二ツ屋(今庄)に遺る北陸道の名残 ~一里塚・宿場・関所など【南越前町】

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木の芽峠以北に今庄の二ツ屋。往還一里塚跡・制札場跡・御前水問屋跡など歴史の面から、墓や日吉神社など集落跡の面も持つ場所。

しかしその道は2022年の大雨水害によって崩壊していたのであった。

旧北陸道の二ツ屋について

二ツ屋は木の芽峠の直前直後にある集落で、北陸道としては宿場もあった重要地点。敦賀側は新保。
この木の芽峠は難所でもあり、さらに豪雪地帯としても名の知れている場所です。

雪の時期は今庄川の二ツ屋や敦賀側の新保に旅人が逗留し頃合いを見て雪道を進んだとしています。峠を越え反対側の集落に着いたときはさぞ安心したことでしょう。

かの有名な水戸浪士が来た道でもあります。
水戸浪士が通ったのはまさにその豪雪の季節。ひどい雪の中を泳ぐようにして進んだのだそう。

昔は通行料があり、『越前・若狭 峠のルーツ』よると「指掌録」という本に、

新保から二ツ屋まで、人足一人分四十一文五分、二ツ屋から今庄まで五十三文

旅慣れたものは公定賃銀よりも安く、旅慣れないものは公定よりも高い駄賃をふんだくられたこともあったといいます。

そんな二ツ屋の北陸道の遺構を見て行こうと思います。

二ツ屋の旧道跡

現在の二ツ屋集落から旧道へ

今の二ツ屋集落

二ツ屋集落は現在の県道207号線(旧北陸本線)から新道集落を南の谷へ入るとあります。しばらくは対向二車線の道路が続きますが、集落終わりになると上写真のような狭い一車線の道となります。

ここから下界を離れます。

災害の痕

しばらく行くと瓦礫の山が見えてきました。

令和4年8月の大規模水害によってここも被害を受けたのです。

大きな木の株が置かれており、如何に酷いものだったかうかがえます。しかしこの先にもさらに被害の様子が分かる場所があるのです。

往還一里塚跡と水害

二ツ屋一里塚跡

橋についているガードレールが大破しています。

この橋の前にはかつて「往還一里塚跡」と書かれた標柱がありました。しかしこの通り、水害により流れてしまったのでしょうか。今はもうその標柱はありません。その代わり多くの瓦礫が散らばっていました。

かつては「一里山」ともいわれていたといいます。

一里塚跡
二ツ屋宿の入口東方にある。慶長九年の一里塚跡である。
引用:『福井県今庄町誌』

 

奥には二ツ屋の墓地がありました。
今庄は昭和まで土葬だった地域が多いです。ここもそうだったかもしれません。道脇には名号碑も立っていました。

『福井県今庄町誌』には、

宿場の守護神
宿場の村外れ上下二ヶ所に建っている。「南無阿弥陀仏」文政年間之建

とかかれているので、もしかしたらこの碑が守護神だったのかもしれません。

水害で崩壊した橋

迂回ルート

しばらく進むと、何やら道がおかしなことになっていました。分岐のような感じ。でも左の方が整備されてるようなので左の方を通って行ってみます。

すると、

災害の橋1

崩落した橋を横目に進むことになりました。

どうやら右の道らしきものは、元々の道だったようで、この橋を通って先に進むものだったようです。しかし橋が崩落したので、左の迂回ルートを作って今に至るということなのでしょう。

災害の橋2

痛々しい様子です。

この先「通行止」の看板が出ていましたが、「通行禁止」ではなかったので、行ける所まで行ってみることにしました。

二ツ屋宿場跡

二ツ屋宿場跡

先ほどの場所を通ってすぐに標柱を見つけます。

「二ツ屋宿場跡」

北陸道を思わせる文字に心躍ります。実感しますね。

『山々のルーツ』によると、

二ツ屋は宿場でもあり駅馬14匹がおかれた。

とされています。

さらに、

馬捨場・馬の血取場
一里塚より五十米ばかり宿場寄りにある。これは宿用馬の廃馬を捨てた場所であり、血取場は宿馬の脚の鬱血を抜いてやりこれを捨てるその採血場のことである。
引用:『福井県今庄町誌』

ということも書かれています。重要地点です。

石仏

二ツ屋石仏

旧道にはよくある旅地蔵。といっても地蔵かどうかはちょっと微妙。なにかの石仏。

北陸道時代の遺産ですね。

二ツ屋制札城跡

札所跡

標柱エリア。

ここが重要地点であることがよくわかります。

『福井県今庄町誌』によるとこの制札場には「切支丹禁札」が掲げられていたそうです。

日吉神社

廃村神社跡

道から延びる参道。鳥居と灯籠が今でも残っています。

しかし社殿は無いようで、神社自体はどこかへ移動したのかもしれません。

日吉神社
天長九年(832)勧請、祭神大山咋命、摂社秋葉神社
引用:『福井県今庄町誌』

明治天皇行在所・御膳水問屋跡

明治天皇行啓所

旧街道であるということで、明治天皇の行啓の際もここを通ったということです。

どうやら屋敷跡のようですね。

屋敷跡
小豆茶屋跡は宿の入口左側にあり、問屋大黒屋高野三右衛門跡、宿の中央にあり又明治天皇行在所跡として記念碑がある。
引用:『福井県今庄町誌』

上のように記述があります。この明治天皇行在所の屋敷跡は「問屋大黒屋高野三右衛門跡」のようですね。向こうの標柱には「問屋跡」と書いてあるので、間違いないと思います。

石垣の遺構

石垣

この周辺はいたる所に石垣の痕が見られます。

おそらく北陸道の時代ものもでしょうし、価値ある存在だと思います。

かつてはいろんな建物や人がいて賑わった場所なのでしょうか。

二ツ屋関所跡

二ツ屋関所跡

道の右手に「二ツ屋関所跡」

板取の関と同様に、「出女」に対して厳しい監視の目を光らせた。
引用:『山々のルーツ』

出女とは江戸から出ていく女性のことのようで、妻や子が逃げて行くことに監視の目を光らせていたということなのでしょう。

といっても関所はそれだけが役割ではないので、重要な地点だったのですね。

国境関所
宿の上(西方)結城秀康によって開設 慶長七年(1602)
元治元年十二月十一日水戸浪士通過
引用:『福井県今庄町誌』

水戸浪士の通過。

この道を水戸浪士が通った。なんだか不思議な気分です。

 

この先にも多くの遺構や地名が残るので、余裕があれば行ってみてもいいかもしれません。
「首切り谷」などもあります。

思えばつい最近まで使われていた道

こうやって昔はここを通ったんだなぁ。と思い馳せているものの、意外とつい最近まで使っていたんだということに気づかされます。

江戸時代なんてまだ150年ちょっと前ですし、水戸浪士が通ったのもそのくらい。しかも明治天皇がここを通っていたのですから、そんな最近です。

これだけの遺構が伝えられるのも納得であるとともに、そんな最近にこの場所に有名な人物たちや庶民がここを通って、関所・宿場の機能を果たしていたのだなと、大昔を思うのとは少し違う感覚になります。

参考文献
『山々のルーツ』
『越前・若狭の峠のルーツ』
『福井県今庄町誌』

基本情報

※一里塚跡

最寄り駅南今庄駅から徒歩55分
自動車今庄ICから18分
駐車場なし

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