福井県敦賀市沢に地蔵が安置される場所があります。この地蔵はかつて気比神宮付近の川に橋として架けられていたという、地蔵石、いわゆる地蔵橋でした。その後転々として、今はこの沢に祀られているのだと言います。
今回はその地蔵橋の伝説を見ていくと共に、現在の様子を記録します。
地蔵橋(地蔵石)の伝説
地蔵石
むかし敦賀の神楽通り気比神宮前を人夫が何十人がかりで、大きな石を大八車に載せて引いていた。その時通り合わせた田結村の柿谷平太夫とその弟の平六のふたりが、この石運びを見て、からかい半分にその石に右手を当てた。ところがその車が動かなくなったので、人夫たちはかんかんになって怒った。けれども評判の大力のふたりは、こんな石に何十人の男がたかっているのか、おかしくてたまらない。人夫たちにたずねると、近くの橋に架ける橋げたの石だという。ふたりは人夫たちにいった。「ではこの石を、その橋まで運んでやろう。それでわらを七丸持って来い。」人夫たちはけげんな顔付で、この二人を見つめていたが、中のひとりが、「ではふたりで運んでみろよ。」と、わら七丸を用意した。すると弟の平六が、「兄貴、しばらく持っとってくれ。これを背負って運んで来るから。」と、造作なく背負って立ち上がり、さっさと歩きだした。町の人たちは、その大力に見とれて感心していた。後にこの石に地蔵尊と平六の名を刻んで、橋のたもとに立てた。
今もその石を地蔵石と言って、敦賀市元町の一隅に、祠を建てて祭ってある。今考えると、この地蔵石は、気比神宮の境内に沿うて流れるみたらい川の地蔵橋にかけてあった石に違いない。此岸から彼岸に導く地蔵尊を刻んだ橋石だったのである。
引用:『越前若狭の伝説』
地蔵橋
(略)
地蔵橋は気比神宮の傍を流れる御手洗川に、かけられていた石橋であった。由来書によると、宝暦四年のころ「夢の御告ゲニテ橋ニナリテ衆生救済ヲシタイトノ再三ノ御告ゲアリシヲ以テ」金ヶ崎の方から移されたと記されている。その折、田結の柿谷平六という力持ちが、藁七丸を背に当て、軽がると地蔵石を気比神宮まで運んだという。むろん地蔵の功徳をものがたる逸話である。
誰が夢のお告げを聞いたのか、衆生救済を誓願したのは、他でもない地蔵であった。だがその橋が地蔵菩薩の化身であることは誰ひとり知る由もなかった。
気比神宮に参詣するたびに、人々は地蔵橋を渡った。ところが、牛馬をひきつれて渡ろうとすると、どうしても橋の前で一歩だに動かない。調べて見ると橋の裏に地蔵のお姿があった。それと知らず人はお地蔵さまの背中を踏みつけて、平然と神詣でをしていたのである。
神社に地蔵はふさわしくないとて、その後、地蔵橋は市中を転々とし、現在、敦賀市沢の民家に祀られている。新西国八十八所第一番霊場である。石にも石の運命というものがあるのだ。
引用:『あどうがたり』
この地蔵尊は、最初はただ祀られていただけの様にも書かれていますが、どちらにしても地蔵橋として架けられていたという事実はあるようです。
地蔵橋の伝説は福井にいくつかあれど、主に嶺北での伝説は、織田信長の越前侵攻によって、そのあたりにあった地蔵を信長が橋にしたという伝説がよくいわれているものです。ですが今回の伝説は、そうではないようです。ここで嶺北と嶺南の違いが出ているようにも思います。
ただし、地蔵橋というもの自体に肯定的な様子というわけでもなさそうというのが印象でもあります。
現在の地蔵橋

現在の地蔵橋は沢のとある場所にあります。
場所はこのホームページ上には書けないのですが、不思議な場所にある、ということだけお伝えします。
一件ただの小屋の様にも見える建物の中に入ると、そこは確かにお堂でした。

そして中は、まさに信仰の場。拝む場所もある、立派なお堂です。
地蔵橋は、橋に使われていたという伝説が残るだけあって、思ったよりも大きく、黒ずんでおり、姿はよくわからなかったのですが、たしかにこれが地蔵橋であるということは、『あどうがたり』に載っている写真と見比べれば確認できます。

敦賀市の方から提供いただいた資料に下記のものがあります。
一番 蓮池辺り 地蔵尊菩薩
はすいけのほとりのはしのぢぞうそん ぶじでこのよをわたせてたまへ
敦賀市街を東西に走って、松原地区と東郷地区を結ぶ道路が、国道八号線と交わるところの一角に気比神宮がある。
蓮池は、気比神宮の鳥居の南側の道路辺りにあった。その蓮池のほとりにお地蔵さまがまつられていた。蓮池のそばに細い道があって、舞崎や東郷村の方へ通じていた。町に立つ朝市に、農産物を売りに出るお百姓さんたちは、帰り道、きっとこのお地蔵さんに立ち寄った。朝早く収穫したなすびやきゅうりが、思ったよりも高く売れると、帰りには、おかしを買って帰ったものである。孫のよろこぶ顔を見る前に、お地蔵さまにお供えし、あすもまた無事で朝市に出られるように、お願いしたのだろう。
それが、空襲を受けた昭和二十年、このあたり一帯丸焼けになってしまった。お地蔵さまも焼け出されたようである。そして、土地も心もすさんでいた当時のこと故、見返る人もなく、倒れたまま転がっていた。それが、終戦後石垣を積みに来た人に発見され、本町一丁目の玉川旅館の前あたりに安置され、老婆がお世話していたが、老婆が亡くなられて、現在は、金山にまつられている。
いつの頃から蓮池のほとりにまつられてあったのか、知る人もないが、もしかすると、六百五十年もまえ、遊行上人が、気比さんの低いところへ砂を盛っているのを、見ておられたかもしれない。すくなくとも、松尾芭蕉が、
涙しくや遊行がもてる砂の上
と詠んだ頃には、にっこりほほえんでおられらと思う。しかし、縁起では、宝暦四年(1754)金ヶ崎方面にあった地蔵橋を、夢のお告げによって、気比さんの横の川にかけるため、田結の平六なる人がわらを七まる背あてにして、この自然石のお地蔵さまを運んだという。
霊験あらたかなお地蔵さまだけに、信者もまた多かった。講をひらいて御詠歌をあげ、一日の苦しみや、雑念をすっきり洗い流して、あすからの幸せ多い生活を願う人たちが、毎月、日を決めて集まったという。
苦しい戦争の地獄の世界を見て、第二の場所に移され、そして今、経済成長に伴う、人々の諸行を見ながら、第三の場所に移された。いつの世にあってもお世話する人が、きっと出てくるものである。新しい土地にまつられはしたが、おまいりする人は、あとをたたないという。やがて信者の数も増えてきて、お地蔵さまの相のように、円満なにこやかな講ができ、御詠歌の声が聞かれることであろう。
新しく作られたお堂が、昔の営所の前あたりにある。毎日たかれるお香のために、高さ一・七メートル、横一・二メートルほどの自然石が、黒ずんでいる。お姿は、はっきりと拝めない。衆生済度のお地蔵さまは、きょうも若い信者の願い事を、じっくりと聞いておられた。
蓮池のほとりのはしの地蔵尊 無事でこの世を渡せて給へ
引用:『お地蔵さま 若越八十八所を尋ねて』
何度も移転された先に、今ある地へ。今後も移り行く可能性もあるのでしょうか。
忘れ去られないように
なんとも不思議な場所にあり、はたから見ただけではお堂だと分からない様子。しかし中を見ると、たしかに信仰は続いているということが認識できます。
一見してお堂とわからない、また入りづらい様子でもある現在の様子。そのうち忘れ去られてしまうのではないかという考えがよぎってしまいますが、どうにかこの地蔵橋を伝承して、ここにあるのだということを伝え続けていってほしいものです。
参考文献
『越前若狭の伝説』著者杉原丈夫 出版1970
『あどうがたり』著者金田久璋 出版2007.5
『お地蔵さま 若越八十八所を尋ねて』著者森田和夫 立花恵秀 出版昭和51年12月
資料提供
敦賀市


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