺所蔵『龍の牙』
許可を得て撮影しています。

立派な葵紋の厨子に入っています。

伝説にあったように、元々は弥平蛇池のある池の上にあった禅明院に保存されていました。

なぜその龍の牙が龍泉寺にやって来たかというと、色々深い話があるのですが、簡単に説明すると禅明院が10年ほど前の大雪で倒壊してしまい、再建されませんでした。それで禅明院の本山(本寺)である龍泉寺に寺宝などが移されて今に至っています。

ちなみにこの移動に関しては、もっと深い裏話があるので、それに関しては[龍泉寺の新春祈祷法要 「龍の牙」御開帳と伝説【福井県越前市】 「龍の牙」を取り巻く運命。通幻禅師と竜女救済伝説]の方で説明してあります。

禅明院跡

龍の牙が元々保存されていた禅明院

今はなくなってしまったと書きましたが、その跡地は今もしっかりと残っています。一部私有地内を横切るので、こちらも案内で行きます。

禅明院跡階段1

禅明院への道は2つありますが、その一つが私有地を横切るので、普段は行けません。それがこの石段の道です。(もう一つも石段ですが)

なかなか味のある石段なのです。

禅明院跡階段3

その石段を上がるとひらけた場所に出ます。

ここが禅明院のあった場所です。

ちなみに先ほどの弥平蛇池の目と鼻の先です。

禅明院跡4

まだこの場所には歴代住職の墓(卵塔)があり、禅明院在りし日の面影を残していました。

こちらの禅明院については、龍泉寺ご住職からもお話をお聞きしています。
先ほどの龍泉寺末寺であるという事を留意して…

龍泉寺からも、何人も禅明院へ住職として行っている。位牌は既に龍泉寺へ移されているが、お墓はまだ池の上にあり、お骨もまだ墓に入っている。

とのことです。

禅明院跡5

その横には、六地蔵と石仏、祠があります。

禅明院跡3

地蔵さまですかね。そして、苔むした祠。

さらに奥へ進みます。

禅明院跡6

するとさらに開けてきます。横の民家が見えるように、結構高い所に禅明院はあったのですね。

禅明院跡1

大きく開けた場所の奥に石碑が見えてきました。

という事でここに、「小西家が龍の牙を納めた」という禅明院があったのです。

禅明院石碑

曹洞宗 禪明院跡地

こうして石碑を残してくださっているというのは、私のような者からしたらとてもありがたいことなのです。

禅明院
曹洞宗龍泉寺末 池の上字大林寺敷にあり。
引用:『福井県南条郡誌』

禅明院 釈迦如来 本尊 由緒不詳
参考:『神山村誌』

池ノ上町には享保十七年(1732)正光空念庵主なる者が龍泉寺の呑海木舟和尚を開山として創立した禅明院という曹洞宗の寺院があったが平成18年に廃寺となった。
引用:『うるわしき神山』

呑海木舟和尚という方は、現在の武生龍泉寺輪住制(短期間で住職が入れ替わる)から現在の独住制(何か大事がないかぎりずっとその寺の住職を続ける)へ変わった後、龍泉寺独住制時代の2世住職を務めた和尚です。
参考:『龍泉寺ホームページ 龍泉寺の歴代住職一覧』
http://www.mitene.or.jp/~ryusenji/


正光空念という方は、どうやら南条郡生まれの廻国僧のようで、福井市東郷の普門寺と関係のある方だとか。南条郡生まれの方ならおそらくこの方で間違いないかと思うのですが・・・

とにかくそういった経緯で建てられたお寺だったようです。

禅明院石碑裏

石碑裏には「平成18年」の文字があり、郷土史の通りでした。

この禅明院がなぜ再建されなかったのかというと、禅明院は檀家制ではなく信徒でした。その信徒の家の数は当時15件ほどだったといいます。檀家とは違い信徒はお寺を経済的援助はしないので、そういう金銭的背景もあり禅明院の再建はされませんでした。

だからといって地区の人々から軽んじられているわけではないことは、この石碑を見れば一目瞭然です。大切だったからこそこうして石碑まで残したのでしょう。

 

帰りはルート2の道からでした。

禅明院跡階段4

こっちもまた趣ある石段です。

武生龍泉寺に残る禅明院の遺産

禅明院は無くなってしまいましたが、禅明院の遺産はまだ残っています。

その遺産とは建材や石仏です。

というのも、本山(本寺)の武生にある龍泉寺さんに禅明院のいろいろな物が残っているのです。
こちらでもまたご教示ご協力いただけました。本当にありがとうございます。

龍泉寺禅明院の建材2

龍泉寺さんの山門をくぐると、左手に石仏が祀られる堂があります。その手前に境界として置かれている木があります。見るとただの木ではなく、模様が彫られているのがわかります。これこそが禅明院の遺産、禅明院の建物に使われていた建材です。

龍泉寺禅明院の建材1

お堂奥にあるこれらも禅明院のものだったといいます。

先ほどのあの土地にこれらが建てられていたのですね。感慨深いです。

龍泉寺禅明院の地蔵

そのお堂に2体の石仏がいらっしゃるのですが、そのうちの左の仏さんが禅明院にいらした仏さんだと言います。龍泉寺のご住職も、この仏さんが禅明院に在りし日には、仏さんの前でお勤めをしてらしたといいます。

私は在りし日の禅明院はわかりませんが、先に訪れた禅明院跡とこのお話を聞いて、勝手ながら情景を浮かばせ浸らせていただきました。在りし日の光景を知らないが故か、なんともいえぬ穏やかで静かな心地よい風景が浮かびます。

 

さらに龍泉寺のお寺の中に保存されているものもあります。
それがこちら

龍泉寺禅明院欄間

禅明院にあった欄間だそうです。この造形、立派ですね。しかも本多家の紋まで付いています。龍泉寺は府中本多家の菩提寺なので、その末寺である禅明院にも本多家の紋が付けられたのでしょうか。

貴重な遺産です。

地元の口伝とQ&A

さてここからは、池の上の話に戻ります。

地元の方しか知らないであろう現代に伝わっている弥平蛇池伝説の絡んだお話を、池の上をご案内くださった方からお聞きしましたので、それをまとめていきます。

夜叉が池と弥平蛇池のつながり

先ほど、蛇池伝説の項で凄い勿体ぶって「後で説明します」といっていました。蛇池と夜叉ヶ池の主の違いについてです。

弥平の娘が嫁いだのはどっちか、焼け死んだのはどっちか。

この問題が全部吹っ飛んでしまう、地元の口伝をお聞きすることができました。

私は気になっていたことを質問しました。

問.
娘が嫁いだ先や焼け死んだ大蛇には2つパターンがある。現地池の上ではどちらのパターンで伝わっているのか。

解答.
池の上では夜叉ヶ池の大蛇と伝わっている。
ただ、地区の言い伝えでは夜叉ヶ池と弥平蛇池は地下で繋がっていると伝わっている。夜叉ヶ池の水位が上がれば蛇池の水位が下がり、夜叉ヶ池の水位が下がれば蛇池の水位が上がるともいわれている。あくまで伝説ではあるが…

まさかの蛇池の夜叉ヶ池が繋がっているという口伝があったのです。

弥平蛇池2

つまり、弥平蛇池の主」というのは「夜叉ヶ池の主」のことだったのです。

矛盾とか以前の問題に、そもそも同一人物だったのでした。

これは郷土史には書かれていない事でした。いやどこかには書かれているのかもしれませんが、私は見つけられませんでした。おそらく地区に伝わる口伝だと思っています。

この同一人物であるという認識でいくと、地域密着の『神山村誌』の伝説ではつじつまが合います。逆に行政や他研究者から出されている郷土史は矛盾ができます。この口伝のことを知らなかったために、2パターン目の別人説が出来たのかもしれません。

池の上区民と龍の牙

今の池の上の方と、龍の牙はどのくらい密接した関係にあるのか気になりました。なんせ元禅明院にあったというので・・・

問.
今の池の上の方は、龍の牙を頻繁に拝んでいたのか。今も信仰は続いているか。

解答.
一度も龍の牙は見たことがないし、拝みに行ったこともない。池の上のほとんどの人はそうなのではないかと思う。

今回案内くださった方は、後で説明しますが結構この蛇池の遺産についても、池の上地区についても重要な立ち位置の方です。その方がこうおっしゃっているという事は、意外と池の上の方では、龍の牙はそう気軽に拝めるものではなかったのかもしれません。

蛇池は自然池

少し、先ほどの蛇池を見て「天然でできた池か?」と思った方はいるのではないかと思います。

伝説でも「小西弥平邸の庭にあった池」とされており、今もそうですが元々も個人宅の庭園の池だったのです。もしかしたら昔庭園用に作られた池なのか?とも思いました。

問.
蛇池は天然の池なのか。

解答.
天然の池と思われる。

当然の回答といえばそうですが、私としてはこの言葉を現地の方から聞きたかったというだけです。

先ほど言った通り、池の上は水に苦労した土地なので、天然の池であったならば、どれだけ崇敬されたことか。そして水の象徴である龍神伝説が生まれるのも不思議ではないのです。

蛇池伝説の起源

上の続きですが、蛇池伝説が作られた要因として、「水の象徴である龍神伝説が作られた」という以外に何か元になった事件があるのではないか。案内くださった方はそう言う見解を持っていました。

重要なのは、

  • 干ばつ時、豪農の娘が身分不詳の相手に嫁いだ。
  • 豪農の家が火事に遭ったが、大蛇の助けで収まった。

この2点です。ここから考えられるのは…。なんでしょうか。
私はあくまで伝説の地を求めるだけなので、元になった伝説までは余り考えようとはしないので…。

ただ簡単に想像すると、
大蛇(山伏)というのがどこから過去の村に来た廻国者で、治水などを知っていて村を助け、後にそのお礼か政略結婚で豪農の娘が嫁いだのか。もしくは、奉行とか地頭とかといった土地を納める立場の人間に豪農の娘を嫁がせて村を治水してもらい救ってもらったのか。
火事については他地域ではあまり余談話として聞かないので、この地区で本当にあった火事なのかもしれない。ただそれを大蛇に守ってもらったと伝えることで、豪農小西家の権威をさらに強めるきっかけになった可能性もある。

なんて妄想してみました。

池の上の三大豪家

さて、上の項目で「豪農」と書きましたが、案内の方曰く、この池の上地区には3つの豪家があったと言います。

  • 小西家
  • 大西家
  • 前田家

この3つだそうです。

曰く、この三大豪家は地区に伝わる古い唄にも唄われているという事で、昔からの豪家だったようです。

ちなみにその豪家が密接して土地を持っていたようで、現在でもそれがわかると言います。

池の上豪家

それが禅明院からの景色。今写真内に写っている土地に、小西・大西・前田の家の土地だった場所が写っています。大体の位置も教えてくださいました。さすがに個人特定になりうるのでこの場で詳細は言えませんが…。ただし、今は2つ豪家の家は無く、1つが残っているとのことです。

それにしても、小西家のあった土地から蛇池までかなりの距離があるのです。まさか、この一帯が全部小西家の土地だったのか?と思ったら、案外そうだった可能性があります。

というのも、この小西家の伝説で出てくる人物「弥平」について、『神山村誌』によると、かつては池の上の3分の2以上の農地を所有していたというのです。

小西弥平氏(池ノ上の田地約三分の二は弥平氏の所有なりしと)は明治二十八年北海道旭川に移住せしが、氏が往昔豪家なりしは事実にして、郷士の待遇を受けし云う。明治維新に至るまで其の宅地は租税を免ぜられ邸内に制札を掲げたり(個人の邸内に制札を掲げしは本郷にて三四ヶ所なり)しか今伝わらず。
引用:『神山村誌』

ここに「小西弥平氏」と出ており、その人が明治に引っ越したという感じで書かれていますが、そうなると蛇池伝説は幕末なのか?なんて思ったりもします。そこら辺の時代背景は不明です。『神山村誌』が「小西家」というところを「小西弥平氏」といっているだけかもしれませんし。

いずれにしても、小西家は広大な土地を所有していたという事です。

 

そして大西家。初代は誰かわかりませんが、『神山村誌』に

大西西左衛門 文政五年一月十日に池の上へ来た
参考:『神山村誌』

と書かれているので、この方が初代?
「鉱」という文字が書かれていたので、こちらは豪農ではなく資源系で栄えたのかな?

 

さらに前田家に関しては『うるわしき神山』によると、加賀前田家のいつの時代かの三男坊の末裔というニュアンスのことが書かれていました。そして誌によると、

前田家の三男坊は暴れん坊だったため府中本多家に預けられ、後に本多家でも手が付けられず池の上に屋敷を与えてそこで暮らしてもらうようになったと。武士の子である為稽古には励んだ。そこには弓の練習場である「的場」もあった。
参考:『うるわしき神山』

ということです。

そう、つまりこの「的場」「加賀の武士」というのが、「夜叉ヶ池・弥平蛇池の蝶を射る伝説」の素材となったのではないか。という事なのですね。

 

なににしても、これらの豪家がこの池の上では権威をふるっていたのでしょう。

豪家小西家とその後

今回の蛇池伝説で最も関わった小西家。しかし伝説でも「弥平の家は明治28年に北海道へ移住した。」と書かれており、この地区には今は小西という家はありません

案内の方曰く、

今池の上に住んでいる人は小西と言う家の事は誰も知らない。

といっていました。

しかし、今回案内してくださった方、実はその小西家の墓守をされている方でした。池の上に伝説の小西家の墓が現存しているのです。

といってもさすがに墓を映すわけにはいかないので、その墓があるサンマイだけ撮りました。

池の上サンマイ

昔は一番上に火葬場があったのでしょうか。蓮台がありました。

今回はそんなことはいいとして、このサンマイ内に小西家の墓がありますありました。写真は撮ってませんが、他の墓とは形状が違い、古めかしい笏谷石なのですぐわかりました。歴代の当主?のはかもずらりと。

しかも堂々「小西家」と書かれていました。それは下からでもわかるほどです。

 

案内の方曰く、

昔は盆になると北海道から墓参りに来ていたが、ここ最近はもう来なくなった。

ということでした。

伝説に残るほどの豪家。もったいないと言えばもったいないですが、しかし、そうですね・・・。実家もないのに遠い福井まで墓参りに来るのも大変でしょうね・・・。

 

ちなみに余談ですが、北海道移住に関係する話としてはもう一つ、『うるわしき神山』に書かれていることがあります。

北海道開拓団
明治三十年(1897)、北海道への移民団体「池広団体」を組織し池ノ上・広瀬出身者四六名が敦賀港から北海道へ渡った。落ち着いた遠別での生活は苦労の連続であった。その苦労にもめげず未開地を拓き米作の北進に貢献した。平成九年(1997)の池広団体遠別入植百年記念事業を機に、毎年遠別町との交流が行われるようになった。
引用:『うるわしき神山』

小西家が移ったのは明治28年なので2年の差がありますし、旭川と遠別町という違いもあるので、直接的関係はないと思います。明治に入り北海道開拓も全国で行われていますから。

それでも同じ北海道へ移ったということで、何か豪農小西家をどこかで意識したこともあったのかと思ってしまいます。

北海道遠別町正法寺

今回この記事を見てくださった北海道遠別町にある正法寺のご住職から新たな情報提供をいただきましたのでここに記します。
誠にありがとうございます。

北海道遠別町正法寺は禅明院と深いつながりがあります。

正法寺を建立した住職が禅明院三十世住職天海祖明和尚なのです。

前の項にある明治三十年に北海道開拓のときに、開拓団と共に当時禅明院三十世住職天海祖明和尚が北海道に渡ったといいます。

今回情報提供をくださいました正法寺さんの記念誌によると、開拓団が北海道に渡る際、曹洞宗布教に努めて頂きたいとの請願に和尚が同意し、神山村、高瀬村、広瀬村46戸の広池団体の一員として、明治30年4月に敦賀港から佐渡丸に乗って北海道小樽港に着き、そこから北辰丸で初山別港、そこから徒歩で遠別に渡ったそうです。
正法寺は最初、現在地とは違う場所に曹洞宗仮説教所として建てられ、明治41年に遠別本町に移り、大正6年に遠別山正法寺として留萌支庁へ申請同年7月に認可、後に乗雲山正法寺に山号を変更。

正法寺を建立した天海祖明和尚は正法寺三世
正法寺一世二世に天海祖明和尚の御恩のあるお二方の名を借り、

一世に開山として正法寺本寺の苫前町晃徳寺住職禅之活音大和尚
二世天海祖明和尚の本師禅明院二十九世天外智見大和尚。を置かれ、
三世正法寺を建立した禅明院三十世住職天海祖明和尚がおられる。

ということになっています。

正法寺の二世と三世が禅明院の住職となっているということです。

このように見ても、いかに北海道遠別町正法寺さんと福井県の禅明院との関係が深いかがうかがえます。遠い地でありながらつながりを持てる歴史です。

その後、天海祖明大和尚は昭和5年6月遷化。

現在のご住職は七世にあたります。

禅明院がなくなったとしても、禅明院の住職だった方が北海道にお寺を建て今も続いて行っている。そして禅明院の本寺には龍泉寺がある。禅明院はなくなったからといって終わってはいないのです。

龍神信仰は続く

蛇池は娘を嫁がせることでの雨乞い伝説、龍神伝説の地でもありますが、この池の上には今も龍神を祀っているのです。

それが龍神山です。

夜叉龍神

現在、恩沢池の一番奥に「夜叉龍神」と書かれた扁額を掲げた鳥居が立っています。そして向こうに見える山が、その龍神を祀っている龍神山です。

『うるわしき神山』によると、昔から日照りが続くと山に登り雨乞いをしたとされ、今でも農作業が始まる4月25日に龍神祭が行われるとのことです。旱での雨乞いは直近だと昭和42年に行ったそうです。
さらに案内の方曰く、自衛隊の護衛艦加賀の進水式の際にも、山の龍神にお参りに来たと言います。

それほど厚く信仰されている龍神の土地なのですね。

この地にとって、龍神とはかなり重要な立ち位置にあるようです。

弥平蛇池伝説は今も残る

伝説・遺産・口伝の多くを見てきました。

この弥平蛇池伝説にはこれだけ多くのものが伝え残っているのです。これは誰かにとって重要であり大切にされているというのが大きいと思います。誰か、それをまもってくれている人がいるから残っている。

龍神伝説とは、日本にとっては神仏両方の世界で重要な役割を持っています。今回の蛇池伝説は、民間の言い伝えだけでなく、その信仰的な部分でも大きな影響があった故に、ここまで多くの遺産が残り、事細かく伝えられてきたのかなと思います。

そう考えると、伝説や民話を伝える上では民間の伝統とか言い伝え以外にも、宗教・信仰の力を借りて(もしくは信仰が大本の場合もあり)、民話伝説を伝えていくことが、日本の在り方なのだなぁと思うのでした。(世界共通かもしれませんが。)

取材協力・情報
『神山地区自治振興会』
『龍泉寺』
『北海道遠別町 正法寺』

参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
『福井県南条郡誌』
『神山村要覧』
『うるわしき神山』
『神山村誌』

基本情報

弥平蛇池・禅明院共に場所は公表されておらず、書いた通り私有地内ですので、地図は池の上恩沢会館の住所で載せておきます。

武生ICから自動車で10分。

マップへ

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