柴田神社の由緒と北ノ庄城址の歴史 ~勝家・お市最期の地【福井市】

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前回に引き続き、柴田勝家関連です。

(前回:柴田勝家の幽霊 ~九十九橋の首なし行列伝説【福井市】

実はあまり知られていないかもしれませんが、福井県福井市駅前に勝家とお市の最期の場所があります。二人の銅像も建てられています。

それが柴田神社の地です。

今回その柴田神社と北ノ庄城の歴史など見ていきます。

柴田神社

柴田神社

福井県福井市福井駅前の橋北の街中にたたずむ鳥居と柴田神社。

祭神:柴田勝家、お市の方
創建年は不詳。

かつて柴田勝家の城、「北ノ庄城」があったのがこの辺りだったようです。

創立年は不詳ですが、由緒というか伝説は言い伝えられます。
単に勝家とお市が果てた地だからというわけではないようです。

奇異の事あり。毎年勝家の自害せし日には杜鵑(ほととぎす)の聲を聞く等の事もありしを以て、此処に石祠を建てて勝家の霊を祀り
引用:『福井市史』

勝家の命日にホトトギスが鳴くことから勝家の霊を祀ったと。
勝家とお市の辞世の句には共に「ホトトギス」が出てきます。これにちなんでいるものと思われます。「ホトトギスが鳴くのは、勝家の霊が荒ぶっている」という解釈だったのでしょうか。

前回見てきた「九十九橋首無し行列の怪談伝説」でも、ホトトギスな鳴くころは行列が通るから夜は外に出ない。という事が書かれていましたので、それに通じるものがあるんじゃないかと思います。

以降藩政時代から明治時代までその石祠が祀られていたようです。

明治42年に新しい社殿を造営し、昔の堀を埋めてさらに神苑として広げていったようです。
大正7年に大火で焼け、大正11年に再建。
昭和20年福井空襲で焼け、再建。
昭和23年福井地震で崩壊。昭和37年再建

柴田神社拝殿

現在は結構入り組んだ通路になっており、さらに拝殿も大きくなっています。

現在の社殿は平成に再建されたものです。

柴田神社本殿

拝殿は大きく目立ちます。本殿はその後ろにあります。社殿の方はかなりしぶいですね。

ただ後ろにはビルがあり、街中にあることがわかります。街中と言っても福井の街中なので都会みたいなものではないですが・・・。

昔の柴田神社

前回の記事の首無し行列を辿っている最中に通った、「北の庄通り」にある説明板に昔の柴田神社の写真が載っていました。

明治頃の物のようです。今とは違い普通の神社っている感じですね。ただ、木々があり、そこは今とは違う良さがあったようです。

柴田神社碑

柴田神社碑

柴田神社境内にやたら古めかしい石碑があります。石の中に碑文の書かれた銅板がはめ込まれているようです。この内容が先ほどから登場する『福井市史』に記載されています。

結構長くて昔の文なのでここに書くのは控えますが、何が書いてあるかというと柴田勝家の功績だったり賤ケ岳後の勝家の動向、最期などが書かれています。この神社がある土地についても書かれています。
鳩が門内の杉田家邸のことや「松平春嶽」の名前が見え、どうやら
「杉田邸のあった場所にある祠の場所に松平春嶽他里人や官などが新しく社殿を建てた」みたいなことも書かれているようです。

功績には、足羽川に橋を掛けたとか、交通を整えたとかが書いてあるみたいです。

杉田邸は「首無し行列」でも出てくる屋敷です。

この碑文の最後に明治二十三年の文字が見えるので、その年につくられた碑のようです。

柴田神社碑松平
柴田神社碑裏

裏側には「昭和四十三年十月再建」と書かれていました。

今ある碑は再建の物のようです。銅板も再建なのかな。そっちは昔のままか?わからないです。

やはり福井空襲・福井地震の被害がありましたから昔の物はなかなか残らないですね。

それでも昔から伝わっている碑が今も伝えられているというのは良いことです。

北ノ庄城

歴史

北庄城

さて、何度も言っている通り、ここはむかしは北ノ庄城という勝家の居城があった場所です。

今では立派な石碑が建っています。そして、境内各所に石垣や説明板があり、城跡観光としても最適な場所です。

しかし、北ノ庄城の一番最初はさらに遡るとされています。

それも太平記に足羽七城の記載があり、「足羽城」というのがこの北庄城の事ではないかと、『福井市史』は述べています。
結構入れ替わっているみたいなので、その『福井市史』と『福井藩史話』を見てまとめてみます。

  1. 太平記に足羽七城の記載があり「足羽城」と記載。
  2. 朝倉氏が越前を治めるとき、一乗谷の他にこの地に一族の頼景という人物がおり、「北ノ庄氏」と称し六代の景行まで続いた
  3. 信長が朝倉を討った後、津田・木下・三澤の三奉行を置く。
  4. 三奉行が一向一揆に遭い、後一揆大将下間和泉が「足羽ノ館」と称して此処に滞在する。
  5. 天正三年に柴田勝家が来て現在に近い形になる。
  6. 天正十一年秀吉によって落とされた後、丹羽秀長・堀秀政・堀秀治・青木秀以が滞在
  7. 慶長五年徳川秀康が福井へ福井城建設の際、外郭にその遺構を用いる。

なかなか激動の城だったようですね。

ただ明確な場所が分かっていないらしいので、福井城のようにそれぞれが参考にして今の状態になっていったという感じなのでしょうか。

まあ、古いことなのでわからないことも多いのでしょう。

柴田神社城説明

英語も対応しているのです。グローバルです。

しかし石垣についての説明は、北ノ庄城というより、福井城のことが書かれていることが多いです。

なぜかというと、ここは福井城内でもあるからです。城内と言っても外堀の方です。松平時代の福井城(現県庁のある城)はこの北ノ庄城を基盤として作られているそうで、北ノ庄城の遺構が福井城建設の時に生かされたのだそうです。つまり、ある意味北ノ庄城は原形をとどめていないという事です。しかし、逆にそれのおかげで資材や立地の部分は今まで受け継がれているのでしょう。

石垣

柴田神社土台

今、境内のいろんなところで石垣が見えます。

神社整備の時に石垣も再整備したのかもしれませんが、資材はそのまま使っているのでしょう。そう思いたいです。

勝家お市と三姉妹

勝家お市の像と慰霊碑

柴田像

柴田勝家の像があります。

そして、慰霊碑もあります。

賤ケ岳で敗走した後、天正十一年四月二十四日、秀吉に攻略されます。勝家は家臣を外に出し、お市とお市の三人娘を逃がそうとします。ただ、お市は一緒に残るといい、三姉妹が秀吉軍へ引き渡されました。城内に二人だけ残り、火を放ち、まずお市を果てさせ、勝家は十文字腹で腹を切り、最期は一人で果てました。

勝家の遺体は燃えたのでわかりません。なぜ十文字腹で切腹したという話が残っているのか。誰も見ていないはずですが、そんな話が伝わっているほど「勇敢」な人だったという事でしょう。

切腹は背中辺りの大動脈を切らないとすぐには死ねないと言います。勝家は、自らの刃は果してそこまで届いていたのか。もし届いていなかったら。お市が果てている横で、城が燃える中、たった一人でもだえ苦しんでいたのでしょうか。そして最期は一酸化炭素中毒で果てたのか。考えれば考えるほど、この最期は、現代人の私にとっては悲痛なもののように感じます。

そしてこの場所が、その土地なのです。

お市と三姉妹の銅像

三姉妹像

銅像が多くあります。

先ほどの柴田勝家像に加え、お市の方、浅井三姉妹の茶々、初、江の銅像があります。

お市と浅井三姉妹はやはり一緒にいますね。彼女らもその後、激動です。
そんな時代だったんですね。

されここからは、境内の見所を見て行こうと思います。

稲荷社

柴田神社稲荷神社

柴田神社境内には稲荷神社があります。

実はこの稲荷神社、柴田神社よりも古いのです。
というのも、勝家が北ノ庄城を建てた時に祀ったのだと言います。

境内に稲荷神社あり、往古より北ノ庄城内鎮護の神として、殊に柴田公の氏神として崇敬厚かりしという。
引用:『福井市史』

勝家の時代からある稲荷神社で、勝家自身が祀ったということで、結構すごい稲荷神社なのですね。勝家が信仰知っていた稲荷神社がこうして現在も柴田神社境内にあるというのは素晴らしいことです。

『福井県神社庁』のサイトによると、天正3年に勝家が伏見稲荷から勧請して、町人からも信仰されていたとか。

柴田神社に合祀されていたこともあったようですが、また昭和にこうして別に社殿を建てて祀り始めたのだそう。良いことだと思います。

九十九橋

柴田神社九十九橋

柴田勝家が最初につくった九十九橋。この再現が資料館前にあります。

また今度別記事で九十九橋についてはやろうと思っています。

とりあえず今は、此処にあるという事を載せておきます。

無料資料館

柴田博物館

柴田神社社務所の横にある資料館です。

入館は無料で、午前9時~午後6時(年中無休)。
※一応他サイトでも調べてください。

二階に歴史や年表、写真、絵などがあります。
一階にも興味深いものがいくつかあるのでよく見て行ってもらえればと思います。特に九十九橋の橋の柱とか。

現代のご利益は恋愛とモテ祈願!?

お市

先ほどからちらちら写真にのぼりが映っていましたが、現在こんなご利益もあるみたいですね。

まあ、その、歴史をいろいろ振り返って見た者としては驚く変化ですね。
でもそうやっていろんな方法でこの地を繋いでいっているというのは、素晴らしいんじゃないでしょうか。

昔の信仰にとらわれず、でもある意味昔の信仰というか、言い伝えには沿ったご利益と祈願
絶妙に筋が通っている現代のご利益は、きっとこれからもこの柴田神社を伝えてゆき、勝家とお市を忘れないための、一つの「絆」となってゆくことでしょう

勝家とお市の最期の地で思う事

ただ純粋に、主君信長の遺志を継ごうと戦い続けた勝家は、信長に変わって天下を取ろうとする秀吉の抜け目ない策略に負けてしまったのだといいます。
※賤ケ岳においては前田の撤退と佐久間の暴走が大きな要因だったというのが、負けた大きな原因だったといわれていますが。

もしかしたら、戦略に於いて秀吉よりずる賢さがなく劣った部分もあり、負けたのかもしれません。でもそんな純粋な人だったからこそ「親父殿」と呼ばれたり、家臣に慕われ、お市も共に果てたのかもしれません。

そして、福井を発展させたことで福井の人々からも感謝され、こうして神社まで建てられ祀られています。

そして、北ノ庄西光寺にて、今尚手厚く供養され続けています。

それほど慕われた人なのか。供養だけにとどまらず神社に祀られた勝家とお市は、きっと北の庄の地の守護として、この地の人々の強い支えとなっていることでしょう。

【関連記事】西光寺と柴田勝家・お市の方墓所の言い伝えと見どころ【福井市】

参考文献
『福井市史』
『福井藩史話』

参考
『福井県神社庁』

情報(アクセス、駐車場)

最寄り駅は、北陸本線福井駅から徒歩6分
駐車場は、北陸本線の東側にあるようです。県道5号線の南側、北陸本線線路沿いにあります。駅前にたくさん駐車場があります。プリズム福井駐車場や北の庄近くのシステムパーク辺りが信用できそうです。

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