若狭国造膳氏の墓?脇袋古墳群と膳部山のある王家の谷には何が眠っているのか

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福井県若狭町上中脇袋に西塚古墳・上ノ塚古墳・中塚古墳・糠塚古墳が現存しているため聞き込みと調査を開始します。

膳臣が治めたとされ、膳斑鳩の古墳という説もあります。膳部菩岐々美郎女の一族であり、聖徳太子と若狭地方の関係もささやかれる中、見過ごせない土地です。

今回の調査について

聖徳太子&膳部菩岐々美郎女(膳大娘)若狭地方の結びつきについて是非とも県を挙げて推してもらいたい物と考えておりました。しかし何の根拠もなしに声を上げるという事は難しいので、どんな些細なことでも繋がることがあれば調査したいと考えていました。

また一番の理由に、聖徳太子の奥さん膳部菩岐々美郎女(膳大娘)に関係したものを祀っている場所が上中駅付近にあるという話を以前聞いたことがあるので、それを見つけ出すことが目的でもありました。

それに伴い、今回の脇袋という地区は見過ごせない場所でした。

一説に、若狭高浜に聖徳太子が訪れ、馬居寺を建立した際、若狭滞在の時にこの膳部菩岐々美郎女を娶ったという伝説も残るほど。(あくまで伝説)

なので今回、膳氏と縁の深い若狭脇袋にて調査を行います。

まず若狭町歴史文化館へ

問合せ

まず訪問前に、若狭町上中に膳大娘に関する物や聖徳太子に関するものが何かないかという事を問い合わせました。

以下の点でご回答いただけました。ありがとうございました。

  • 門徒のお寺で聖徳太子のお絵像をお祀りされている。
  • 菩岐々美郎女さまは膳氏の出自を持つが、当町にそのような謂れのある神社は存じない。
  • 菩岐々美郎女の父君、傾と同じ名前の「傾」という製塩遺跡が、小浜市田烏の海岸に存在。
  • 脇袋の勝手神社。山中の古道、現在は脇袋方面に続く、近江と若狭の国境の大杉にも勝手神社がある。勝手を膳と近しい音として考えることもできる。

とのことでした。

安易に膳臣につなげることは学問的に不十分不可能ですが、問題意識として持ち合わせています。

とのことで、確かに古代の話、あくまで推測的な部分が多いですが、それでもかなり有益な情報をいただけました。

見学

歴史文化館の写真を撮るのを忘れてしまいましたが、パンフレットはもらったので、証拠として表紙だけ挙げておきます。

若狭歴史文化館

このパンフレットの中にも上ノ塚古墳など載っていました。

歴史文化館は展示や説明、図、写真などは小さな展示室ながらも結構充実していました。

もちろん脇袋だけでなく、若狭町にある多くの古墳について展示されていました。

ただ、脇袋の古墳に関して、パンフレットもそうですが「膳臣」とは書かれているものの、聖徳太子の妃の出身氏族であるという事は書かれておらず、先ほどの文化館さんの回答の通り、なかなか繋がりを断言できる状態ではないのかなとも思いました。

脇袋について

脇袋

北川に沿って小浜の海の方まで眺めることができた脇袋という土地。つまり、若狭国を見渡せるこの地こそが、墳墓の地にふさわしい土地であったとされています。

『上中町郷土史』によると、今の脇袋の区民は四百年ほど前に安賀里方面から移住した人々の子孫で、それまでは完全な「墓」としての土地だったそう。

「吉田田の中瓜生関はいやよ同じ住むなら脇袋」

なんて歌もあるらしいです。

後ろは膳部山がそびえています。

王家の谷(脇袋古墳群)

古墳群を見る

脇袋古墳群

この脇袋集落と聞いて、知っている人ならもう「古墳の部落だな」と思うかもしれません。

現地には古墳群についての説明板もあります。

この集落のお寺「法順寺」でもお話を聞きましたが、集落の人が自分の家の土地を耕作や建築などで掘ると、昔の遺物が出てきたという事がよくあったそうで、個人の家の下が古墳になっているようなものとおっしゃっていました。

脇袋にある古墳は有名な4基以外に、

  • さらに3基(荒塚、光塚、上下の森)※すでに消滅
  • 脇袋北古墳群 10基
  • 勝手神社古墳(円墳)
  • 脇袋古墳群 9基(丸山支群)

さらに隣接して上吉田所在の山

  • 上下の森古墳群2基(うち前方後円墳1基)

があり、見つかっているだけで29基この谷にあるのです。

西塚古墳(膳斑鳩の墓?)

西塚古墳1

西塚古墳は全長74m前方後円墳横穴式石棺。5世紀後葉。
古代若狭国の首長の墓とされます。

昭和10年に国の史跡に指定されました。

西塚古墳2

現在田んぼの中にあり、近くまで行くことができます。分離していますが一つの古墳です。

分離しているのは、かつて大正5年の小浜線建設の際に土などが持って行かれたためのようです。(文化財が…)。その時に石棺が見つかったのだとか。

脇袋古墳群の中で一番はっきりと残る古墳は「上の塚古墳」ですが、最近のメインの古墳はこの「西塚古墳」です。

というのも、横穴石室の内側は赤色の顔料で塗られ、石棺からは副葬品が凄い出ています。

武器(剣、鉾)、金製耳飾り、鏡、金銅製帯金具、銀鈴、銅鈴、馬具、冑など
これらは現在宮内庁所蔵

この副葬品から膳斑鳩(かしわでのいかるが)の墓ではないかとされています。
膳斑鳩とは5世紀後半の膳臣で、有名な話では新羅救援のため高句麗軍と戦ってこれを破ったという話があります。
副葬品が豪華且つ朝鮮半島の物が多く、時代的にもあっているので、それゆえに膳斑鳩の墓ではないかともいわれているそうです。
参考:『若狭上中町の古墳』『新わかさ探訪』

西塚古墳3

登ることもできそうですが、こちらはやめておきます。

植木が特徴的ですね。

ちなみに、当時発掘調査の際に、全国的に悪疫(チブス)が三年間流行して多くの死者を出したそうで、そのタイミングで脇袋に古墳保存会が設置されて祭典が営まれたようです。参考:『上中町郷土史』

西塚古墳では2021年に、周濠というものが見つかったようです。大阪や奈良の古墳によくある、古墳の周りの水ため場ですね。調査されるのは結構貴重な事らしいですよ。

上ノ塚古墳

上の塚古墳1

上ノ塚古墳(じょうのつかこふん)は脇袋古墳群の代表格
全長100mの前方後円墳。5世紀前半。
古代若狭国の首長の墓とされています。

昭和10年に国指定史跡に。

一番はっきりとした状態で残っており、いまでも前方後円墳の形を見ることができます。

この上ノ塚古墳からは埴輪もみつかっているそうです。

上ノ塚古墳について、『上中町郷土史』には面白いことが書いてあります。

上の塚古墳は男の神様らしく云われている。県から墓標を建てられた時、「ジョウノツカ」と云われていたため「上の塚」の漢字を用いたけれども、それまでから上の塚としての字を用いられていたのではない。あるいは謡曲にある「尉(ジョウ)と姥(ウバ)」の場合に有る如く「男」の意味で「男(ショウ)」の塚ではなかろうかともいわれている。
引用:『上中町郷土史』

上の塚古墳2

この古墳も近くへ行くことができます。

少し草生える道を進みます。

上の塚古墳石碑

大きく立派な石碑が建てられ、そのよこに説明板があります。

そして、この古墳は「登ってみてください」と云わんばかりに古墳上へとちょっとした道が続いております。

なかには「古墳へ登るなんて無理」という人もいるかもしれませんが、せっかくなので行ってみてもいいと思います。というのも、上からだと前方後円墳がよくわかるからです。

私は行きました。ただ、結構草が茂っています。

上の塚古墳上2

前方のほうから登るようです。向こう側に見えるのが後円です。一段高くなっているんですね。

獣の足跡もありました。

上の塚古墳石碑

円の方へ来ました。

ここにも石碑があります。

上の塚古墳上

振り返ると、前方が見えます。

ちゃんと鍵穴らしく、向こうへ行くにつれて広がっているのがわかります。

福井県で前方後円墳をこうして実感できるというのは、素晴らしいことです。

ちなみに下からでも、ある程度は前方後円墳を感じることができます。

上の塚に光明

タイミングよく光明が降り注ぎました。

神々しい。

中塚古墳

中塚古墳1

中塚古墳も全長60m前方後円墳5世紀後半。
古代若狭国の首長の墓とされています。

昭和10年国指定史跡。

ここでも周濠と埴輪が見つかりました。

写真でわかりますが、民家や私有地の密集する場所にあり、「これ行ってもいいのか?」という道を進みます。

中塚古墳2

そしてその家と畑の間の道をすすむと、畑の奥に石碑が立っていました。

「本当に行って良いのか?」と思いながらも、道筋をすすみます。

中塚古墳3

すると、古墳の説明板が現れます。

すごい茂っています。そして、この説明板の左側に古墳の上に登る道があります。

茂っていますが、せっかくなので行きます。

中塚古墳4

登るとそれなりに開けていますが、そんなに広くはありません。

竹が茂り、草も茂ります。

でも、民家の密集地にこのような丘があると、確かに古墳らしい古墳とも言えます。

ちなみに女の神様だと言われています。

糠塚古墳

糠塚

田んぼの中にポツンと木の生えた丘が糠塚古墳です。

糠塚古墳はかつて円墳とされていましたが、発掘調査でこれも前方後円墳だということが分かりました。全長5,60m。5世紀代。

五世紀末の若狭国の首長墓の可能性があるそうです。

膳部山

膳部の名前について

膳部山

脇袋の裏にそびえる山が膳部山です。もう少し左寄りだったかもしれません・・・。

名前からして「膳」なのですが、とりあえず意味を見てきましょう。

「膳部」とは、膳にのせる料理や食膳の調理を扱う人の意味以外に、朝廷や皇族の宮で、御食(みけ)の調理に従事し、食事をつかさどった職業部のこともいうのだそう。

膳部菩岐々美郎女にも「膳部」の文字があり、この山はそのまま名前を現しているということになります。

こんなにはっきりと「膳氏」との関係を見ることができるのですね。

集落の人の話

でもただ名前だけ残っているようでは何か心もとないのですが、集落の方々に膳氏についてお話を聞くと、皆さん口をそろえて「古墳」と「山」のことを教えてくださったのです。

集落の方々にとっても、この「膳部山」というのは「膳」と関係のある物だという認識のようで、「ただ名前だけが残っている」のではなく、ちゃんと「人々にも伝わっていた」のでした。

法順寺

法順寺

この脇袋のお寺は法順寺というお寺です。
元真言宗、現浄土真宗

重要文化財であり、真言宗時代の本尊十一面観世音菩薩は一説に聖徳太子作と伝わっています。

ただ、ご住職曰くこの説はどうもあやしく、定朝(じょうちょう)作という説の方が信憑性があるとのことでした。

また、浄土真宗と聖徳太子とは結びつきが強いというお話も教えていただきました。

親鸞が法然と出会うきっかけが聖徳太子の夢のお告げからだったからのようです。なので親鸞は聖徳太子をとても崇拝しており、浄土真宗のお寺には必ず聖徳太子像の絵がかかっているといいます。

若狭町歴史文化館に問い合わせた時に「門徒のお寺で絵像をお祀りしているのを見たことがある」というのは、おそらくこれ関係かと思います。

ちなみにこのお寺の前の宗派真言宗は、高浜の聖徳太子創建馬居寺と同じ宗派です。

               

勝手神社

勝手神社

勝手神社はこの脇袋集落の氏神です。
詳しくは別記事で紹介します。

ただ、膳関連で一つ気になることが・・・。

先ほど若狭町歴史文化館からの返答に「勝手と膳が近しい音」という事がありましたが、実は調べてみると似ているのは発音だけではなかったのです。

『三国伝記』十巻に、「膳手后妃事(かしはてひめのこと)」というのがあるのです。これは聖徳太子と膳大娘の出会い界隈の話を書いた説話なのですが、見ての通り「膳手」とあります。
他にも『聖徳法王三国伝燈濯頂伝』には、「聖徳救世観世音 后妃膳手大勢至」とあり、ここにも「膳手」

発音だけでなく漢字まで似ている。「勝手」と「膳手」。

果たして偶然なのか。

ちなみに先ほど少し書きましたが、この勝手神社のある場所付近も古墳です。

膳氏・膳部菩岐々美郎女との関係は

糠塚古墳(奥)

ここまで脇袋古墳群や神社、膳部山などいかにも無関係とは思えない場所が多くあります。

実際、若狭首長や国造の墓とされ、つまり膳氏の墓、中には膳斑鳩の墓ともされる古墳もあります。

ただ集落の方に聞いても、やはり膳部菩岐々美郎女や聖徳太子との関りはわからずでした。

結果、膳氏との関りはありそうですが、6世紀後半~7世紀の膳部菩岐々美郎女及びその父傾子や聖徳太子と、5世紀代の脇袋古墳群とは1世紀ほど時代の差があるので直接的な関係はなさそうですが、山やその土地などは何かあるのではないかと希望は抱いています。

もちろん確証の無いことは言えないので、「希望を持っておく」とだけにしておきます。

今後、県や町の公式調査でさらに膳氏に関する確たるものが見つかることを願います。

若狭の膳部菩岐々美郎女や聖徳太子との関りとの関係は他の地域でも調査を続けたいと思っています。

参考文献
『若狭上中町の古墳』
『上中町郷土史』
『新わかさ探訪』

基本情報

最寄り駅JR小浜線上中駅から徒歩27分
自動車若狭上中ICから7分
駐車場なし 脇袋区倉庫の邪魔にならないところに停めるか

マップへ

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