福井県南越前町今庄の二ツ屋のある谷の奥に「首切り谷」という禍々しい名前の場所があります。
この名の由来や行き方、現地の様子を見ていきます。
首切り谷への行き方
二ツ屋関所を経由
実はこの記事の前に二ツ屋の関所跡の記事を出しています。
この続きにあるので、今回は↑の先から記していきます。
二ツ屋関所後の墓?
関所跡を過ぎてしばらく登りが続きます。
すると折り返しの曲がり角にこのような石仏と石板がありました。見た感じだいぶ古いです。
何か由緒あるものなのかと思い石板を見ました。
「信士」「信女」「尼」「居士」などと書いてあり、承応から明和までの戒名が書いてあります。
これは墓誌ですね。
当時の物でしょうか。全部江戸時代の年号です。誰かの墓のでしょう。
土砂の痕跡
結構登ってきましたが、この辺りも先日の水害の傷跡があります。木や土砂がガードレースで止まっています。
時折道路の崖側のアスファルトが若干ひび割れて陥没しているのが何とも恐ろしいです。水害も併せていつ崩れてもおかしくない状況なのかと、死を覚悟しながら進みます。
まあいつものことです。
無碍光如来・山神など
さらに登るとひらけたところに出ようとしています。
その前にまたいろいろと建っていますね。
まず左から「無碍光如来」。つまり阿弥陀仏。
次に法名の書かれた石。こっちは墓石か。
その次に石仏。
そして「山神」と書かれた石。
4つ並ぶこのエリアは何とも独特の雰囲気です。
しかもこの辺りだけ杉の木で覆われているのがなんとも聖域らしい。
首切り谷
山神エリアのすぐ先に目的地があります。
「首切り谷」。
禍々しいその名は、何とも堂々と大きな標柱に書かれていたのです。
いったいどんないわれがあるのかと言いますと、郷土史などからそれを見ることができます。
首切り谷
峠に向かって、右方に谷がある。これを首切り谷といって往時一向一揆軍の首をはねた場所の谷である。
引用:『福井県今庄町誌』
天正二年(1574)越前一向一揆勢が織田信長勢の侵攻に備えて鉢伏城を築城。天正二年八月二十日の書状には「鯖江西光寺・武生正闡寺・京都今小路・福井照護寺・専修寺」によって城を守っていたということが確認できる。翌三年に落城。その城跡より北東へ下ったこの谷で一揆勢の首をはねた。
参考:『福井県の地名』
天正元年に朝倉が滅亡した後に越前一向一揆がおきて、それを討伐しようと天正三年に織田軍が有名武将大勢引き連れて進軍したものです。
この首切り谷はその天正三年に首をはねた場所なのでしょう。
この谷でそんなことがあったのですね。
思いにふけるというか、どんな光景だったのかとその場で考えずにはいられません。
結構山の上ですし、今では交通に関しては使われなくなった道です。滅多にこの光景は見ることはないでしょう。
人里離れたところで、ひっそりとその名を掲げています。
参考文献
『福井県の地名』
『福井県今庄町誌』
基本情報
※首切り谷
最寄り駅 | 南今庄駅から徒歩1時間26分 |
自動車 | 今庄ICから25分 |
駐車場 | 広いスペースあり |
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