帰山と鹿蒜一里塚~南今庄旧名「帰村」の由来とバス停に北陸道の名残【南越前町】

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南今庄

福井県南条郡南越前町南今庄はかつて北国街道、北陸道の主要街道が通っていた土地です。

2022年8月の豪雨ではいま被害を受け現在もその傷跡が残ります。

今は南今庄という名前ですが、かつては「帰」という村でした。由来や南今庄に変わった経緯などを見ていくと共に、災害の様子も見ていきます。

地理・位置

南今庄桜

今回の帰村は今庄の南、鹿蒜川沿いの谷へ行くと当地区に着きます。災害の後にも関わらず桜が咲き誇っていました。これは希望となるでしょう。

近くには南今庄駅があり、山間の集落となっています。

冒頭で見た通り、現在は名前が「南今庄」となっています。一里塚もあり、木の芽峠へと通じる道でもあったためかつては主要道でした。

帰村について

。読み方は「かえる」
『角川日本地名大辞典18福井県』には「かへる」「かいる」とも書かれています。

かつては「加比留」「加倍留」と称されてきたらしく古代からの呼び名が残っています。近くには鹿蒜(かひる)川が流れており、氏神は鹿蒜神社です。

この村の成り立ちについては『福井県今庄町誌』に

先住民族(北方系)に渡来帰化民俗が、原子古代に早くこの地に住み着きその祖となったものと考えられる。
引用:『福井県今庄町誌』

このように書いており、かなり古くから存在していたようです。

  • 「和名抄」では「鹿蒜郷」として書かれており、奈良~平安の郷名としました。その中心が帰村の場所とされる。
  • 「加恵留保」は鎌倉期の保名。
  • 「帰村」江戸~明治22年。
  • 「鹿蒜村」(自治体名)明治22年~昭和37年。帰、新道、大桐、山中、二ツ屋の5つの村で形成。
  • 昭和38年1月1日、帰集落が南今庄へ名前変更

後で見ていく「帰山」という地名も深くかかわってきて、『平家物語』『太平記』『奥の細道』などにもこの「帰山」が見えます。

この帰山の麓に位置する場所という意味で「帰」と名付けられたという説があるようです。

主要道としての歴史

今庄宿から敦賀への難関木の芽峠を目の前にした中継地点です。敦賀方面から来た人にとってはあと少しで今庄宿に到着するところ。大きな役割を担ったのでしょう。近代にも新旧北陸本線はこの南今庄を通っていきます。

南今庄桜

中古は鹿蒜郷加恵留保という名前で名高く、古来北陸の関門の役割を果たしていたとされ、交通・軍事の要衝とされてきました。

奈良時代には鹿蒜駅が置かれ、それが南今庄付近とされているといいます。役人・駅馬など多く相当に賑わったのだろうと『福井県今庄町誌』には書かれています。鹿蒜駅は北陸道越前国二番目の駅だったそうです。

敦賀と武生を結ぶ「帰山路」とも言われたそうです。近くには一里塚もあります。

朝倉氏滅亡の際は、義景の母と子がこの付近で惨殺されました。それを祀る石仏も当地区に存在しています。

帰山という地名はその交通の歴史から来ている説があるようで、これはあくまで伝説ではありますが、その帰山についてみていきます。

「帰」について

さて「帰」とはなんとも珍しい名前ですがその由来は何なのか。名前の由来としてはよくわかっていないようで、伝説によっても色々と説が違ってくるようです。

では、帰村の由来となったであろう帰山の由来とは。

帰山問いふも麓にかへるの里といふ所あり、此山に鏡の石といふ有、むかし此石に行人往馬のかげうつりて見えしかば行きもかへるやうなりとて帰山と名付しとかや
引用:『福井県今庄町誌』内『帰雁記』

帰川、源流は官道の西帰山より出でて下鹿谷川の上流なり。蓋平家物語に載する能美新道の二川なるべし、相伝へて云燧城より其水を塞ぎ平氏を防ぐに方って水の帰り流れし所なるが故に帰川と名づく
引用:『福井県今庄町誌』内『古今類聚越前国誌』

帰山と帰川の二つも「帰」が現れてしまいました。いずれの伝説も普通の意味合いで「帰る」ということのようです。

でもそれだけではないのです。

  • 山の形が蛙の踞る形に似ている
  • 鏡石に映った影
  • 行人が帰る喜び

「カエル」に当てはまるものが何でも付け加えられているかのようです。

帰山

帰山とは何か

帰山ですが、名前だけでなくこの山の所在自体も書籍や人によってさまざまで、どれが帰山なのか断定が出来る状態でもないとのことです。

わからないことだらけですね。古くからある土地だからこそでしょうか。

『福井県の地名 日本歴史地名大系18』では、

  • 帰村西の新道集落の東の山、帰村の北を帰山とする説
  • 『越前国名蹟考』は「帰村の南」としている説
  • 「敦賀郡祭神考」では木の芽峠を帰山としている説
  • 「奥の細道」では難所とし、鉢伏山であるという説

などの説があるとし、

『角川日本地名大辞典18福井県』には、

  • 蛙山
  • 海路(かいろ)山

などとも書かれています。謎に包まれています。

ただし古くから古典和歌集などで都人、歌人が帰山によせて人生の哀歓を詠んでいるとされ、「越の帰山」として知れ渡っていたといい、名前だけがはっきりと知られ有名になったのですね。「かへる山」歌枕にもなっているそうです。雪深い印象から、雪と共に歌われることも多かったのだとか。

鏡石

「帰」の由来の一つである「鏡石」について、その所在は『越前若狭の伝説』の『越前国絵図記』によると

新道集落の東に帰山、その麓の山岸に鏡石がある

とされています。それはちょうど鹿蒜一里塚付近なのでしょうか。

昔は鏡のように影が映ったとされ、旅人が石の方へ行くと、影はあとへ帰るように見えたので帰る山、帰る村とするとしています。『帰雁記』と同じですね。今は曇って普通の石だとされています。

ただしこれが書かれたのは貞享二年(一六八五)以降の調査によるもので、少なくとも江戸時代という事には違いない年代です。明治35年からの『越前国名蹟考』では、「鏡石は56尺ばかりの石」としています。

そんな昔のもので、今探そうとしても全くどれがどれだかわかりません。最近の郷土史にも写真は載っていませんし、もうわからなくなってしまったのかもしれません。

昭11年(1936)の『福井県の伝説』には、「帰の里の入り口に黒く苔むしている一個の大きな岩がある」としておりその時代にはまだ認識されていたのでしょうか。

帰村から南今庄へ

『福井県今庄町誌』によると、

昭和三十八年一月一日、地区民の要望により字名が「帰」から「南今庄」に変更された。

長い「帰」の名の歴史が幕を下ろしたのです。近年栄え出した今庄宿の南部に位置するという理由だったようです。

しかし実はその名残は今も残っています。

帰バス停

南今庄部落のバス停。このバス停の名は「帰」なのです。

しっかりと標識にも書いてあります。ここで「帰」を見ることができるのです。

鹿蒜一里塚

一里塚

慶長九年東海北陸一里塚として設置。

南今庄の西300m程の所。

令和4年の水害

南今庄災害
南今庄災害

令和4年に豪雨が襲い、今庄周辺も大きな被害を受けました。この南今庄もひどい有様で、今も崩れたままである場所や田園だった場所に流木やゴミが散らばっています。

南今庄災害

田んぼの中に小屋の瓦の屋根部分だけが置いてあります。

元鹿蒜村の二ツ屋を以前紹介したときも崩れている橋などがありました。一年経つ今もまだまだ復興は遠いようです。

参考文献

参考文献
『福井県今庄町誌』
『越前若狭の伝説』
『福井県の伝説』
『角川日本地名大辞典18福井県』
『福井県の地名 日本歴史地名大系18』

基本情報

最寄り駅北陸本線南今庄駅から徒歩8分
自動車今庄ICから7分
駐車場なし

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