福井県福井市。ここに有名な武将の塚があると言われています。
※最後「追記」しました。
「真田幸村の首塚」の言い伝え
孝顕寺の墓所に真田幸村の首塚というのがある。その墓碑には「大機院眞覺英性大禪定門西尾建之」と書いてある。
(↓略)
由来は、大坂の役の時に西尾久作が真田幸村を討ち取り、敵の首十三も獲った。その首級を携え帰国し、地蔵尊を建て、供養したのが孝顕寺内に残っている首塚であるという。
(↑略 ※後に大坂の陣の状況を詳しく見ていきます。)
ここの地蔵尊はいつのころからか首が落ちて台の上に乗っている。若しこの首を元の位置に載せるとその人はきっと熱病に悩まされる。これは幸村の霊が祟るのであろうと言われている。又こんな話もある。この首塚は幸村の鎧の袖だけを埋んだところで、首は眞田一族のために奪われることを心配して福井の某所に埋葬して一子相伝の秘密になっていると。
引用:『福井県の伝説』
今回はこの伝説についてみていこうと思います。唐突でしたね。でも最初に伝説書いた方がいいと思いまして。
さあ、伝説にもある通り、この福井にはかの有名な武将真田幸村の塚があると言います。
首塚はどこにあるかわからないと公言されているので、それを探すのは不可能でしょう。しかし、少しの手掛かりというか推測はできるのかもしれませんし、福井県にこういったものがあり、こういった歴史があったという事を伝えることに意味があるでしょう。
なので今回、塚のあった孝顕寺さんや福井市郷土歴史博物館さんからご教示いただいたことや実際見てきたこと、郷土資料に書かれていることなどを参考に、福井と真田幸村の関係だったり、供養だったり、この伝説を取り巻く現在の状況だったりを見ていきます。
西尾久作(宗次)
まずこの話を始めるにあたって、この西尾久作という人物は欠かせません。
伝説でもあった通り、この人が真田幸村を討ち取ったとされるからです。
まずこの人のことを見ていきます。
西尾仁左衛門
名は宗次、初名は久作、仁左衛門と称す、福井藩士なりもとは相模の人、遠州高天神の役、横田甚右衛門に属して戦功あり、藩祖秀康公七百石を以て宗次を召し出さる、時に文禄二年なり、公に従い越前北庄に住し、鳥銃頭たり、忠直公の時、大坂夏陣に従いて出陣し、献首を取ること十三級~
引用:『越前人物志 上』1910年
福井藩主1代秀康公に召し出された人物という事で、大坂の陣で家康や他の人達にいろいろ言われていますが、それなりに腕の立つ人だったのかもしれません。
文禄2年に秀康に仕えだしたという事は、秀康がまだ結城の方にいた時点から使えていたという事ですね。関ヶ原の後慶長六年に秀康と共に越前へ入りました。
寛永十二年に中卒。
大坂夏の陣
出来事の概要
ではここから本格的に幸村に触れていきます。
この首塚を語るにあたって重要な、大坂夏の陣の真田幸村と西尾久作を取り巻く話の流れです。
元和元年三月の七日大阪夏の役に越前兵は徳川家康の指揮に従い、左先鋒となって天王寺口に討ってかかった。相手は有名な軍師真田幸村の大軍。茶臼山を擁して戦っていた。越前方は本多成重、吉田修理、萩田主馬等が左右から突進、さすがの幸村軍も追い立てられ敗走。すかさず越前は追撃し、幸村軍のほとんどを潰滅したが、主将幸村が行方不明となった。当の幸村は馬から下りて休んでいた。久作はそれを見つけたが、最初それを幸村だとは知らずこの武者に挑みかかり、首級を挙げた。久作はこの戦で十三も首を取った。首実検の時、前歯が欠けていたことからそれが幸村の首とわかり、金帛と刀一振を賜って戦功を賞せられた。
参考:『福井県の伝説』
とても簡単にまとめられたのがこの内容です。
しかし他の郷土史には、少しニュアンスの違ったものや、もっと細かく当時の様子を語ったものが書かれています。
幸村の最期と後の西尾久作の動向を見ていきます。
幸村の最期
大坂方の将真田幸村は戦い疲れ、既に討死と覚悟していた。ちょうどそこへ宗次が来て十文字槍立て幸村を組伏そうとすると、幸村は急にこれを止め、遺言を託した後、首を打った。
参考:『越前人物志』
とあります。この書の中にはさらに詳しく書かれているところがあります。
幸村は戦い疲れ果てていた。味方の武将も次々と敗北し討ち取られる。自分もこの場所で討ち死にすべとかとも思ったが、ここで討ち死にしたとして、地家に首をあたえるのは嘸かし本意でなく、又乱軍の中に討ち死にするのも誠に残念であると思い、堺海道の方へ軍をすすめ、その広場で華々しく生害すべきとし、急いで進んだ。越前の大軍はこれを追撃、本田飛騨守も追撃。兵は徐々に減り、付き添いの者も神妙になる。幸村は自分の城に帰って最期を迎えようと思ったが、城が焼けた場合、自分の首もわからなくなるだろう。それくらいなら陣の頭に立ち、明らかに討死し、東軍に首を渡そうと思い、幸村はその場で名乗り上げ「武運盡て此陣頭に首を授ぐ、立寄て高名とせよ」と発した。陣を正面に受け、皆討ち取らんと八方より迫る。幸村は眠るように向きもせず動かない。時に西尾久作が十文字槍で突落す。この時、幸村が遺言を残す。
「頼置一条あり、ここに載せる冑を真田大内に、腰の刀を同河内守に送り賜るべし。またこの采配は秀頼公より拝領の太閤伝来の麾なれば首に添えて高名したまえとて、眼を閉じ威儀を乱さず討れける」西尾は領諾し首を打った。
参考:『越前人物志』内掲載『慶元闘戦記』
なんだか伝説や一般に知られる状況と違いますね。
一般的に、他の所やこの『越前人物志』内でも幸村は疲れて休んでいたところを討ち取られたとありますし・・・。
しかしもう一つ掲載されています。
幸村は最後と思い、馬を降り床に休んでいた。そこへ越前少将の西尾仁左衛門が槍を引っ提げて現れた。幸村はこれを見てにっこり笑い、「貴殿見事な振舞なるぞ」といい、名乗り上げた後、戦うべきにあらずとしたうえで遺言を託す。
参考:『越前人物志』内掲載『慶元通鑑』
これまた明らかに、『慶元闘戦記』とは違いますね。これが幸村の謎ですか。
首実検の話
『福井藩史話』によると、首実検の前にまず、上田城開城以降から越前に召し抱えられていた真田の四十八士(越前真田家?)に真偽を確かめたと言います。彼らは旧家に礼儀を尽くした後に、幸村の首は首実検持って行かれました。
家康は幸村の首を見る。真田を討った者には大きな褒美があった。西尾は討った時の状況を事細かく説明した。自分も手を負ってようやく討ち取ったのだと。これを聞いて家康は機嫌を悪くした。
参考:『福井藩史話』内掲載『慶長見聞記』
これがいわゆる久作が話を誇張して家康を怒らせた話ですね。
家康は幸村が戦っていないのを知っていたから機嫌を悪くしたのでしょうかね。
幸村の最期に関しては様々な言い伝えがありますが、たしかに幸村が抵抗し戦ったという話は聞きませんから、この誇張の話は本当なのかも。それにあまりにも細かく説明したのが裏目に出たんでしょうか。今の時代も変わらないような気がします。
首実検以降も話はそれぞれです。
西尾は幸村の遺言通り、采配を添えて首実検へ行った。皆不審がり、首桶もなかなか開けられなかった。しかし、首実検で歯が欠けていることで証明された。
参考:『越前人物志』内掲載『慶元闘戦記』
西尾は高名の次第を報告。忠直は西尾の武運を誉め褒美をあたえた。
参考:『越前人物志』内掲載『慶元通鑑』
首実検の時、同じ藩士野本右近もいて、彼は御宿勘兵衛正倫(政友)を討ち取っていた。正倫が休んでいるところを通りかかり、呼び止め、首をあたえてくれたと報告した。久作は働きを報告した。
「野本はありのままの報告だろう。だが西尾は、真田ほどの者が西尾に名乗り上げ勝負などしないだろう」と笑われたという。しかし褒美は与えられた。
参考:『越前人物志』
一説に、野本に褒美を与えたので、西尾の方にも仕方なく褒美を与えたみたいな話もありますね。
なににしてもやはり、現代の教訓にもなるような話ではあります。
そしてこの『越前人物志』には重要な一文がありました。
幸村所用の品(采配・兜・長刀)
その重要な一文とは…
其後を嗣ぐ當時の甲冑幸村の采配等西尾家に蔵ず
引用:『越前人物志』
という内容です。
幸村の采配があるそうです。もちろん西尾家は現在では全くの個人なので、調べようがないですが、幸村の首を添えた采配があるという事がこういった郷土誌に伝わっているのです。
と思ったのですが、思い出したのです。数年前、展示やっていなかったか?と。
調べるとありました。
数年前。福井市郷土歴史博物館の特別展「大坂の陣と越前勢」で展示されました。
そう、実はこの「幸村の采配」。現在も伝わっています。そして今は福井市郷土歴史博物館所蔵だそうです。つまり、これは越前人物志にある通り、福井に持ち帰っていたのです。
現在でも、「大坂の陣と越前勢 – 福井市立郷土歴史博物館」とWEB検索をかけると、おそらく1番目に数年前の特別展のページが出てきて、写真で見ることができます。
越前人物志は信用できる資料のようです。しかし、その書に首のことは書かれていませんでした。
これほど信用できる書に、首塚のことが、首を持ち帰ったことすらも書かれていないなんて・・・。
大坂の陣後の幸村の供養
さらに西尾自身がした、幸村への供養についても書かれていることがあります。
西尾氏の祖先西尾仁左衛門は、越前少将秀康の臣にて、大坂の陣に真田幸村の首を討ち取り、供養の為此地蔵尊を建立せしとの伝説なり。
引用:『若越墓碑めぐり』
西尾久作も幸村をしっかり供養していたのですね。
ここら辺は、福井以外にはあまり伝わっていない伝説かもしれません。
そして、ここには首についても書かれていました。
幸村の首は眞田一族の窃取せられんことを恐れ、福井の某所に埋葬し、一子相伝秘しありという。(掃苔記・西尾氏文書)
引用:『若越墓碑めぐり』
これもまた西尾家文書でした。
これらの文献には、今回のメインである「真田幸村の首」について、『西尾家文書』以外の首実検以降の話が一切書かれていませんでした。
今回の伝説のように、本当に福井に首を持って帰って来たなら、埋めた場所がわからなくてもその経緯や「福井に持って帰った」みたいなことが少しは書かれていてもいいと思うのですが・・・
とにかく、この幸村の塚、供養がなされたという孝顕寺についてみてみることにしましょう。
孝顕寺
なぜ孝顕寺に幸村の塚あったのか
幸村の塚が建立された理由はわかりましたが、なぜ孝顕寺だったのか。まずそれを見ていきます。
孝顕寺さんはかつて藩主の菩提寺でした。後、運正寺に改葬されました。藩主の菩提寺だから有名な幸村の塚を築いたのでしょうか?
いいえ違います。西尾久作、西尾家の菩提寺だから幸村の塚が築かれたのです。
ちなみに孝顕寺には現在も西尾久作と奥さんの墓があります。ひときわ大きく、目立つ2基の五輪塔。一つは物凄い大きく、一つは少し小さめですがそれでも普通よりは大きい五輪塔。
お話によると、奥さんの五輪塔の方が大きいのだそうです。
これはまた今後、孝顕寺の記事で別にみて行こうと思っています。
ただ、藩主と幸村を討った西尾の菩提寺が一緒というのは、この幸村の首塚を考えるにあたって少し紛らわしかったです。しかし、これにはちゃんとした訳があるのです。
簡単にですが孝顕寺さんについてみていきます。
孝顕寺について
足羽山の麓に孝顕寺さんはあります。
この孝顕寺さん、他にもいろいろ話があるので、また別に詳しく見ていこうとは思いますが、今回関係者の方にお話をお聞きすることができ、そのお話によると、
孝顕寺もまた元は結城市にあった
と言います。
結城秀康公と共に越前へやってきたのです。それはつまり、先ほどの西尾久作について見た話を思い出してみると、孝顕寺も西尾久作と共にやってきたことにもなります。
つまり、先ほど西尾家の菩提寺と言いましたが、共に越前にやってきたことが、藩主菩提寺であり、西尾家菩提寺であることに関係しているのでしょう。
だからここに幸村の塚が築かれた。最も適切な土地だったのですね。
幸村の塚はどこにあったのか
さて、この孝顕寺のどこに幸村の塚があったのか。これについては、お寺の方も他の記事などでも、その跡地すらも現在ではわからないという事です。
それもそのはずで、この孝顕寺の取り巻く環境がだいぶ変わっています。『足羽山の今昔』という本に明治四十二年の写真がありますが、今とは様子が全く違い、門が二つあって本当に屋敷みたいな様子です。
今は鉄筋コンクリートに変わっていますが、孝顕寺だけがそのようになったわけではありません。この一帯のお寺は皆こうなっています。
福井空襲の圏内であり、福井地震の被災地だからです。
さらに孝顕寺前の大通りも昔はなく、地図を見る限り、今トンネルの東あたりから現在の境内まで一帯が元の境内だったようです。
『若越墓碑めぐり』という1932年の本があります。そこには
寺の左の墓地にあり
と書かれています。しかも、おそらく孝顕寺にあったときの写真まで掲載されていました。
寺の左って、昔の空撮の向きを見る限りでは・・・、今の道や駐車場があるあたり・・・?
つまり、もしかすると、いまトンネルの道路として整備された道路の場所に塚があった可能性まで出てくるのです。
これは・・・、きつい・・・。
これは、「お寺の右」の間違いであることを祈るしかないのです。それか、お寺から見て左とか。
ちなみに現在の墓地はお寺の後ろにあります。
度重なる災害のため、もはやこの塚がどこにあったかというのがわからなくなってしまったという事なのでしょう。もし、現在の墓地が昔から変わっていないのであれば、そこに真田幸村の塚があったのではないでしょうか。
しかしながらこの孝顕寺さんにあるのはあくまで、「鎧袖の塚」であって、「首塚」ではありません。
お寺の方もはっきりと、「首塚はここにはない」とおっしゃっていました。
この孝顕寺にあったのは、鎧袖の塚に置かれた「真田地蔵」という地蔵さんです。この地蔵さんで真田幸村の供養を行なっていました。
真田地蔵
真田地蔵について
伝説にある通り、「大機院眞覺英性大禪定門西尾建之」の文字が彫られています。背面に書いてある言葉は、『若越墓碑めぐり』によると
歿年元和元寅年三月初七日と法名と西尾氏立之と刻しあり。
引用:『若越墓碑めぐり』
とかかれているそうです。
またこれを首塚とすることに対しても
地蔵尊は幸村の鎧袖を埋葬せしものにして、俗に首塚というのは訛傳なり。
引用:『若越墓碑めぐり』
と書かれており、さらに実際に孝顕寺さんでお話を伺った際にも
首塚はここにはなくて、地蔵さんがあった。
という事をおっしゃっていたので、孝顕寺さん内でも「首塚はここにない」というご認識でした。
真田幸村鎧袖塚碑
今はもうないようですが、昔真田地蔵が孝顕寺にあったころ、その地蔵尊のかたわらに碑があったようです。これは『若越墓碑めぐり』のみに書かれていたものでした。
それによると、
西尾氏の当主西尾仁志は建碑の目的にて、往年福井の富田鷗波に撰文を依頼す。
引用:『若越墓碑めぐり』
ということで、西尾久作が建てたわけでなく、その後の西尾家の方が建てたようです。
ちなみに福井市立郷土歴史博物館の説明によると、この「富田鷗波」という人は、藩校明道館教授・明新中学校校長だった人のようです。
碑の写真は載っていませんでしたが、内容はこんな感じ↓
書かれている内容を漢文ツールを使って、その内容のまま書き写してみました。
見た感じ、ここにも幸村の首のことは書かれておらず、伝説で見た通り「鎧袖が埋めてある」という事でした。
また、幸村追撃の話や前将軍(家康)に褒められたという風な内容も見受けられます。
先の資料で「家康が機嫌悪くした」とか「笑われた」とかはもちろん書かれていませんね。
ここに書かれている幸村最後の状況は、「幸村が馬から下りて息をついていたところを討ち取った」としています。
碑文には「冥福を祈る」とあり、久作以降の代でも幸村の供養は行っていたようですね。
伝説にあった話(首直す)
伝説にあった、「地蔵の首を直すと病になる」というのは、『若越墓碑めぐり』にも書かれています。
地蔵尊の首古来落ちて台上にあり、人若し之を載すれば熱病に罹るという。
引用:『若越墓碑めぐり』
結構昔からそんな状況だったのですね。
やはり有名武将に対する恐れなのでしょうか。
しかし、先ほどの写真を見ると、どうやら現在は修復されて首はつながっているようです。今もこの真田地蔵は直で見ることができますが、たしかに首のところを埋めてつなげたようにも見えます。
ちなみに修復の際には、誰も病気にはなっていないとか。
真田地蔵の現在
さて、現在も直で見ることができると書きましたが、いったいどこにあるのか。
福井市立郷土歴史博物館にあります。
采配と同じです。
しかも真田地蔵に関しては、私が行った際には常設展示です。写真撮影までOKでした。すごいね・・・。
そこにも簡単な説明がされているので、ぜひ見てみるといいと思います。
真田幸村の首はどこにあるか
さて、長々と見てきましたが、これが私の調べた結果のすべてです。
結局のところ、真田幸村の首についてはわからず。というか本当にあるのかすら怪しいです。
福井市立郷土歴史博物館に問い合わせましたが、『若越墓碑めぐり』に書かれていることが今のところすべてであるという事で、結局本当の首塚については、謎のまま。
先ほども言った通り、『越前人物志』や『福井藩史話』には、首実検以降についての首のことは一切書かれていません。
『若越墓碑めぐり』と『福井県の伝説』には載っていますが、この2つは西尾家文書をそのまま伝えています。
その他、『新訂越前国名跡考』や『帰雁記』、『福井の地名』など見てみましたが、首塚どころか真田地蔵についても一切の記述無し。(それとも福井の町中以外の所に載っていたりするのかな?)
おまけに、福井市立郷土歴史博物館さんによると、当の『西尾家文書』すらも行方不明らしいです。
まとめてみると、今回の真田幸村の首塚の件で、西尾宗次が幸村を討ち取ったとは書かれていましたので、様々な所で見るとおりこれは事実だと思うのです。しかし、首塚については思いつくだけ郷土史を調べましたが、どこにも載っておらず。ただ一つ、「幸村の采配」が西尾家に伝わっているという事だけ書かれており、孝顕寺さんや歴史博物館で見た通り、真田地蔵として実際に供養されていたという事は確か。しかしやはり、首塚については博物館でもお寺でもわからない。
そこで思ったのですが、実際の所、幸村の首は福井に持ってきたのでしょうか。先ほども少し言いましたが、たとえ首を埋めた場所が西尾家の秘伝であったとしても、福井に首を持ってきたかどうかは書かれていてもいいはずです。それすらも西尾文書以外どこにも書かれていないのは不自然だと思うのです(私が知らない資料に書かれているかもしれませんが・・・)。さらに今の時代でも秘伝というのは、なにやら不自然。
私が思うに、この幸村の首。そもそも本当に福井にあるのかというところから怪しいです。孝顕寺にかつてあった碑文にも「幸村の鎧袖を埋めた」としか書かれておらず、首のことは一切記述無し。
おまけにその西尾家文書すら行方不明。「西尾家文書に幸村の首を埋めたという事が書かれている」という事自体が伝説なのではないかと思わせる状況です。
西尾家に伝わる文書を疑っているわけではないです。しかし私はやはりこの首を某所に埋めたというはあくまで伝説として、史実ではないのではないかと思うのです。
西尾家の方々は今もいらっしゃるとは思いますが、その方々さえも本当の首塚の在処を知ってらっしゃるのかとても気になります。
真田幸村の供養は・・・
かつて、孝顕寺さんでは真田地蔵で供養をされていました。
現在では、孝顕寺さんではそういった供養をしているわけではないと言います。
もしかすると、西尾家の方々、越前真田家の方々が現在でも独自に供養をおこなっている可能性もあります。しかし時代の流れと共にそういった供養の伝承が薄れていくのは仕方のない事でもあります。県内の伝説についての供養も、既に行われていないという所がちらほらあります。この幸村の供養もまた、現代では薄れて行っているのかもしれません。
ただ間違いなく、孝顕寺の真田地蔵にて、幸村の供養は欠かさずされていたようです。それはやはり、藩菩提寺だからではなく、西尾家の菩提寺だから。西尾久作がちゃんと弔ったんじゃないかと思います。
松平忠直は、幸村の首よりも越前藩が大坂城に一番乗りした事を重視しており、幸村を討ち取ったことはそこまで気にしてない様子。藩で弔うことはされず、西尾家(と孝顕寺)のみで、伝わったのでしょう。それはある意味、西尾家と孝顕寺がそれほど幸村の供養を重く見ていた証かもしれません。
それが今こうした伝説として残っているのでしょうか。
※追記
1回目
福井市郷土歴史博物館の特別展「大坂の陣と越前勢」について、たまたま家を掃除していたら、当時の特別展に関しての展示物説明書が見つかりました。
そこには、
- 六十二間小星兜 伝真田信繁所要 井伊美術館寄託
- 薙刀無名 伝真田信繁所要 越葵文庫
- 采配 伝真田信繁所要 越葵文庫
- 石造 地蔵菩薩立像 通称「真田地蔵」 当館蔵
についての説明が書かれており、注目すべきことに以下の内容が書かれていました。
薙刀は西尾久作の子孫の家に伝わったものとし、後に松平家に献上されて伝えられたそう。
采配は幸村の血らしきものが付いているそう。
「鎧袖の碑」についても書かれており、この説明書によると、鎧袖の碑は明治時代につくられたものだったそうです。
出典:『福井市郷土歴史博物館の特別展「大坂の陣と越前勢」の説明書』
この説明書にも、やはり首は秘伝とされ所在はわからないとされていました。しかし、
城下の某所に埋めた
と書かれており、今までよりも少し範囲が限定されました。城下って相当限られてますよ。
そして、前に「松平忠直は幸村を注視していなかった」と書きましたが、松平家はどうやら幸村について「薙刀」を献上されていたという事で、それなりに注目はしていたようですね。
明治時代になってまで、碑文が作られたという事は、夏の陣からずっと供養がされていたようです。忘れ去られていたというわけでもなく、安心です。もしかしたら幸村に関しては、戦争空襲・地震・都市開発の道路整備などで少しずつ薄れて行ったのかもしれません。
2回目
『足羽山の主な史跡と墓碑石』と『足羽の昔ものがたり集』という書に真田地蔵が首が落ちている状態の写真が載っていました。
またそこには、
昭和五十年六月、西尾家の希望により歴史博物館前庭に移築された。
引用:『足羽山の主な史跡と墓碑石』
首無しで八十センチ余り、昭和五十年西尾家末裔の申し出によって現在福井市立郷土歴史博物館に移され安置されています。
引用:『足羽の昔ものがたり集』
とありました。私はてっきり、孝顕寺から郷土歴史博物館へ移されたのは、孝顕寺さんが首を補修のために渡したものと思っていましたが、孝顕寺の意向ではなく、西尾家の意向だったというのです。
なんで移したんでしょうね。やっぱり、価値ある歴史の遺物だから、歴史博物館にあった方がいいと思ったんでしょうか。
ただ位置関係的には不思議ではなく、平成16年まではこの歴史博物館は足羽山の足羽神社近くにあったので、孝顕寺からもとても近い場所にあったのです。なので、そこに移したのかなと思います。
でもなぜ移したんでしょうね…。足羽山にある歴史博物館に。しかもその頃は館内ではなく庭にあったと書いてありますし。どうしてなのでしょうね。足羽山に真田地蔵を移築…。なにか、足羽山にあったんでしょうかね……。
参考文献・情報提供
取材協力
『孝顕寺』
情報提供
『福井市立郷土歴史博物館』
参考文献
『福井県の伝説』
『越前人物志 上』
『越前人物志』内掲載『慶元闘戦記』
『越前人物志』内掲載『慶元通鑑』
『福井藩史話』内掲載『慶長見聞記』
『若越墓碑めぐり』
『足羽山の今昔』
『新訂越前国名跡考』
『帰雁記』
『福井の地名』
『福井市郷土歴史博物館の特別展「大坂の陣と越前勢」の説明書』
『足羽山の主な史跡と墓碑石』
『足羽の昔ものがたり集』
アクセス、基本情報
孝顕寺
最寄り駅は、北陸本線福井駅から徒歩17分。
福井鉄道に乗り換えて、足羽山公園口下車で徒歩5分。
駐車場はありませんが、境内に車を置くスペースがあります。
福井市郷土歴史博物館
最寄り駅は、北陸本線福井駅から徒歩10分。
駐車場は20台以上あります。
入館:午前9時~午後7時 (11月6日から2月末日までは午後5時閉館)※入館は30分前まで。
料金:個人220円。
コメント
詳しく調べて頂いてありがとうございました。やはり、西尾家ですね!後輩に、同じ姓があったなー。
采配等は知りませんでした。いつか、見たいです!そして、地蔵が移された理由は僕も不思議に思ってました。鎮魂の意味があるのに、博物館に移したとなると、不要になったのか?本当に、不思議が多いですね。
謎が多いですね。博物館(旧地が足羽山)に移した説として、妄想的憶測をするのなら、足羽山に何かあるのか…?なんてことも思ってしまいます。
これらを知ったうえで、また福井市立郷土歴史博物館で真田幸村関連の特別展を見てみたいですね。