福井県敦賀市に岡山公園という場所があります。そこは桜の穴場名所でもありながら、古墳であるとも言われ、ここに生える木は切手はならないと言われており、狐の化かしの伝説もあるのです。ただ後に陸軍墓地となり、現在は忠霊場になっています。
今回はそんな岡山について見ていきます。
※写真は2022年4月10日。
どこにあるのか
岡山は古田刈地区にあり、敦賀の平野にぽつんと浮かぶ丘の山です。
岡山に隣接して敦賀市立中郷小学校があります。写真は小学校のグラウンドが写っています。
国道27号線・国道161号線が近いので、アクセスもかなりいいです。写真を見ての通り、岡山は桜が多く咲いているので、国道161号線を走っていると桜の山が見えてわかりやすいと思います。春に通ったことがある方ならご存じかも知れませんね。
岡山とは何なのか
古墳であり禁足地?
そもそもは岡山とは何なのでしょう。
側面を見てみると、岩盤があり土ではなくちゃんとした岩山のようです。木々は岩をしっかりつかみ、自然の森であることが分かります。
この岡山について、郷土史に少し書かれています。
古田刈村
此の村の東、堂村の北に岡山と云うあり。平田中に孤立す。周囲十丁余(或る人是ハ古墳成るべしと云えり。畿内の国々に在る陵墓に類せり。神代の人の墓なるべし。此の山の木を切りとれバ祟り有りとて、諸人恐怖して今尚切らず)。
引用:『敦賀志』
東に小丘あり、岡山と云う。此山の木を切れば祟りありとて、諸人今に切らずと云う。
引用:『敦賀郡誌』大正4年出版
古墳?なのでしょうか。天然の山でもありそうですが、古墳としても扱われ、今に至る感じですかね。
ただ『福井県教育庁生涯学習・文化財課』の埋蔵文化財遺跡地図では、
「岡山遺跡」という名で、「弥生・古墳の散布地」という事になっています。
散布地という事は遺跡ではあるけどあまりよく分かっていない場所のようですね。
ずっと手を付けられていなかったという事は、ある意味敦賀平野の古の風景がこの岡山の一部に残っているという事なのかもしれません。ただ『敦賀の民話民謡』にはこのようにも書いています。
整備
桜が岡(長沢)
現在の岡山は明治三十八年に既に公園計画があり、山道、峰整地などして桜が岡と名づけられた。しかし木を伐ると祟りがあると言われた。
引用:『敦賀の民話民謡』
明治時代にはすでに開発が進められていたようです。
岡山の言い伝え
祟り
大きなタブの木が生えています。生命の象徴ともされるタブの木は、若狭の方ではサンマイや相の木、祖霊信仰などの土地に象徴として生えているのをよく目にします。敦賀は越前ですが、若狭の文化が色濃いので、若狭の信仰を想像します。
そういった重要な場所という事で、先ほど見たような「切ると祟りがある」と言った言い伝えが生まれたのかもしれません。
岡山
陵山とも書き、神代の人を葬った古墳で、木を伐ると祟りがあるという。
引用:『敦賀の民話民謡』
弁慶伝説
この山については他にも伝説が残っています。
岡山と丸山
丸山は、岡山の南隣にあった山で、大きさ高さは共に岡山の三分の一ぐらいであった。
弁慶が敦賀に来た時、岡山を背負い、丸山を掲げてやって来て此処へ下ろしたのが、この二つの山の始まりであるという。そして、岡山には縄をかけた跡目があるという。
引用:『敦賀の民話民謡』
弁慶が落とした&持ってきた山という伝説は結構いろんなところで見ることができます。この岡山と丸山の伝説もその一つなのでしょう。
弁慶の超人伝説です。
狐
狐の住家ともされているようです。
岡山の狐(古田刈村)
昔ある人が、町へ建前に行っての帰り途、折詰を自転車の荷台にくくって火葬場の曲がり角まで来たら、前方でガサゴソと音がしたと思った瞬間、自転車もろともに田の中へ放り込まれた。時既に折箱は無くなっていた。知り合いの人が通りかかってやっと人心持がついたと言う。
ちなみに、「前の火がたたかれたらうしろをたたけ。狐は後ろにいる。」という。
岡山の狐(長沢)
岡山稲荷の狐は砂まき狐である。昔、小学生がいたずらをしたので狐が腹を立てて、学校に何か行事があると必ず雨を降らせたという。
引用:『敦賀の民話民謡』
ここで見ると、「岡山稲荷」とあります。
「稲荷神社なんてあったか?」と思いましたが、ふと思い出しました。私は後に紹介する霊場の正面階段から登って山を一回りしたのですが、そことは別に行っていない場所があることに後に気づきました。先ほどのタブの木があった階段です。てっきりあそこは霊場への別ルートと思っていましたが、どうも電子地図を見るとあのタブの木の先に神社があるようなのです。もしかするとそこが岡山稲荷なのかもしれません。今度また行ってみようと思います。
伝説に触れますが、結構普通にありそうな現象を狐の仕業にしている感じですね。そう思うのは「小学校」とか「自転車」とか出てくるのでかなり最近の話と思うからでしょうか。
これも一つの伝説の楽しみという事で。
桜の名所、そして嶺南忠霊場として
参道と灯籠
さてここからは現地巡りの写真を多く載せます。
現地は現在嶺南忠霊場です。そして桜の山となっています。忠霊場が桜の山とは、なんとも。
さて、一旦小学校のグラウンド側へ戻ってみます。実はグラウンドの国道161号線側に現在も2つ灯籠が立っているのです。
うまく撮れていませんでしたが、灯籠の下に、写真に少し石碑が写っているのがわかるでしょうか。
「陸軍墓地」と書かれている石碑です。そして、この灯籠の間から先を見通すと、
岡山の正面階段が見えるのです。
向こう側へ行ってみましょう。
今はいけないようですが、昔は向こうが正面門で、階段まで直線で参道となっていたのでしょう。
参道を切り開いてグラウンドを作るとは…、いやいいのですが、結構大胆だなぁと。
はたして戦後と言えども日本人がそんなことをするのでしょうか。
岡山の忠霊場はGHQによって解体される手前まで来ていたといいます。それを良覚寺の住職が守ったという話があります。
GHQによる忠霊場解体の影がこの参道の消滅なのかも知れません。
想像ですけどね。学校は昔からこの位置にあったらしいですし。
岡山嶺南忠霊場の歴史や近代の秘話、昔の写真などについては、他の方々のサイトの方が詳しく述べられていますので、そちらをご覧いただいた方がいいかもしれません。↓
『桜花の絆 嶺南忠霊場(福井県) http://oukanokizuna.web.fc2.com/gunjinbochi/sanpai-fukui-reinan.html 』
私の記事は桜を合わせて見ていくことにします。本当は歴史についても郷土史で調べたんですけどね…。岡山忠霊場についてどこを探しても載っていない。見逃しているのか…?上のサイトの人はいったいどうやってこんなに情報を集めたのだろうと尊敬します。
忠霊場への階段
正面の大階段以外にも忠霊場への道は存在します。
ただ今回は大階段で行きます。
桜の花びらが散り始めています。階段の上部を覆う桜の木の先に、忠霊塔が見えます。
階段には散っていった桜の花びらが積もってゆきます。
それを踏みしめて、私は上へと階段を登ってゆくのです。
支那事変戦没者忠霊塔
到着です。写真を撮りやすいように少し斜めへ移動しました。
大きな塔です。言葉はそんなに必要ない。
弾を模した玉垣。階段はこうしてみると結構急です。あと高いです。
この正面の忠霊塔は支那事変戦没者の忠霊塔です。この南側には「合葬碑」が一つ。逆方向の北側へ延びる道沿いに行くとさらに合葬碑が並んでいます。
合葬碑と桜
手前から「満州事変陣歿者合葬碑」、「上海事件陣歿者合葬碑」、「明治卅七八年役戦病歿 将校下士兵卒墓」。
古からの墓所、散った桜を踏みしめて進む道・・・
古墳、陸軍墓地、忠霊場という経緯をたどってきたこの岡山は、古からの墓所であり、霊地だったのでしょう。
整備がなされ、桜が咲き、桜の名所となったことで、人々がこの場所に参りやすくなりました。
古墳の言い伝えから続いた祟りの話も、入ってはいけないものではなく、荒らしてはいけない場所としての認識であると思われ、霊を祀り、人々が参り、桜を愛でる今の形は墓所としての一つのあるべき形になって行ったのだとも思います。
舞い散ってゆく桜。
それが道となり、足場にしながら今の私たちは道を登り進んでゆくのでしょう。
参考文献
『敦賀郡誌』
『敦賀志』
『敦賀の民話民謡』
他参考
『福井埋蔵文化財遺跡地図』
WEBサイト『桜花の絆』
基本情報
最寄り駅 | JR敦賀駅からバスに乗り換え古田刈中バス停で下車徒歩3分 |
自動車 | 敦賀ICから6分 |
駐車場 | なし |
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