足羽山山頂の継体天皇像はどこを向いているのか【福井市】

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福井県福井市の福井駅近くに「足羽山」があります。その山頂には、「継体天皇像」があります。

しかし、なぜか広場とは逆の方向を向いています。

今回はこの理由が凄く気になって、その理由がなんとも素晴らしいもので、今までの記事にもつながる理由だったので、それも含めて、この継体天皇像のことを記事にしようと思いました。

継体天皇像を見てみる

とりあえず、顔見に行きます。


足羽山継体天皇像

足羽山山頂、福井市自然史博物館前の丘の上に大きな継体天皇像があります。

この像は笏谷石でできている石像です。

その笏谷石の由来も、この継体天皇の伝説がもとになっているのです。

 

石像ではあるのですが、こう、なんか、意識があるように見えてしまうのです。なんかこう威圧感というか。(顔が大きいからかな)

とにかく大きくて、ガタイがいいです。

 

さて、継体天皇は福井に深く関わりのある人物です。

今回はこの像についてと、継体天皇について調べてみようと思います。

継体天皇の伝説

福井の継体天皇について、伝説と旧跡

まず継体天皇について知るために、伝説を見て行きます。
継体天皇の伝説は福井県に多く残っています。

坂井市にはその遺跡が多く、また越前市の味真野には有名な能の『花筐』の聖地があり、その北には「花筐公園」という花筐と継体天皇ゆかりの地があり、花筐の物語の季節である春の桜と秋の紅葉の名所ともなっています。秋の紅葉の「花筐公園」に訪問したので、その記事もあります。

『花筐』は上村松園の絵にも描かれるほど有名な物語です。
花筐関連の記事があります。

また本サイトでは継体天皇の旧跡や伝説関係の話や旧跡をいくつも取り上げています。

そんな継体天皇の伝説の一つがここ足羽山にもあります。

それが、有名な福井坂井平野の治水伝説です。

継体天皇の治水伝説

 大昔越前平野は一面水がたまっていました。これは悪竜の仕業として、男大迹の王(継体天皇)は、その悪竜を退治し水を治めるために、足羽山へ登り、海に向かってかぶら矢を射ました。矢は水の上をぐるぐる回っていたが、やがて海の方へ飛んでいきました。すると矢とともに水が海の方へ退いた。矢は三回海まで往復してもどって来ると、地上に落下して突き立ちました。その場所が立矢(たちや)町(足羽一丁目)という町名となっています。またそのとき王が手にしていたしゃくを捨てた所が笏谷でと言い、笏谷石の由来ともなっています。

参考:『越前若狭の伝説』

このほかにも、冷水を求めて笏を打ったり、3回矢を放ったという伝説もありました。

どちらにせよ、この足羽山から矢を射ったのですね。

だからここに継体天皇像が建てられているのでしょうか。

この治水伝説は、越前町江波にも関わりがあるようです。この江波に伝わる竜典長者の伝説もまた、治水事業から派生した物語です。

なにやら、人と竜の結婚という伝説らしいテーマとなっています。

その他、この治水事業が行われる前の伝説も福井市に伝わっています。その伝説は今も、地名として名残を残しています。それが福井市川合鷲塚であり、その伝説を伝えるのが鷲塚神社です。

未だに福井平野には多くの治水伝説に関する話が伝わっているのです。

継体天皇像の見ている方向は…

さて、本題の継体天皇像の見ている方向ですが、ここでついにその意味が明らかになります。

像の前には、笏谷石に彫られた説明板がありました。

治水と笏谷石の採石の徳で建立されたそうです。

 

また、石像の向きについても書かれており、

石像の向きは之亦天皇が治水に際して水門を開かれしと伝えられる北北西の三国港を遥かに望んでいる。

と書かれています。

そう、この継体天皇像は三国の方を向いていたんです。

確かに見えます、三国が。

 

継体天皇は三国とも縁が深いのです。

出生地が三国とされる説までありますからね。

以前別の記事で書きましたが、ここまでつながって来るとは。

石像の概要

さて、石像の向きの謎は解けたとして、もう少し詳しく見ていきましょう。

 像は高さ一丈四尺、台石高さ一丈二尺、福井の石工亡山内甚四郎が同業者と明治十七年足羽山山頂に建てました。明治四十二年に、東宮行啓の際に修理、御座所を新築しました。
 大正二年福井市長より石像建立の際一千円を寄付した山内甚四郎氏の子孫に表彰状が授与されました。

参考:『福井市史 稿本. 下 昭和16年』

当時の表彰状の内容も一緒に載っています。その一部に当時の事情が書かれています。しかし、昔の記述なので、とてもじゃないですが、わかりにくいです。

簡単に説明すると、経営が苦しくてお金の問題に悩まされていたようです。

そんな中でもこの事業を貫いて今に伝えているわけですね。

像横の「偉蹟記念碑」の内容

偉蹟記念碑

継体天皇像の横にある、また上写真の漢字だらけの石碑。偉蹟記念碑というようですが、この「偉蹟記念碑」という題字は松平春嶽が書いたものだと伝わっています。

昔の書き方でなんて書いてあるかはっきりとはわかりませんが、この石碑の中に

治水、日野足羽黒龍川、三国港、足羽山、冷水不得、皇朝第二十六世継体天皇

など書いてあったので、継体天皇についてのことが一通り書かれているのだと思います。

街から慕われ続けた継体天皇像

町から大切にされてきた継体天皇像も、昭和二十三年に福井大地震で倒壊しました。

その後、昭和二十七年修理・再建され今に至ります。

再建早いですね。それほどこの街にとって大切なものだったのでしょう。

明治時代の物はどうだったんでしょうね。郷土資料の『足羽山の今昔』に絵が描かれていたので、この資料で昔の姿を垣間見ることができます。

今も三国を望んで、町を見ている継体天皇。

三国を展望

これからも見守り続けていくのでしょう。

参考文献:『越前若狭の伝説』『福井市史 稿本. 下』他由緒書き

継体天皇と三国花火を見る!

2023年8月11日金曜日。

私は以上の伝説を思い出し、足羽山へ赴くと、継体天皇像から三国花火が見えたのでした。

継体天皇と三国花火を見る

継体天皇は三国花火も毎年見ていたということです。

今年は継体天皇と一緒に花火を見ることができました。

基本情報

アクセスは、最寄り駅福井鉄道足羽山公園口から歩いて17分。自然史博物館の前にあります。

駐車場は足羽神社周辺に二ヶ所ほどあります。

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