福井県高浜町和田に「蛇塚」という室町時代ごろの五輪塔があります。
今回、この「蛇塚」にまつわる伝説と歴史的由緒について見ていきます。
また、この塚の現地にも訪れます。
蛇塚の伝説
「蛇塚」。
いかにも、伝説民話界隈のにおいがする名前です。
まずは、その伝説について見ていきます。
大蛇退治の供養
昔カンギョウ谷に大蛇が住んでいて里人を害することが度々あったので、これを退治してその供養のためにこの五輪塔一基を建造した。 引用:『福井県の伝説』 |
カンギョウ谷とは今の「片谷」の事のようです。
名前通り、蛇の塚だという説です。
『若狭高浜のむかしばなし』では、「昔話」なので、こちらの説を詳しく語っています。
「逸見氏」の塚
高浜城城主逸見氏が討死して、その供養に建てられた。 「逸見塚(へんみづか)」だったものが、なまって「蛇塚(へびづか)」になったのではないか。 参考:『高浜町誌』『若狭高浜のむかしばなし』『若狭和田郷土誌』『わかさ高浜史話』『越前若狭の伝説』『福井県の伝説』 |
こっちの伝説は、歴史・史実寄りの伝説ですね。
先ほどの大蛇退治とは全く別な感じです。
この逸見塚説については、後で少し詳細に見て行きたいと思います。
どちらにしても、というよりどちらの説もあるので面白いです。では見ていきましょう。
どこにあるのか
まずこの蛇塚の在処や姿として、各郷土史に以下のことが書かれていました。
- 和田地籍の田園の中に偉大なる五輪塔が一基露出している。
- 約六尺(2メートル)四方の玉垣で囲んであるが現今は泥の中に没して見えない。
- 真乗寺の裏手(南方)。国道に面した一角に所在。
さらに、高浜町の「ドコイコ!ナニシヨ!ミニツアー」という公式ウェブサイト内の「京都の避暑地「和田地区」のぶらぶら歩き」という2014年ごろに作られたらしいマップを参考に見ると、
この国道27号線沿い、真乗寺のちょうど南に位置する、「第1和田踏切」の南側すぐ横にあったようです。
ただ、今はその姿は見られません。
さてどうしたものか。
現地の方に尋ねるしかないですね。
今は、小学生がやっている田んぼの敷地内にある。
和田工業と書いてある建物の目の前にその敷地があって、その中に五輪塔がある。それが蛇塚。
以前は踏切の横にあったけど、邪魔だからと向かうに移動した。
ということでした。
というわけで、真乗寺裏から約1km歩いて、
WADA工業という建物へやってきました。
この道中、ゲートが多くて踏切から近道ができなかったのが難点でした。
とにかく、このWADA工業の建物前には、たしかに仕切りがされている敷地があります。
正面右手に石塔が見えますね。これが探し求めていた五輪塔です。
ちなみに、ここはビオトープらしいです。
蛇塚の五輪塔について
なかなか立派な五輪塔。
最初見た時、新しい素材か?とも思いましたが、上半分の黒くなった部分は風化が進んで剥離しているようなので、確かに古いものなのでしょう。
室町時代後期のものとされ、昭和47年9月25日に高浜町文化財に指定。
『若狭和田郷土誌』によると、元は山際にあった様で、踏切横に移動したようです。つまり、また山際へ移された今。なんだか転々としてますね。
それにしても、現地には説明も何もないのは、なんだか不安になります。
本当の由緒は「逸見一族」?
高浜逸見氏とは
さて、この五輪塔の2つ目の説で出てきた「逸見一族」。
そもそも逸見一族とは、かつて若狭高浜周辺で大きな力を持っていた一族で、「若狭武田氏」に対して「高浜逸見氏」だったといいます。
『高浜町誌』によると、園松寺本系図に若狭逸見氏の祖「逸見貞長(またの名を三郎俊越中守)」が、大飯町大島へ入った後、高浜へ移ったと書かれているようです。永世年間(1504~1520)とあるようですが、山城逸見氏の出生は明らかにされておらず、真偽不明となっているようです。
逸見氏は各地に存在し、源氏平氏を名乗るところもあるようです。
逸見氏の本流は、清和源氏武田の支流、甲斐国巨麻郡逸見郷から起こったと。
若狭逸見氏の源流は、甲斐逸見氏と同族とされ、承久の変以降武田氏五代信光が安芸へ配属後、武田氏被官人中一門衆として共に転々としていたようです。
と散々書いてきましたが、同誌によると園松寺本系図に書かれているのは若狭逸見の本流ではないそうです。
この辺り、歴史が詳しい方じゃないとわからないです・・・。
武田氏と逸見氏は南北朝の時、足利尊氏側で共に戦ったと。逸見はその時いち早く武田信武のもとに参陣していたといいます。
逸見も武田も多すぎて素人の私ではわけわからなくなってしまいますが、とにかく高浜で絶大な勢力を誇っていたのが、この「逸見氏」なのですね。
その「逸見」の塚が今回のこの「蛇塚」と思われるとのことなのです。
「逸見塚」説の詳しい由来
それを踏まえて、先ほどの五輪塔「蛇塚」の「逸見塚」説を見ていこうと思います。
郷土史によって、書き方はそれぞれ違いますが一応簡単にまとめときます。
- 天正四年(1576)逸見信濃守が佐分利石山城主武藤上野介の奇襲で戦死した際の墓。『わかさ高浜史話』
- 高浜城主逸見氏の墓。『福井県の伝説』『越前若狭の伝説』『若狭和田郷土誌』『若狭高浜のむかしばなし』『高浜町誌』
- 高浜城主逸見昌経が小浜から謙庵船で和田入江に差し掛かった時、何者かに船が沈められ、殿様や家来がこの付近で亡くなり、その供養の塚。『高浜町誌』
中でも、詳しく書いているのは『高浜町誌』でした。
上の「謙庵船」説では、この沈没の後、謙庵船がここを通り時決まって雨風が激しくなるので舟人達は恐れたと言います。
が、『高浜町誌』には、ちゃんと史実になぞらえたことも書かれていました。
室町末期、永禄天正の頃、逸見昌経は高浜八穴山に城を築いていた。
天正四年、若狭小浜の武田右京亮義頼の病症悪化を織田信長が知り、その期に乗じ逸見氏に討伐を命じる。昌経が病を患っていたため嫡子信濃守を大将に三万騎余りを差し向けた。これを武田の家臣武藤上野介に察知され、奇襲を受ける。合戦に敗退し、大将は討死した。
参考:『高浜町誌』
(明智軍記を参考にしているようです。)
その討死した辺りに五輪塔を建てて弔ったのが、この「逸見塚」だといいます。
一応、上の1番目2番目の逸見塚説も間違ってはいないようです。
ちなみに「高浜八穴山」とは、高浜城址の事ですね。
「高浜八穴」とは、城山公園の有名な「明鏡洞」を含めた8つの穴の事です。その城山一帯が高浜城址という事です。
というか、あれ?
武田と逸見って、同志だったんじゃないんでしょうか?
もうわけわかんないです。史実になると難しいですね。
ちなみに、同じ和田区の馬居寺というお寺には、戦国時代の石仏群が安置されています。
この石仏群にも通ずるものがあるようにも思いますね。
さらに、馬居寺とは別の場所にも似たような石仏群があります。
それが、逸見氏の居城である高浜城址の中です。高浜城の記事内でも写真を載せました。これははっきりと由来は調べられていないのですが、どうも馬居寺のものと似ていて、関係あるんじゃないかと勝手に思っています。
いずれにしても、高浜城址とのかかわりが深いです。一応城山公園については2つに分けて紹介しています。個人的に観光地としておすすめの場所です。
伝説と史実のロマンと室町時代の息吹
和田の町はずれにある五輪塔「蛇塚」。
その伝説らしい名前の通りの伝説を伝えたかと思えば、史実をも伝えているという石塔。
これだけ多くの話を背負いながら、看板も案内もない中、そこに立ち続けます。
伝説のロマンと、室町時代の歴史の息吹を伝えて。
参考資料
『高浜町誌』
『若狭高浜のむかしばなし』
『若狭和田郷土誌』
『わかさ高浜史話』
『越前若狭の伝説』
『福井県の伝説』
基本情報(アクセス、最寄り駅)
最寄り駅は、JR小浜線若狭和田駅。徒歩6分。
自動車では、大飯高浜ICから7分。
駐車場はありません。
付近には『ハローベーカリープリーズ』という和洋菓子とパンの店があります。
さらに蛇塚の山の反対側には、先ほど紹介した聖徳太子創建と伝わる「馬居寺」というお寺があるので、こちらもあわせて訪れると良いと思います。
コメント