福井県南越前町の桜の穴場名所。鋳物師。鋳物師の桜を見に行った時期は満開からの桜吹雪の時期でした。鋳物師の読み方は「いもじ」と読みます。桜の美しい風景に魅了されたのです。
なのでここに鋳物師の簡単な言い伝えも紹介しながら、桜の風景を紹介していこうと思います。
撮影は2023年4月2日。
名桜
鋳物師から日野川へそそぐ川沿い両岸に560mほど桜並木があり、撮影当時満開からの桜吹雪で見に来ていた人々を魅了していました。
私以外にも撮影者が数人いらしたので、結構知られた桜の名所なのかもしれません。
特に美しいのが、稲葉橋からの眺めで、車通りもほとんどなく、皆この稲葉橋から桜を楽しんでいました。私がいたのも稲葉橋です。
堤防にも道があり桜の下を散策することができます。密度もかなりあり途切れもしていない桜並木です。
鋳物師集落は本当に一集落です。街中でもありませんし、近くに何があるというわけでもありませんが(最近になって道の駅が出来ました)、これほどの桜が咲いているということはきちんと管理なさっているということでしょう。感謝です。
鋳物師とは、鋳物師の始まり
さてそんな鋳物師集落。そもそもこの鋳物師とは難読漢字にされているようで、冒頭でも書いた通り「いもじ」と読みます。敦賀にもあります。
郷土誌を見ていくとその名前になった理由がわかります。
欽明天皇七年、牧谷の麻気神社祭神の御子天子山命の遠孫が「遠祖の地である」として当地に杖を留め、麻気の里西北の里原に館を構えて、代々鋳物に励まれ、子孫繁栄し一村にまで大きくなり鋳物師の里と称されるまでに至った。
参考:『南条郡誌』
五百年程前に裏山の不動山に金山があり鋳物師多数移住し鋳物を業として大繁栄した。よって村名となった。当時の金山あとは今も現存する。山本惣平は鋳物師移住前よりの住民と伝える。当区で「打方」「外方」と呼ばれる家は鋳物師時代から来たものであるという。
参考:『南条郡誌』『福井県の伝説』
このように鋳物師の成り立ちには二つの説があるようです。
『南条町誌』にはさらに細かく考察されており、そのなかに
口碑以外には鋳物師の存在を裏書きできる遺跡や遺品などは未発見である
引用:『南条町誌』
とされているそうです。
一番古い文献では天正十八年(1590)の『大谷刑部少輔殿様府中御知行分惣目録』だとされます。
いずれにしても鋳物師はいたはずとされていますが、なぜいなくなったのかというので説に上がっているのが「敦賀移住説」です。先ほども敦賀に鋳物師があるといいました。朝倉氏が天筒山築城の際に鉄製の器具の製作要員として鞍谷氏に命じて移住させたという説です。
と、このようにかなり奥が深いので、気になった方は『南条町誌』を読んでみると面白いかもしれません。
参考文献
『福井県の伝説』
『南条郡誌』
『南条町誌』
基本情報
最寄り駅 | 南条駅から徒歩24分 |
自動車 | 武生ICから15分、南条スマートICから4分 |
駐車場 | なし |
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