1つとや、ひとかたならぬ浦見坂、なにが御普請、そりゃそうさ。
2つとや、ふたたびいやの恨み坂、名を聞くだにも、そりゃそうさ。
3つとや、右も左も崩れ出て、中々御普請、そりゃそうさ。
福井県三方上中郡若狭町気山と美浜にある浦見川(浦見運河)。水月湖と久々子湖を繋ぎ観光地の一部で、数え歌や歴史逸話も伝わる名所です。
誰が作ったのかというと、かつて、行方(読み方は「なめかた」)久兵衛という奉行が「浦見坂」と呼ばれる坂があったこの地を開削し、浦見川という排水路を作り上げました。
その浦見川には不思議な枡形が彫ってあると言います。
今回、この桝形と水路開削工事の際のお話、浦見川の現在を見ていきます。
どこにあるのか、どんな場所か
浦見川があるのは、福井県三方上中郡若狭町気山と三方郡美浜町久々子飛び地の重なる場所です。
水月湖と久々子湖を繋ぐ水路になっています。
付近には気山駅があり、宇波西神社を北上していくと行きやすいです。
浦見川の枡形
まずはこのサイトで取り上げるにあたって、伝説(ここでは「逸話」)を見ておこうと思います。
その名も「浦見川の枡形」。
どういったものかというと、浦見川の中央東側の岸壁に1辺の長さ15cm程のます形が彫ってあるらしいのです。しかしそこには碑文などは一切なく、ただ桝形があるだけ。
なぜ碑文などはないのに、方形だけ彫られているのか。
以下のような3つの説があるようです。
パターン(1)
この水道を掘るのに、これだけの大きさのますに銀をいっぱい詰めるほどかかったという意味で刻んだ説。
パターン(2)
久兵衛がここに碑文を彫ろうとしたら、母が「お前の仕事が後の世のために役に立たないことだったなら、碑文はいつまでも恥として残ろう。もし後の世の役に立ったなら、記録など残さなくても、お前の名は永久に朽ちないだろう」と諭されて、方形の輪郭だけ彫って中止した説。
パターン(3)
久兵衛が石工に「堀田文字は何百年残るか」と問うた。石工は「何百年とは持たないが、念入りに彫って百年は保証する」といった。久兵衛は百年ぐらいなら無益として中止した説。
参考:『越前若狭の伝説』
残念ながら今この桝形を見るのは難しいです。
というのも、これは浦見川からしか見えない場所にあるからです。
以前はジェットクルーズがあり、この浦見川を通っていたので、桝形も見ることができたようなのですが、現在この浦見川ルートのクルーズが休業状態でおそらく再開はなさそうです。
なので私も写真はありません。ネット上を探しても画像はひどく小さいものしかなくよく見えず、郷土史にも写真が見当たらず。想像するしかありません。
行方久兵衛
では次はこの浦見川の工事を指揮した行方久兵衛について見ていきます。
まず、この行方久兵衛とはどんな人物なのか。
『わかさ美浜ふるさと散歩 美浜文化叢書Ⅱ』と『三方郡誌』を参考に見ていきます。ちょっとずれがありますが、あわせていきます。
名を「行方正成、久兵衛」という。(三方郡誌では「行方正成」の名で目次に載っています。)
本国は常陸、生まれは若狭。
先祖は常陸の者で北条家に勤めていたが、小田原城落城の際浪人し、上総国千葉山荘へ。
父は「行方正通、久兵衛」。
父正通は初め石川長門守康道に仕え、次に青山播磨守忠成に仕える。その後、青山播磨守忠成が埼玉の岩槻城に入るが、行方正通はついていかず、忠成の子、青山伯耆守忠俊に仕える。ただ、忠俊は徳川家光にたびたび反論したので、忠俊は籠居させられる。行方正通もこの時浪々の身となる。
寛永二年に堀丹後守を介し、酒井忠勝に召し抱えられ仕える。寛永二十年に没。
「行方正成(久兵衛)」はそれを引き継ぎ、正保四年に作事奉行、萬治二年に郡奉行となる。寛文二年に浦見坂開削事業が起こり、梶原安重と総奉行として命を受け、工事開始。
参考:『わかさ美浜ふるさと散歩 美浜文化叢書Ⅱ』『三方郡誌』
という具合です。
つまりは、小浜藩の奉行だった人という事です。
ここからは工事の本題へ行きますが、なかなかの苦労があったようです。
浦見川開削工事の歴史
行方久兵衛が何百年も名を残したいと思うほどの難工事。いったいどんなものだったのか。
なぜ水路が必要だったか
そもそもなぜこの工事が必要だったか。
その理由は、川ができるまではひとたび大雨が降れば湖の水がすぐに氾濫してしまうからでした。
かつて菅湖と久々子湖を結んでいた「気山川(気山古川、上瀬川)」という川がありました。切追の南、小谷浜から宇波西神社前を通り、久々子湖にそそいでいたという形でした。(現在の気山川ではありません。)
この川は、一応湖同士を結んでいましたが、細々と流れていたため十分な排水ができず、三方湖・水月湖・菅湖周辺五箇所の村の耕地への被害が著しかったようです。
京極の時代から村人は改修を願い出ていましたが、当時の制度から実行されることはありませんでした。
ここから始まっていくのですが、まず初めに行われた改修工事はいきなり「浦見坂開削」ではありませんでした。
気山川瀬替え
寛永十一年に小浜藩主が酒井忠勝になりました。
寛永十九年。やっと改修の願い出が受けられます。
藩から都築外記、武久庄兵衛、松本加兵衛の三人が気山古川を調査。結果、古川の加工は山の根で石ばかりのため工事が難しく、河口を南へ二十間移動させ、6月20日着工、7月20日完成。
結果、前の五箇村の水害は無くなり、湖岸に干上がりができて、鳥浜村、田井村に新たな耕地ができました。
これまでフナのえり場で生計を立てていた場所がつぶれたので、田井の新田はその者に残らず与えたと言います。
浦見川開削の起こり
浦見坂を開削し、浦見川を作るという案は京極の時代からあったようです。『三方町史』によると、まず初めに浦見川を提案したのは、京都の商人人角倉庄七で、寛永三年(1626)に調査提案していたようです。
京都や大阪の商人が金に目をつけて藩に願い出るも、京極の時代はすべて却下されていました。
酒井忠勝に変わった後、松本加兵衛が熱心に説得、忠勝は心動かされ調査段階まで行ったと言いますが、周りからの反対意見が多くとん挫していたようです。
万治二年(1659)忠直時代に、京都商人後藤治郎兵衛が挨拶ついでに現地を訪問、工事の許可を願い出、藩からは成功した際にはできた新田を半分与えるという条件で、寛文元年(1661)に人夫を雇い工事開始。しかし、工事が難航し中止。その後何回か掘ったが打ち切られたといいます。
浦見川開削の始まり
そんな浦見川開削本格工事の要因となったのは寛文二年(1662)五月一日の「近江・若狭地震」です。2つの地震が連続して起きたともいわれ、京都、滋賀、若狭に大きな被害を与えました。
浦見川周辺や湖は以下のような地形の変形がおきました。
- 早瀬から東20数キロにわたり、20m~230m干上がって沖へせり出す。
- 水月湖東湖底で2mの隆起。
- 水月湖に対して三方湖西で2mの地盤沈下。
その中に、先ほどの気山川の被害があり、川底が地盤沈下し、川を完全にふさぐ形になって、湖はみるみる水位上昇し、周辺の村を沈めました。
つまり、先の改修した気山の川を塞いでしまったわけです。
このことから浦見川が作られることになります。
なので、巷でたまに「浦見運河」と呼ばれているときがありますが、元は「運河」ではなく水を排出するための「水路」なのです。
浦見川第一期工事
大地震の災害を受け、酒井忠直は排水の工事を行方久兵衛(郡奉行)と梶原太郎兵衛(普請奉行)に命じ、調査。
その結果、行方は浦見川開削案、梶原は気山改修案を出し、両者譲りませんでした。
再度調査や周辺村の庄屋などの意見を聞くなどした結果、浦見川改修に決定。
その二人を総奉行として、その年(寛文二年)の五月二十三日(又は二十七日)午前八時に鍬はじめを行ったと言います。
はやいですね。
浦見坂峠の二手に分かれて開始しました。
南北72mほどから岩盤出現。ビクともしないので、越前板取金山の鉱夫百人余り、京都白川から石工多数招く。進むにつれて、彼らでも容易に進めなくなる。
そんな状況なので、奉行を罵る数え歌まで出来上がります。
1つとや、ひとかたならぬ浦見坂、なにが御普請、そりゃそうさ。
2つとや、ふたたびいやの恨み坂、名を聞くだにも、そりゃそうさ。
3つとや、右も左も崩れ出て、中々御普請、そりゃそうさ。
これが、20番まであったようです。
ここで、「恨み坂」や「浦見坂」の名が出てきていますね。浦見坂に沿って川を掘っていた証拠でしょう。
「浦見」を「恨み」とかけるほど、恨めしい苦労だったのでしょう。
いったいどれだけ難工事だったか、現地に行くと、その川の深さに驚きます。
ちなみにこの「恨み」については、他にも伝説「恋松原」の話から来ているとも。
浦見川沿いに小さな道があり、登っていくことができます。
これがかなり登るのです。
川を見下ろすことができます。
岩盤がむき出しになって、まだ中腹でこれだけの高さになっています。
これを人の手で掘ったのです。それは辛いはずです。
『三方郡誌』では数え歌に加えて、こんな歌まで紹介されています。
掘りかけて通らぬ水の恨みこそ底行方のしはさなりけり
浦見坂横田狐にだまされてほるにほられぬ底の行方
浦見川普請永川道理なりいらぬ行方さし出るより
完全に行方久兵衛を罵ってます。
これには行方の方も精神的に参ってしまうのではないかと思います。
そんな状態なので行方久兵衛も困り果てます。
その行方の精神状態を表すのか、ここでまさかの伝説突入です。
宇波西神のお告げから完成
行方久兵衛は神頼みを始めました。
毎晩、近くの宇波西神社へ参り、願掛けをしました。ある時、霊夢がありました。
「少し北に寄せて掘れば必ず成功する」
彼は、翌日人夫を集め伝えます。
「神のお告げを信じて今一つ頑張ってくれ」と。
人夫たちは半信半疑で渋々取り掛かると、工事は捗り出した。これがきっかけで士気が上がり、着工から4か月、9月17日(又は12月7日)、ようやく狭いながらも溝を切り落とし繋がった。数か月氾濫していた水は勢いよく流れ出し、その勢いで西側岩盤が崩れ、これを取り除くとさらに溝は広くなり洪水も大分引き、工事成功のめどが着いた。
参考:『三方町史』
行方が精神的に参って、神頼みするほどになり、神のお告げという希望にすがった、そんな心情が読み取れる伝説なのではないかと思います。
宇波西神社は浦見川のすぐ近くにある、この地を代表する神社です。
浦見川工事ですがった神社を私たちも拝めるのです。
さらに嬉しいことに、伝説中にある「少し北に寄せて掘れば必ず成功する」と書いてありますが、この工事の跡が、実は現地で見ることができるのです。
雪降る浦見川です。水月湖側から見ています。
北は左ですが、少し左に突き出して曲がっているのがわかるでしょうか。
空撮で見るともっとわかりやすいと思います。
山のちょうど真ん中あたりが少し上にゆがんでいるのです。
これが宇波西神社のお告げの痕跡と考えます。
お告げの工事の後12月に一度打ち切られ、人夫も各家に帰り正月を過ごしたようです。
翌年工事再開に備え、近くの村に松の枝を差し出すように命じましたが、冬の雪で不足が出て、百姓たちはその不足分を銭を借りて支払ったといいます。
そんなのでまた数え歌が出始めます。
三つとや、身にもおうせぬ借銭を、気ままに宿に、そりゃそうさ。
~
久兵衛はひるまず、翌年正月18日に工事再開。前年に崩れた西側を水際まで掘り進め、4月19日に水をせき止め、川底に残っていた岩石を切り崩し、以前より幅も深さも大きな水路が完成。5月3日(又は5月1日)にせきを取り除き水を流し、十日ほどで沈んでいた村も田畑も現れ、新田も得た。
これで、浦見川第一期の終了です。
第一期・・・。まだあるんですね。
浦見川第二期工事
工事は完成し、周辺の水も引きましたが、まだ久々子湖と水月湖・三方湖の水位は2mほど差があったようで、この年7月藩主忠直が江戸から帰ってくるとき、わざわざここへきてできたばかりの浦見川を視察したそう。そのとき、「三方・久々子湖の水準不均等は、九仞の功を一簣に虧くの恨みあれば、なお河底の工事を継続して完全を期せよ」と言われて、7月8日久兵衛らは工事開始。同時に久々子湖から日本海への排水も改修。
久々子、水月湖の水位は同じになった。
藩主も中々スパルタですね・・・。
いや必要な事だったのだとは思いますが・・・。ねぎらいの言葉くらいはかけたのでしょうかね・・・。
後、早瀬川の水位が浅く、船が通行が不便で、さらに掘り下げた。
寛文四年(1664)五月二日に完全に完成。約二年の工事だった。
この時代に二年て早くないです?
現在でも川の改修に何年も工事で交通規制してる所もあるのに。
すごいですね。
行方久兵衛のその後
行方久兵衛はこの功績で、寛文五年に知行百石を加増。勘定奉行となりました。その後、金山の荒井用水を改修し、新田を開きました。
貞享三年八月十二日、病で小浜に没す。享年71歳。
ちなみに、『わかさ美浜ふるさと散歩 美浜文化叢書Ⅱ』には「第三期工事」の記述があり、「堤を築いた」との記述があります。ただ、この時「早瀬川改修を行った」「石垣を築いた」としているので、『三方町史』内では「第二期工事」に該当するものと思います。
現在、「行方久兵衛翁頌徳碑」という石碑が立っています。
説明もあり、昭和62年10月に作られたもののようです。つい最近です。今でもその功績が称えられ続けているという事です。
さらにこの石碑があるのが、宇波西神社手前の参道なのです。
行方久兵衛が、工事が難航した際に宇波西神にすがって祈祷した経緯を見ると、ここにあるという意味もまた感慨深いものになります。
浦見川の今
現在、この浦見川沿いの道は「ふくい里山トレイル」という看板が立ち、何かのコースになっているようです。
水月湖側には橋が架かり、その橋の上から浦見川を見下ろすことができます。
さらに川沿いの山頂付近には、謎の穴が開いています。
明らかに人工的に岩を砕いた後ですね。
さすがに行方の時代ではないとは思います。この川沿いの道を作った時の掘削跡かもしれません。
何にしても掘削の跡が見ることができるのはおもしろいです。
ちなみに、この山頂付近からも川を見下ろすことができますが、ものすごく高いです。落ちたらあの世行きです。どうかお気を付けください。
現代にまでつながる功労
行方久兵衛と工事に関わった人たちは、工事完成から350年程経った今でも称えられ続ける工事を成し遂げました。
最初の行方の「桝形」伝説に、久兵衛の母がこんなことをいっていましたね。
「お前の仕事が後の世のために役に立たないことだったなら、碑文はいつまでも恥として残ろう。もし後の世の役に立ったなら、記録など残さなくても、お前の名は永久に朽ちないだろう」
工事完成から現代までこの行方久兵衛の名は残り続け、三百年程経った後に頌徳碑まで建てられました。
これらが、この工事の功績を証明しています。
参考文献
『越前若狭の伝説』
『わかさ美浜ふるさと散歩 美浜文化叢書Ⅱ』
『三方町史』
『三方郡誌』
アクセス、駐車場
最寄り駅は、JR小浜線気山駅から徒歩23分。
駐車場はありません。集落内に停めるのはまずいので、県道244号線の南下車線に路駐するしかないと思われます。
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