福井県福井市にある料亭「丹巌洞」。
歴史上の重要地でもあるこの場所は今、電話予約を取れば庭園を見学できる。駐車場も目の前にある松平春嶽や福井幕末藩士が集った場所でもあり、歴史の偉人が訪れた場所でもある。
今回はこの庭園内と見学可能の建物を撮影したので載せていく。
現在の丹巌洞
丹巌洞はいろいろなところで取り上げられている有名な料亭で、ブラタモリで取材があったということでさらに名が知れ渡りました。
朝の掃除をしていた方の話によると、秋になると頻繁にバスで団体がくるということです。また見学者も多いようで、皆さん好きに写真を撮っていくそうです。一応は許可を得たほうがいいと思います。
そんな丹巌洞ですが、もはや私がこの場で説明することはほぼないくらいに福井の様々なホームページにその歴史が書かれています。なのでここでは、写真撮影掲載許可を取ったものを紹介し、ここで行われた幕末の密会や宴会などに思いをはせて、現地の様子を紹介したいと思います。
※丹巌洞ネタバレとなります。
丹巌洞の歴史
丹巌洞の場所は古来笏谷石(青石)の産地として有名でした。
そこに弘化三年に福井藩医山本瑞庵がここに遊息地を作ったのが、丹巌洞の始まりです。
弘化三年福井藩医山本瑞庵此地を卜して遊息地を作り、赤岩の地名に因んで草庵を丹巌洞と称し、庭園並薬園を設け、名流の士と文墨の遊をなす。爾来九十余年の星霜を経て、草庵、庭園は荒廃したるも、往年の面目尚存して、半日の清遊に適せり。
(中略)
洞は山本瑞庵以来歴代福井藩医山本家の遊息地として十数年前(※)まで所有せしが、山本匡輔翁存命中、笏谷の石材商宮崎又作氏の有に帰し、所々修理を加えられたる様になるも、大体原型を偲ぶことを得べし。弘化三年以降、洞にて来遊して墨痕を留めたる名流の士には、松平春嶽を初とし、松平主馬、横井小楠、小原鉄心、森春濤、橘曙覧、橋本左内、中根雪江、高野真斎、鴻雪爪、王廷章、菱田海鷗、清人王治本等あり。時は幕末維新に際し、此等名流の士が文墨の清遊中に勤王精神の霊犀一点相通ずるものありという。
引用:『福井市史 : 稿本 下』
『福井県足羽郡誌 前篇』も同じ
(※)『福井市史 : 稿本 下』は発刊が昭和16年(1941)、その数十年前
鴻雪爪の『山高水長図記』の丹巌松濤の題には、文久二年五月八日に大垣藩老小原鉄心を迎えて清遊したとしています。
福井藩の藩政改革の重要地点であり、明治維新、近代日本へ繋がる人たちが集まった場所なのです。
門も風情があります。ここを多くの福井藩士がくぐったのでしょうか。
ちなみに普段はこの先から行けません。
無断入城お断りの標。
門をくぐると例の昔からの建物が現れます。
丹巌洞について
建物内部と構造
洞は創建当時は宅地百六十五坪、薬園百六十五坪、古松丘九十八坪、計四百二十八坪あり、洞は間口三間、奥行二間の土蔵造にして東西南の三方に一間ずつの下屋を設け、東の下屋は入口なり。入口の制札あり、裏に嘉永元年戌申孟夏中旬棒頭半兵衛とあり。福井藩が如何に此一小草庵を保護したるかを知ることを得べし。
(中略)
洞の階下は現在六畳二間にして床、押入、椽あり。階上は九畳半一間と一段下りて三畳の控間、便所などあり、天井は階上階下共葭簀張なりしも腐朽して紙張に改造したるところあり。結構古雅、襖壁等には名流の墨痕残存して懐旧の情濃かなるものあり。
引用:『福井市史 : 稿本 下』
『福井県足羽郡誌 前篇』も同じ
建物内の見学もできます。
入口入って正面に進むと展示室があり、書や道具、また壁や戸にも書が貼ってあります。
さらに奥にも部屋があります。
この部屋にも書が多く貼ってあります。囲炉裏あり。部屋自体には電気がないので日中でも薄暗いです。壁の壺みたいな形の窓?も面白き。
さて入口に戻り、入口入って横に階段があります。二階です。
中二階には、昔の足羽川がまだ丹巌洞ぎりぎりまであった時の絵が置かれています。
外観。
中二階に通じているであろう石橋。
徳川の葵紋。
庭園
お次は庭へ。
薬園は石材切出の為利用せられ、今十坪程の地に名残を留むるのみ。古松丘は右手の小丘にして古松蓊鬱の趣ありしが、二段の土地も今は一段に切下げられ、一株の古松は昭和九年福井宮崎病院長別邸古松庵の庭に残存せり。
引用:『福井市史 : 稿本 下』
『福井県足羽郡誌 前篇』も同じ
春嶽公は江戸で安政の大獄に遭い、数年謹慎の後に政事総裁となり、その後職を罷め福井に帰り半年滞在。この時に春嶽が丹巌洞に訪れたといわれます。入口付近に丹巌洞の庭園には春嶽公の石像があります。
松平慶永公像。「慶永」とは松平春嶽の元の名前です。
現在の所有者宮崎又作は、近年公の石像を園中に建設す、像背の文は福井図書館長石橋重吉撰。
引用:『福井県足羽郡誌 前篇』
先へ進むと良く写真にも載っているあの光景があります。
池と洞窟への門。この二つの門はつながっているので、後で回ります。
さきに外の方から見回ります。
男大迹王の旧跡の石碑があります。ただし「矢○清水」と文字が欠けており見えません。
その上の方には「矢放大明神」の石碑と祠が二つ。
もうすぐそこが住宅地。
上から見るのもまた良い物。
もう一度丹巌洞建物横まで戻って来て、その上にも高台があるので登ります。
高台には塔とがあります。塔は供養塔。宮崎又作の三子が大東亜戦争で陸軍兵長として死亡したためその供養のために昭和二十三年三月に建てられたもののようです。そう書いてありました。
さらに上があります。
謎のエリア。
謎の造物。これも笏谷石。
すべて笏谷石製。昔の石材が積まれています。春嶽公時代の物も混じっているのかなぁと思い馳せ。
こういう簡素な電柱も良い物。
静古山荘
さて、庭園続きに静古山荘という別荘後の区域に入ります。
現地の石碑にはこう書かれていますが、特にその境界とかはなく庭園の一部として地続きになっています。
福井藩老本多復斎も亦山荘を笏谷丹巌洞の南に築く、鴻雪爪之を名付けて静古山荘という、文久癸亥年松平春嶽の静古山荘記並慶應丙寅年静古山雅集記(春嶽道稿)あり、此荘現存せず。
引用:『福井市史 : 稿本 下』
『福井県足羽郡誌 前篇』も同じ
時折見える手すりもすべて笏谷石で作られています。
笏谷石採掘場跡
さて例の洞窟へ行きます。
なんだか少しだけ禍々しい雰囲気。
閉所恐怖所の人は少し怖いかもですね。
この部屋の先にまた部屋があり、そこが石切り場へ続く道。
今は水が溜まっており、先には行けませんが、ここから足羽山地下にある笏谷石採掘場まで繋がっているといいます。
明治大正の石切り場。戦時中は防空坊として使われていたといいます。
反対側の出口から見た様子。こちらはデザイン性に富んでいます。
墓碑と石仏。この法要・性根入れの際の写真が、先ほどの丹巌洞建物内の資料展示室に展示されています。
出口。「丹」と書いてあります。こう見ると本当に、門自体も岩壁の中に埋まっているのですね。
説明を少しだけ受けたのですが、石の採掘はだいたい丹巌洞建物前の階段に使われている石くらいの大きさで採掘されていたといいます。
門の瓦にも笏谷石が使われています。
こういった石碑や先ほどの塔などいくつかありますが、それらもすべて笏谷石製。また、庭園内にある造物、灯籠など変わった形のものがたくさんあります。それらもすべて笏谷石製。笏谷石の博物館とでもいえるでしょう。
そういった変わった石造物を見つけるのも、この丹巌洞での楽しみの一つといえます。
おそらく、九十九橋の橋脚だったであろう物があります。かつての九十九橋は半石半木。その石も笏谷石です。福井市内各所にその橋脚が保存されていますが、これもその一つと思われます。笏谷石製ということで、「ここに帰ってきた」とでもいえるでしょうか。
今の料亭
ご存じの通り、丹巌洞は今も料亭として営業しています。こちらの建物も立派ですが、こちらは料亭で食事する人のみ入れる場所です。
私が訪問した時も料亭内では準備が進められていました。
離れの方も普通に使われているようです。こちらでも準備が進められていました。
料亭の方については普通に検索かけると出てきます。
Rettyなどの口コミサイトにも載ってます。ネット予約はできないようですが。
基本情報
最寄り駅 | 福井駅からバスに乗り換え明里三差路で下車すぐ |
自動車 | 福井ICから14分 |
駐車場 | 道を挟んだ前に駐車場有 |
取材・参考文献
『福井市史 : 稿本 下』
『福井県足羽郡誌 前篇』
協力:丹巌洞
コメント