犬見軌道は鉱山鉄道として若狭和田駅から延びていた路線で、一時期は人の運送もしていたといいます。
昭和52年に廃止された廃線跡に遺構が残っているのか、2023年時点の様子を見ていきます。
犬見軌道(犬見鉱山鉄道)について
犬見軌道鉄道
大島半島の犬見鉱山ニッケル鉱を運び出すため、犬見から若狭和田駅までの4.7kmにわたって青戸入江に沿って敷かれた鉄道である。昭和十五年(1940)軍需物資として、ニッケルが貴重視されて開発されたもので、戦後は肥鉄土として耕地培養土に採用され、若狭和田駅から全国各地に送り出されていた。動力にはC160と1260の二両の蒸気機関車が使用されて三十二年頃までは運行していたが、五十二年(1977)十二月二十五日をもって廃線となった。
犬見鉱山
丹波の高地大江山方面から東北走して本郡に入り、高浜、和田を経て、ここにその北端を表している蛇紋岩の風化土がある。犬見鉱山は、これを主原料としている企業であった。
この風化土は中にニッケル、鉄、その他を含むので、戦時軍需資源として認められ、昭和十五年(1940)一月から日本火工株式会社(社長森暁)の経営で、最初はその若狭工場として発足し、多額の国費補助を受けて各般の施設が施され、一時は犬見の移住問題まで考慮される有様であった。
同区民はほとんど鉱山関係の業務に従うし、山林耕地等も大部分その用地に充てられるに至った。鉱山要因は犬見、本郷をはじめ各方面から採用されたばかりでなく、朝鮮半島の労働者の大量雇用も行われて、その最盛時には、2,605人(昭和二十年二月現在、家族をも含む)に及んだ。和田駅川鉄道の支線が現場まで引き入れられ、電線も引き込まれた。住宅や飯場が犬見、本郷、尾内の各所に数十棟も出来ていた。
最初は溶鉱炉の計画もあったが、これはついに実現せず、船舶又は鉄道で七尾方面や九州方面へ輸送されていた。この輸送船が帝国海軍と誤認されたのか、二十年七月三十日には本郷港頭も米機の機銃掃射や爆弾投下に見舞われた。
敗戦後は一時この土が肥鉄土として老朽田の回復に施用された。石灰製造と製材事業も取り入れられていたが、漸次縮小され、昭和二十四年、五年ごろに両事業は休止され、その施設は売却処分されてしまった。推定埋蔵量2,000万トンといわれている。
引用:『大飯町誌』
左端入江先端の辺りから大きくカーブして大島半島側(上の方の陸地)へ向かう線路が見えるでしょうか。それを山沿いに軌道が通り、右上端の犬見集落まで通っていたのが犬見軌道。
国鉄のトラ、トム、コトラなどの無蓋車を使用していたといいます。
戦後一部廃止。
昭和52年12月25日に完全廃止。
C160
昭和17年12月18日本江機械製作所製造。戦時中の製造で材質が悪い。揺れが大きい。インジェクターの修理には手こずり評判が悪かったという。戦後、加悦鉄道へ。後に京都市大宮交通公園に保存。
1260
大正12年日本車両製。簸上鉄道で使用。後に国鉄が買収。後に加悦鉄道。C160の後を受けて犬見へ来て活躍。昭和22年に富山の昭和電工へ。
参考:『鉄道友の会 福井支部 わだち』
http://railway291.html.xdomain.jp/7b.pdf
小川の橋台
若狭和田駅から国道を西へ220mほど行ったところにあります。
犬見軌道の痕跡が唯一はっきりと残る場所がこの橋台です。
最初からこんなことかいてしまうのもあれですが、犬見軌道の痕跡はもうほとんど残っていません。この橋台が在りし日の面影を残している。そういっても過言ではないです。
畑の中にあった盛土
中央の一段高くなっている部分。あそこが犬見軌道跡です。
この一帯は畑ですが、以前はこの畑を横切るようにして盛土が残っていました。
上の空撮の黄色い線の上に写っている道が廃線跡。赤丸がこの畑です。わかるでしょうか。盛土っぽいものが見えています。
しかしながら現在撮影した写真を見ての通り、現在はその盛土は削られています。
別日に正面から取ってみました。
もう完全に畑化しています。中央の家の間に抜ける道が犬見軌道です。
住宅道路
先ほどの向こう側は住宅の道路となっています。
なんとなく廃線跡の雰囲気があると思います。
奥に見えるのは安土山です。
安土山麓カーブ
桜などの花が咲く安土山の麓にそれらしいカーブがあります。
現在は住宅地として整備されています。遺構は残りませんが、地形として残っている感じです。
カーブ先の小径
軽自動車一台がようやく通れそうな道を進みます。幅的にも昔の車両が通っていた痕跡なのかと思います。桜の木があります。
その先は直線。
ただやはり廃線の線路や杭などの遺物はありません。
歩行者専用道路
先ほどの道を進むと歩行者専用道路につきます。この辺りには最近まで、道の傍らにレールが置かれていたようですが、2023年現在ではそれも既になくなっていました。
もう何もありません。
ちなみに自転車は私のではありません。
この先、車道と合流します。
もうどこが廃線跡なのか完全にわからなくなります。
関電社宅付近の盛土?
関西電力社宅付近の県道266号線山側の路肩が少しだけ盛り上がっています。
これが廃線跡かと言われるとなかなか怪しいものですが、一応ここに記録しておきます。
戦後の終着1.7km地点
戦前犬見軌道は犬見までの4.7kmの鉄道でしたが、戦後はその長さを大幅に縮小して1.7kmの軌道となりました。その1.7km地点が原子力技術研修センター前辺りです。戦後もここまでは軌道が敷かれており、採掘がされていたのです。少なくとも昭和37年国土地理院発行の地図には記されているそうです。
現在ではその遺構すら残っていません。
地形もほとんど崩壊しています。今ではどこが線路跡でどこが駅跡なのか。全く分かりません。
道中に置かれた物たち
ここからは犬見軌道跡に落ちていた意味ありげなものを紹介します。
石杭
犬見軌道跡沿いに結構な数の石杭がありました。
他の方のサイトで犬見軌道に関係があるのかともいわれていた、「六芒星のような形に中心に丸が彫られている図形」がかかれた石杭です。
しかしながらこの図形は、犬見軌道ではなく「高浜町のマーク」なので、犬見軌道には直接は関係ないと思われます。今も高浜町の公式サイトにこのマークは載っています。
枕木と思わしき遺物
鉄道の遺物が和田駅近くの橋台のみと思っていましたが、県道沿いを歩いていると枕木のような木が唐突に一つ落ちていました。
確定ではないですが、これはそうなのではないでしょうか。しかも、2つ目もありました。
目を凝らすと道からでも見える位置に落ちていたので、行ってみると見つけられるかもしれません。
線路跡?
道路を歩いていると所々一段高くなっている平たい場所が道に沿って形成されているのが認識できます。
ただよく考えたら、この辺りの軌道は戦前までしか使われておらず、こんな木も生えないくらいにきれいに残っているはずがないと思い、これは廃線跡ではないのではないかとも思えます。
真実は不明です。
犬見終点
そうこうして歩いていると犬見まで来ました。ここからおおい町に入ります。
もうすぐそこが犬見集落なので、ここが終点付近です。ちなみに、かつては左の山沿いにかけて海岸線でした。奥に見えるソーラーパネル付近もかつては海だったのでしょう。だいぶ埋め立てられているようです。
道沿いには一段高い平地がまたもや現れますが、位置的にこんなところに鉄道が通っていたのか不明です。もっと山側、今の木々が茂るあたりに通っていたのではないかと思いますが…。
それでも犬見にはいれば入るほど、その意味深な平地が線路跡ではないかと思わされます。
明らかに何かあったであろう平地が山沿いに形成されています。
しかも、少しかき分けて足元を見てみると、石積みが出現しました。
これはより信憑性が出てきてしまいます。
犬見軌道を探しながら、それがなくなっていると考えているのに遺構の証拠と思わしきものが見つかってしまう。このよくわからない状況。
今私が立っている場所はかつて海の中。その山沿いに犬見軌道があったのか。山の上となると斜面が舗装されているさらに上?そんなわけないか。
だったらやはり、麓付近の藪が茂っているあたりなのでしょうか。
この先も遺構は完全に消滅。
ただ、空撮を見ると、終着駅だったであろう場所が地形で残っていそうな部分を見つけました。
犬見軌道は犬見の平地の西端付近を斜めに侵入してきているようです。すると、空撮で見た西端の斜めの地点。
上の黄色で囲った意味ありげに斜めになっている地点。ここが犬見軌道の終着なのではないかと思うのです。
ただし遺構はありません。
犬見軌道の認知
犬見で写真を撮ていると、昔原電に勤めていて30年以上この辺りに住んでいるという人に出会いました。ちょうど今通ってきた和田あたりの軌道付近に住んでいるそうです。
その方によると
鉄道がこの辺りを走っていたなんて聞いたことがない。
路線の跡も見たことがないし、昔から住んでいる人からも教えられたことがない。
といいます。
この方は以前、安土山の姥捨て伝説に関わるであろう大島の歴史を教えてくださった方です。
そんな方が「見たことも聞いたこともない」とおっしゃっているので、これは本当に地図に載っているだけで戦後は運用されていなかったのではないかとも思ってしまいます。
今まで見た通り、もはやこの犬見軌道が歴史の陰に隠れいずれ完全に忘れ去られてしまう未来も遠くないかもしれません。そうならないためにこうしてWEB上に残していく人が他にも多くいてくれたら心強いですね。
参考文献
『大飯町誌』
『鉄道友の会 福井支部 わだち』
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