勝手神社(脇袋)とは膳手か?御祭神と由緒は?【若狭町上中】

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勝手神社

福井県若狭町旧上中町脇袋の氏神である勝手神社。

この神社はいったい何者なのか。膳氏との関係はあるのか?

創建や由緒、境内の様子を見ていきます。

御祭神

勝手神社鳥居

ご祭神:受鬘命、白山大神、山祇大神

この受鬘命(うけりのみこと)というのは、どうも謎多い神様のようで、はっきりしたことがいまいちわかりません。

勝手明神(勝手大明神)とも呼ばれるようです。
ただわからないことが多いが故にいろいろ言われています。

  • 本地は毘沙門天とも。
  • 『大和古地名辞典』に「諾册二神相そひてあまくだります次に護国後見にくださるる」という記載あるらしい。
  • 一言主の子であるとも。

ただ普段目にする系統図では見たことないのでわからないです。

「勝」とか「毘沙門天」とかいうので、武運の神としていたという説もあるようです。

しかし、名前に鬘(かつら)がありますし、結局どういう神なのか・・・。

そしてなぜその神がこの若狭の脇袋の地で祀られているのか。

由緒

創建貞和二年(1346)三月十一日といわれる。
白山大神、山祇大神は合祀。
『福井県神社誌』『御大典記念福井県神社誌』

社伝の書が拝殿の上の方に小さく掲げられていました。

勝手神社由緒

創建までわかっているものなのですね。

古来は「下の宮」と言われ、字谷田に鎮座していたものを、明治十八年に現在地に遷座したのだそう。
白山社は元「字堂谷」に、山祇神社は元「字小谷(現在の勝手神社の場所)」にあって、共に明治四十四年に合祀されたと。
『上中町郷土史』

合祀や遷座など、結構変革があったようですね。

明治の大合祀はよくこのサイトでも取り上げますが、遷座に関してはどうしてなのでしょうね。

見た感じ、大合祀前に山祇神社のあった場所に勝手明神が移動しているようです。

なにがあったのか。

古社であり、大社であり、料理の神様?

『上中町郷土史』には上記以外にもとても興味深い内容が書かれています
その部分を引用しましょう。

膳部山は必ず膳臣の祖六雁命に因縁深き山に相違ないことは、伴信友の考証によって推定される。信友翁著「※高橋氏文献中」に景行天皇の御代磐鹿六雁命が死去になった時の宣命文がある。この宣命文はいまどこの神社へ捧げられたものか判明しないが、脇袋区にある勝手神社はもと塚の近傍にあって(その古い境内は今は田になっている)非常に古いお宮であったらしく、二回の火災に遭い古文書は今残っていないが、昔は上中八ヵ村のものが参拝した。御祭神は受鬘命で料理に関係ある神様らしいといわれている。その地 ※荒礪命に因あるか「荒塚」があり「アレシガヒ」という田があり、又大嘗祭の悠紀田主基田に因めるにや「イフキ田」と呼ぶ田が一反と、スキ田と呼ばれる田が一町程度あるのが不思議である。
引用:『上中町郷土史』

(注釈)
※荒礪命=膳余磯(若狭国造)
※「高橋氏文献中」は『高橋氏文考注』のことか

勝手神社の祭神「受鬘命」を料理に関係する神様と言っているのです。

調べた中で、受鬘命が料理に関係するなんて見たことがありません

もしかするとこの土地の独自の言い伝えなのかも。

だったら、本当にこの脇袋の勝手神社は、有名な吉野勝手神社とは少し違うのか・・・?

「勝手」の名前と「膳氏」との関係は?

この章は、私の完全な推測です。
ただ、前項の「脇袋の受鬘命が料理に関係するというが、受鬘命が料理に関係するなんて見たことがない」と思った謎に対し、少しだけつじつまが合うかもしれません。

別記事で若狭の膳氏について書いたのですが、この脇袋の地は若狭国造の膳氏の墓地「王家の谷」と言われています。

膳氏は古代、食膳をつかさどった一族でした。

この膳氏『三国伝記』十巻に「膳手后妃事(かしはてひめのこと)」というのがあるのです。これは聖徳太子と膳大娘の出会い界隈の話を書いた説話なのですが、見ての通り「膳手」とあります。

他にも『聖徳法王三国伝燈濯頂伝』には、「聖徳救世観世音 后妃膳手大勢至」とあり、ここにも「膳手」

つまり、昔の書物の中には、「膳」を「膳手」と書いているものがあるのです。

さて、今回の神社は「勝手神社」

「勝手」と「膳手」。
「かって」と「かしわで」。

漢字も発音も似ている・・・。

膳氏について調べていた時、若狭町歴史文化館さんに問い合わせると

脇袋の勝手神社。山中の古道、現在は脇袋方面に続く、近江と若狭の国境の大杉にも勝手神社がある。勝手を膳と近しい音として考えることもできる。ただ安易に膳臣につなげることは学問的に不十分不可能。

という回答もいただきました。

また実際、私は現地で集落の人に、膳氏について聞き込みをしていました。そのなかで、

現地の人の中にも「勝手神社」を「かしわで神社」と混同している方がいらしたのです。それほど似ているという事です。

「勝手神社」と「膳氏」は、はたして無関係なのでしょうか。

もし無関係でないのなら、「受鬘命が料理に関係する」という点もつじつまが合うのです。

確たる証拠がないのでわかりませんけどね・・・。

境内

勝手神社拝殿

鳥居の階段を上がると、手水舎があり、またその一段上に拝殿があります。右手には法順寺さんへの小道もあります。

かなり荘厳な様子です。

明治時代に移ってきたと言っても、もうそれなりに時間は経っていますし、昔からここにあったかのように馴染んでいるのですね。

勝手神社本殿

拝殿の裏にさらにもう一段上がって本殿です。

勝手神社裏

本殿の裏には役目を終えた狛犬や石材たちが鎮座していました。

元の鎮座地

勝手神社の元の鎮座地は、「字谷田」です。

これは今の「脇袋31号」です。

空撮で見ると分かりますが、このあたりだけ田の土地改良がなされていませんね。触れない土地になっているのでしょうか。

勝手神社古墳

今の勝手神社がある場所に、実は古墳があります。その名も「勝手神社古墳」
円墳だそうです。

神社の場所か、その少し北の山あたり?の近辺にあるようです。

現地ではとくにこれと言って案内などはなく、福井埋蔵のサイトでは「山林」となっているので、神社横の少し小高い丘のところですかね。

もともと山祇神社のあった場所ですし、何か古墳に関係があったのか。
いずれにしても古墳のあった場所に勝手神社を建てる運命だったのかなとも思います。

勝手神社の謎

以上が謎多き脇袋の勝手神社です。

私の願望のため、「膳手」と無理やり結び付けさせようとしているみたいで申し訳ない。

地元の方々、お寺での聞き込みや行政への確認はここまでが限界。

しかし、希望はあると信じています。そんなことを思わせる神社でした。

先ほども言いましたが、脇袋古墳群について調べた記事もあるので合わせてどうぞ。

【関連記事】:若狭国造膳氏の墓?脇袋古墳群と膳部山のある王家の谷には何が眠っているのか

情報提供
『若狭町歴史文化館』

参考文献
『福井県神社誌』
『御大典記念福井県神社誌』
『上中町郷土史』
『三国伝記』
『聖徳法王三国伝燈濯頂伝』

基本情報

最寄り駅JR小浜線上中駅から徒歩29分
自動車若狭上中ICから9分
駐車場なし

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