本郷軌道(若狭本郷駅~父子)廃線跡と地元の方の話【おおい町】

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福井県おおい町の若狭本郷駅からかつて延びていたとされる本郷軌道。

その廃線跡を辿ります。地元の方の話や海元寺周辺の廃線遺構。

郷土資料から歴史と廃線を探していきます。

本郷軌道の歴史について

『大飯町誌』

まず基本的な情報として、『大飯町誌』から引用させてもらいます。

本郷軌道
 本郷佐分利川河口から、上流の野尻と父子まで、堤防右岸を利用して敷設された延長五・二キロのミニ鉄道である。
 明治四十二年(1909)四月本郷村議会は村松巳之助村長の提案する軌道敷設権を獲得した中村源蔵ほか数名による資本金四万円の本郷軌道株式会社を設立、起動の敷設に着手したもので、その運行は大正三年(1914)ごろであった。
 軌道幅が667㎜の極端に小さな人力鉄道で、貨車はトロッコ二十両を使用し、野尻三光鉱山の「からみ」と父子から出る石灰やその原石を河口まで搬出して、消石灰や生石灰の製品を本郷港で船積みして各地へ送り出していた。また、上流の三国製糸工場へは本郷港へ荷揚げされた燃料の石炭を運びあげていた。
 大正十年国鉄小浜線が開通すると、本郷駅構内への引込み線の敷設を願い出て許可を受け、同年末から製品輸送を船便から鉄道に切り替えた。
 昭和二十二年動力にバッテリーカーを用いたが、石灰の需要が伸びなくなり生産量も激減したため二十九年(1954)十月五日付で廃止となった。
引用:『大飯町誌』

以上基本的な情報です。

ではここからさらに深く掘り下げていきましょう。

『父子の民俗』

父子の郷土資料であるという『父子の民俗』にさらに詳細が載っているといいます。

それによると、

父子の石灰業は文政年間から始まり明治頃に繁盛。
元は山の石灰窯で焼いて大八車で運び佐分利川を船で下って運んでいた。
男が「のみ」「せっとう」で直径5㎝の穴を3m以上1日2日かけて掘る。その穴にダイナマイトをかけて発破する。下にいる人が石を砕き直径30㎝くらいにする。「オオワリ」という20㎝以上のハンマーで砕く。女は原石の周囲の石を取る。これを「アカトリ」という。
昭和20年ごろまで日当1円前後。賃金は盆と正月にもらう。朝8時に家を出て8時半~夕方5時ごろまで働く。働く人は20代~40代が多かった。父子以外からも野尻、山田、万願寺からも来ていた。
「たもの木」の横のお社が信仰されていた。

『父子の民俗』に描かれている図には、たもの木の前で分岐している。
山の途中までトロッコで上がっていき、そこから滑車のようなもので上げていたようだ。
トロッコは当時手引き車のようなもので、幅1.5m、長さ2m、深さ30㎝の貨車に紐が付けられており、その紐を肩にかけて人間一人で操縦していたようだ。

本郷に工場が出来てからは工場から本郷駅へと繋がっているトロッコを利用して運び出されていた。船もあった。石灰を焼く石炭は敦賀あたりから来ていたという。

『新わかさ探訪』

まとめます。

『新わかさ探訪』によると、文政年間に始まったのは肥料などに用いる石灰(いしばい)を製造したことに始まるという。明治三十年に山の工場から佐分利川河口の工場がメインになったと書かれている。
最初は採石場付近から佐分利川沿いまで軌道を設けてそこから河口まで船や大八車で運ぶ。明治四十二年に地元で会社が設立し、父子から河口まで佐分利川右岸堤防に延長5.2kmの軌道を敷き大正三年に運航開始。軌道幅667㎜、戦前は人力や牛馬でトロッコを動かす。戦後に河口から海元寺まで蓄電池式機関車(バッテリーカー)を連結して走った。大正十年に小浜線開業、船から鉄道輸送に切り替え石灰工場から本郷駅に佐分利川を渡る木の橋の軌道を増設。駅の北側にトロッコから小浜線貨車へ製品を積み替えるホームと引込み線が設けられる。
後に化学肥料の発達により衰退。昭和の初めに衰退し戦争で男手が足りず休止。昭和二十三年に生産が再開するも採算取れず同二十六年八月に停止。起動も撤去される。
父子では義務教育を終えた男子はこの石灰山に働きに行くという。専業の人も農閑期にだけ行く人もいたという。
山の中にもトロッコ道や急斜面を上り下りするケーブルがあったという。

『鉄道友の会 わだち No.7』

まだ出ていない情報だけまとめます。

昭和二十八年九月の台風13号で佐分利川が氾濫し、起動が大損害を受け昭和二十九年十月に廃止。父子バス停より少し上流に、大正に三国製糸工場が操業し、燃料用石炭を輸送するために利用されていた。昭和に入って工場も閉鎖、軌道も使用されなくなった。
昭和22年頃にバッテリーカー2台(2.5t)、貸車20両を所有。

現地の人の話

現地取材で有識者にお話を伺うことができました。

  • 父子バス停の下あたりから河口の工場まで続いていた。
  • 戦後もあったが、昭和二十八年の台風の時にすべて流れて、その時が本当の終わりだった。それを機に本郷軌道は完全に終わった。
  • 山の海元寺あたりにすれ違うための段になっている場所があった。
  • 20代から働いていたという。
  • 滝の神社という場所があり、また鉱山の安全のための金山神社もあった。雪崩で崩れた時があって、それでその神社を無くすことになったが、その時に調べたら鉱山の安全祈願であるということが分かったという。
  • 父子にとって重要な記憶であるはずの石灰業の歴史だが今は薄れてきているように思える。

本郷軌道のトロッコ道を追って

空撮から

出典:国土地理院撮影の空中写真(2004年撮影)を加工して作成
出典:国土地理院撮影の空中写真(2004年撮影)を加工して作成
出典:国土地理院撮影の空中写真(2004年撮影)を加工して作成
出典:国土地理院撮影の空中写真(2004年撮影)を加工して作成

引込み線とガソリンスタンド

若狭本郷駅に引込み線があり、ガソリンスタンド付近がトロッコの道で積み荷の場所であったとされているそうです。

佐分利川河口と若狭本郷駅のほぼ中間に、専用荷積場が設けられていた。現在では国道27号線に面してガソリンスタンドに変っている
引用:『鉄道友の会 わだち No.7』

本郷軌道

今は二面二線の若狭本郷駅。

本郷軌道

少し東にガソリンスタンドがあります。この先に石灰工場へと繋がっている専用線があったのでしょう。

本郷軌道

石積み。

本郷軌道

広い敷地です。

石灰工場跡

本郷軌道

佐分利川河口。向こう側に石灰工場がありました。

本郷軌道

佐分利川を渡り、ここから南へ進みます。

本郷軌道

佐分利川左岸から北方向へみた石灰工場跡と小浜線。向こうが海。

廃線跡

本郷軌道

向こうが海。この堤防はもう完全に形は変わっているでしょう。

さてここからちゃんと南方向を向いてゆきます。

小学校付近

本郷軌道

小学校付近。向こうの変わった形の建物の奥に小学校があります。

堤防の廃線跡

本郷軌道
本郷軌道

堤防の陸側の一段下を通っていたといいます。今では形も変わっているでしょう。

父子バス停付近(ここから父子へ折れる)

本郷軌道
本郷軌道

父子バス停。ここから本郷軌道は父子方面に折れます。その前に三国製糸工場を見ておきましょう。

三国製糸工場跡

本郷軌道

いまは佐分利川公園となっています。

さてバス停まで戻って父子方面へ向かいます。

               

父子方面へ

本郷軌道

奥が父子。山の中へ入ってゆきます。

辻堂付近で山の中へ折れる

本郷軌道

ここから左に折れていたのかな。

右奥に見える赤い屋根の小屋が辻堂。あそこがたもの木の祠なのでしょうか。

1927(昭2)2.5万地形図本郷軌道
出典:国土地理院2.5万地形図1927(昭2))を加工して作成

ここが道と本郷軌道(山沿いに入っていく道)が分かれている所だと思われます。

山に在る石積み

本郷軌道

父子集落の山際に残る意味深な石積みと段。

海元寺に残る「トロッコ道」

本郷軌道

海元寺。階段の途中が平坦になっている部分があります。ここがトロッコ道といわれる場所です。お寺の方も地元の識者も「トロッコ道」とおっしゃっていました。

本郷軌道
本郷軌道

しっかりと狭い道が残っています。石垣も立派なものです。この微妙な位置に石段が設けられていることが最大のトロッコ道の名残といえるでしょう。

本郷軌道の現在のまとめ

ご覧くださった通り、本郷軌道は現在、ほとんど残っておらず、名残が残るのはもはや海元寺のみとなっています。道も変わり、堤防も変わり、当時の面影はなくなってしまっています。

今も残る数々の証言、海元寺の廃線跡、郷土資料に書き留められている史実。これだけが本郷軌道を今に見ることのできるものとなっているようです。

参考文献・協力

参考文献
『大飯町誌』
『父子の民俗』
『新わかさ探訪』
『鉄道友の会 わだち No.7』

取材協力
父子の方々



 

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>>鉄道・廃線

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