福井県若狭町。読み方は「みかたいしかんぜおん」、別名片手観音。
その名の通り石に彫られています。普段は非公開で御前立があり、本尊御開帳は33年に一回。境内の写真と共に由緒・伝説を見ていきます。そして三方石観音を管理されている方のお話もお聞きできましたので、そちらも掲載していきます。
地理
三方駅近く、丹後街道沿いに参道の始点があります。ここから国道27号線を渡って山の谷へ入っていきます。山深く500mほど歩いた先に観音堂があります。
人の住む場所からは離れていながらも、主要街道からアクセスできるという、昔からの信仰の上での好立地だったことがわかります。
参道
山への入口
ここからそれなりに登っていくので、杖代わりの木の棒が置いてありました。
福井県十名所碑
「福井縣十名所」と刻まれた石碑。
弘法大師像と梅
後で見ていきますが、弘法大師に深く関わりのあるこの地に在るべき像であり、梅の花との共演は風情があります。黒が目立つ冬の明け方の森に紅梅は目立ちます。
御方神社
参道の途中に御方神社があります。
三方の神社延喜式にも書かれている、三方町を代表する神社の一つで、正五位三方明神ともよばれていました。
標石と参道
ここからさらに霊地に入って行くようです。標石が立ち観音橋を渡ります。
せき止め地蔵
せき止め地蔵。このご時世ありがたい。
と思ったのですが、実際は「咳き止め」以外にも「堰き止め」の意味であるという説が出てきたらしく、どっちが本当の意味なのか分からないとのことです。
ただ公式ホームページでも述べられている通り、三方石観音は病を治そうとする信仰があるため、「咳き止め」の意味は間違いではないのではないかとのことです。
三方石観音へ
霊地。三方石観世音。
ではまずその伝説を見てゆきます。
弘法大師空海の伝説と鶏鳴石
むかし桓武天皇の延暦年中とか、弘法大師が諸国教化の際に、三方の山林の幽邃で渓水の浄らかなのを愛でられて山中に宿泊せられた。そのとき大花崗岩に観音大士の霊像を刻まれたが、もう右の片手のみという時に、下の村の人が川端へ出て釜を洗う音が聞こえたので、「ああもう夜が明けたか」と其のままにして山を出られた。それで此の観音像には片手がない。
手足の不自由な物には御利益があるというので、参詣するものが多い。堂前の小宇には手足乳房の形をした木片が山の如く満ちている。手足などの不自由なものはこの石観音にお詣りして、堂前の小宇から何れか木片を持って帰って、それで不自由な所を撫でていると全快するという。全快するとそれと同形のものを作って、お礼参りをして前の小宇に納めるのである。
引用:『福井県の伝説』
(※三方に宿を取ったという内容が同じ部分は前略)
観音像を刻もうと思い、その夜山の中腹に来て、明朝一番鶏がなくまでに刻み上げますと仏に誓った。大師は一心に刻んだが、そのうち夜がだんだん明けて、もう片手だけというところで一番鶏が鳴いた。それで大師はそのまま姿を消した。
引用:『越前若狭の伝説』から『中塩清之助』
三方観音は聖観世音菩薩で延暦年間(782~805)に弘法大師が一夜で刻んだもの。夜が明けて妙法石から鶏の声が聞こえたために完成させずに立ち去った。
参考:『新わかさ探訪』
引用や参考をしてきましたが、まとめると
弘法大師が諸国巡礼して若狭に来た時に、三方のこの地に泊まって、一夜で花崗岩の大岩に聖観音を刻み、あと右手だけという所で夜が明けて立ち去ったので「片手観音」になった。ただし、夜が明けた合図が、「村人の鎌を洗う音」なのか「妙法石の鶏の声」なのかの違いがある。
ということです。
郡内の郷土史『三方郡誌』ではどうかというと・・・
観音堂
三方に在り。桓武天皇延暦年間の草創なり。三方石観音としてその名高く、若狭の各地、近江等より参詣するもの多し。霊像は弘法一夜の作なりと伝え云う。弘法この地に遊いしとき、山林の幽邃渓水の清浄を愛して、此の山に宿す。そのとき大花崗岩に観音大士の霊像を刻み、僅かに一隻手を余すにいたり、天将に明けんとしたりしかは、その儘にして山を出づ、さるか故に霊像は片手なりと。堂宇は文化年間、臥龍院二十四世春山、隣道の建てし所なり。明治二十八年回禄し、その後再建す。
引用:『三方郡誌』
「天まさに明けん」とし書かれておらず、合図がどうかは載っていませんでした。
ただし現地にはこの妙法石が存在します。そして鶏の像も石の上に作られており、この伝説を物語っています。鶏鳴石(にわとり石)とも呼ばれています。
その他現地での管理者の方の説明、三方石観世音公式ホームページでも鶏の鳴き声説で語られており、通説では鶏の声が夜明けの合図とされているようです。
ちなみに、この鶏鳴石。元旦にお参りに来た人がこの医師から鶏の鳴き声を聞いたという伝説もあるそうです。
三方石観音
観音堂
今入らっしゃるのは御前立の観音様。御前立の後ろの扉の奥に大岩があってそこに聖観音菩薩が彫られているとのこと。
ちなみにこの御前立の観音像も秘仏通り片手がない状態で祀られています。管理者の方に断りを入れて近くで見ることもできるので是非ご自分の目で確かめてください。
お話によると、このお堂は1813年に建てられたとのことです。『三方郡誌』では「文化年間(1804~1818)」としていたので、これではっきりとした創建年代がわかりました。それまでは1000年以上野ざらしで、ただ囲いがあるだけだったと伝わっているそうです。その後、お堂は明治二十八年に一度焼失しています。『三方郡誌』にも載っていましたね。その後三年間かけて再建されたとのことです。
本尊が彫られている大岩自体は観音堂の裏から見ることができます。お堂が大岩に沿って建てられているのがよくわかります。
御手足堂
御手足堂には観音様がおり、無数の手型足型が奉納されています。
『越前若狭の伝説』では、観音様が「手の病気なら治す」といったために、村人が堂を建ててまつったとしています。
手型足型は現在観音堂内で売られています。ただむかしは自分たちで作ってきたということです。管理者の方の話によると、昔は医者もないから余計に神や仏に頼ったのだろうということです。昔の手型足型を見せてくださいました。本当にいろいろな木材や色、形。かなりリアルな手、継ぎ接ぎのような足、簡易的な手、本当にいろんな人の個性豊かな手型足型がありました。それは御手足堂にも一部展示されており、そこでも見ることができます。
最初は10万点以上あったようですが、供養などをして今は6万点程まで減っているのだそうです。それでもまだ御手足堂には6万点程あるとのこと。その手型足型の造形は歴史上の美術的価値があるとのことで東京武蔵野美術学院ですべて記録され研究報告されたといいます。
御開帳と本尊
御前立の後ろの本尊は秘仏として扉の奥にあり、御開帳は33年に一回。前回は平成5年。次に御開帳されるのは令和8年とのことです。管理者の方のお話によると、御開帳は5日間から1週間程度行われるそうです。また、石観音の本尊は今まで撮影を許可したことがないため写真自体がないとの事。本尊の姿は見た方の話によると、「うっすらと形が分かるような・・・」レベルだそうです。中には、形が分かった人と形が分からなかった人がいるといいます。
弘法大師が彫ったとして、1300年ほど前から長い間野ざらし状態だったわけですから風化もしていることでしょう。まさにその歴史を目の当たりにすることのできる観音様なのかもしれません。
先ほども見た通り岩自体は見ることができます。
横からも少しはみ出ている部分もあります。
御利益と参詣
ご利益
『越前若狭の伝説』では、観音様が「私には手が一本ない。それで手の病ならば、どんなものでもなおしてやる。」といったといいます。
ただ手足の不自由な物には御利益があるということで有名で、乳房の形をした木片も実際にたくさんあり、また今では体の悪い部分を治すというご利益になっており、首から下の悪い部分特に動かす部分にご利益があるとなっているようです。
参詣
『福井県の伝説』や『新わかさ探訪』では、お堂(御手足堂)から木片を持って帰って、不自由な所を撫でる。全快するとそれと同形のものを新しく作って、お礼参りをしてお堂(御手足堂)に納める。という方法で行われていたということです。
現在は手型と足型が御堂内で売られており、それを買って「南無大慈大悲石観世音菩薩」を唱えて撫でて保存。その後回復したら返しに来るというやり方だそうです。詳しくは三方石観音の管理者が常にいるのでその方に聞くことができると思います。
手型は腰から上、足型は腰から下、左右それぞれの位置を意味して祈願するといいます。
お話をお聞きした方も治してもらったというエピソードを聞かせてくださいました。その手型足型を家に置いておくことで、三方石観音の御利益でもあり、御利益とは別に心のよりどころでもあった存在だとおっしゃっていました。
また、三方石観音の特徴的に部分に御堂内の大きな提灯があります。
天井を埋め尽くします。これも奉納品で元某プロ野球選手の名前、有名人の名前も見えていますね。
他境内
参道
稲荷大明神
瀧
臥龍院二十四世春山隣道和尚像
『三方郡誌』内にあった「堂宇は文化年間、臥龍院二十四世春山、隣道の建てし所なり。」の、臥龍院二十四世春山隣道和尚の像。大岩の後ろ側にあります。
西国三十三所石仏
西国三十三所石仏は1866年に開かれた。
宿舎跡
かつては宿舎があり、ここに泊まって毎日参っていた人もいるとの事。
小話
管理者の人にお話を聞いたところによると、三方石観音はお寺としてではなく、観音堂であるため住職がおらず、ここを管理しているのは地元三方の方から12,3人で構成される集まりで管理されていらっしゃるとのことです。
『新わかさ探訪』では地元老人会から出ているとされ、それがいつから続いている制度なのかは不明との事。
管理者の方の話によると、『三方郡誌』にあった通り、滋賀県からの参詣者がかなり多いといいます。嶺北の人にはあまり知られていないのではないかともおっしゃっていました。お堂再建の時の資金も滋賀県が多かったと伝わっているそうです。若狭や滋賀県では昔から三方石観音のことはよく言われてきたのでかなり認知されているといいます。また水上勉の『水上勉 はなれ瞽女おりん』にも登場する場所ということでそちらの認知度も高いとされます。
そんな県外からの参詣者が多いこの地でもやはりコロナで参拝者がやはり減ったようです。コロナ前は一日に1~2台のバスがやってくるほどだったといいます。コロナが終わりに近づき、今後参詣者が回復していくことを祈ります。
梅との共演
盆梅展が開催されており、観音堂前の参道に梅が置かれていました。
アクセス・駐車場・拝観料金・時間
料金と時間については2024年2月時点での掲載となります。
最寄り駅 | 三方駅から徒歩18分 |
自動車 | 若狭三方ICから4分/三方五湖スマートICから4分 |
駐車場 | 数台あり |
拝観時間 | 午前八時から午後四時 |
拝観料 | なし |
出典
参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
『三方郡誌』
『新わかさ探訪』
情報提供
三方石観音管理者の方
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