櫛川別宮神社の由緒祭神と大蛇が池の伝説【敦賀市】

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櫛川別宮正面

福井県敦賀市には、氣比神宮常宮神社という格式高い神社があります。

氣比神宮は福井県を代表する神社。常宮は景勝の地ともいえるような所。

そんな2つの有名な神社に関係する神社が、敦賀の住宅地にひっそりと、ただ堂々と鎮座しています。今回はそんな神社を紹介します。

御祭神と神社の様子

櫛川別宮拝殿

鳥居をぬけると広い公園のような場所があり、その奥に拝殿・社務所・境内社・本殿などがあります。

祭神:仲哀天皇、神功皇后
創立年:不詳

仲哀天皇、神功皇后ということで、常宮神社と同じ祭神です。氣比神宮とも同じです。氣比神宮の方は他にも多くの祭神が祀られていますが。

敦賀内でこうやって同じ祭神が祀られているので、無関係でないことは確かですね。

櫛川別宮配置

拝殿の後ろに赤い本殿があります。

この拝殿の先から一気に神社の空気になります。

櫛川別宮本殿

別宮神社本殿。

敦賀自体がそれなりに発展している土地ではありますが、この櫛川は一応は昔ながらの集落です。

そんな集落にこうした立派な神社があるのは、やはり重要地点だったからでしょうか。

なにせ『敦賀郡神社誌』には、
「松原公園より、当区及び原区・沓見区に通じ、また常宮に到る通路に沿う平坦地にて~」
と書かれていますので、昔の道では、常宮までの道中にこの別宮神社があったと思われます。

神社の始まりなど「由緒」

櫛川別宮本殿2

さて、別宮神社に見つめられながら由緒を見ていきます。

まずは簡単に『御大典記念福井県神社誌』から見ていきましょう。

社伝に「気比宮の御造営の宣旨があった時に櫛川と松原に神社を創建し、櫛川神明社と尊称し、後に、別宮大明神と奉称されるようになった」といいます。
明治7年12月村社、大正4年1月16日に神饌幣帛料供進神社に指定。
参考:『御大典記念福井県神社誌』

さて、出てきました「神饌幣帛料供進神社」
明治大正に勅令で県知事からいろいろ供進された神社のことで、要するに重要視された神社ってことです。

さあ、この別宮ですが、氣比神宮創建の時に一緒に出来たってことのようです。村の神社であっても、なかなか歴史の深い神社。なぜこの櫛川にそんな重要な神社があったのでしょうね。

まだまだ見ていきます。お次は、敦賀の神社のことならこの郷土史をみるべし、『敦賀郡神社誌』です。

 昔から別宮大明神と尊称し、由緒は詳しくはわからない。しかし、聖武天皇天平二十年に異賊が襲来した。その十一月十一日夜、天地震動し、浜辺に数千株の松が一夜にして生え、白鷺が群集し、まるで多くの白旗が立ち並んだように見え、さらに西浦の立石付近に巨岩が突如海中に出現し船を沈めた。
 この神瑞霊異の事を氣比宮の神官が天皇にこと細かく説明し申し出たので、氣比宮御造営の宣旨があった。この時に櫛川と松原にも神社を創立したと伝わる。
参考:『敦賀郡神社誌』

やはり敦賀の伝説と言えばこれですね。「蒙古襲来」
今回の別宮神社も、氣比宮関連という事でやはりこの話が関わってきていました。

以前当サイトでも紹介した、立石門が崎の伝説もそれです。上の中でも立石の部分の説明がなされていますね。

 

別宮が櫛川に祀られ始めの頃は「櫛川神明社」としたが、後に郷民が別宮大明神と奉称した。としていますので、『御大典記念福井県神社誌』と同じですね。

さらに書かれています。

当社御創立の以前は氏神に山神社を奉斎していたものの如く推想される。而して当社別宮大神は、氣比大神並に姫大神と伝えている。
引用:『敦賀郡神社誌』

別宮以前の神社までどうやって推測したんでしょう。聖武天皇以前の話ですからね。相当昔ですよ。

まあ、なににしてもこの別宮神社も氣比神宮同様相当格式高い神社だということのようです。
しかし、この「姫大神」とはまたどういう神様なのか。

姫大神は常宮大神にて仲哀天皇の姫神神功皇后を奉祭した社であるというのであるが、正確なる考證の據るべきものを発見しない。しかし別宮の神號並みに社號は、本宮に対する称呼で、別社即ち別の宮の意であるから、御祭神は御本社と御同体であるべきはずである。故に古史に照し由緒に徴し、又口碑や宝物の古神像等によって、畏かれども祭神は仲哀天皇並に神功皇后を奉斎せるものと推定したのである。
引用:『敦賀郡神社誌』

うーん、つまりはこの別宮の明確な祭神はわからないという事ですね。

別宮という呼び名が氣比神宮奥の院常宮神社別宮であるから、別宮の御祭神も常宮と同じだろうと推測されて今に至っているようです。いってしまえば、謎の神社なわけです。今でこそ「別宮」ですが、むかしは「櫛川神明社」と呼ばれたのなら、由緒が氣比神宮と併せて造られたというだけで常宮の神様とは別だった可能性も・・・?

今となっては、わかりませんが。

特殊神事

そんな格式高い別宮には、特殊神事があったようです
ただ「今は廃絶」ということが『敦賀郡神社誌』に書かれています。

『敦賀郡神社誌』より二十年前、神社合併が盛んにおこなわれる頃までは、毎年四月三日に『御供参り』と称えて、なるべくその年又は他に嫁ぐ婚約のできた者又は病弱なもので希望の申し出ある者、これらの者無き場合は他の適当の者に依頼する。娘は盛装して、白米五升で作った小餅を米櫃に入れ、これを頭上に載せて、区長宅から神職・区長・氏子等と共に列をなして神社に到り他の神饌と共に神前に供え、御供女も祭典に列して拝礼し、終了すると帰宅。この小餅は氏子各戸に配布した。
参考:『敦賀郡神社誌』

御供参りとか御供女とか、なにやら物騒な気配がします。

いや、この神事自体はそんな怖いものではないとは思います。無くなってしまったのがとても惜しいです。

次の紹介する人身御供伝説に通じるものがあった神事だったでしょうに・・・。

大蛇が池(蛇池)の伝説

人身御供の伝説

 昔、櫛川の松林の中にある別宮神社のある所に、蛇神が祀ってあった。近くには大蛇の住む池もあり、この社を中心にいくつかの家があった。人々は昔からの言い伝えを信じおそれていた。毎年秋に村の若い娘のいる家に白羽の矢がささり、その家の者は娘を社前に犠牲として奉らねばならない。そうしないと暴風雨化洪水が起きると信じられてきた。
 ある年、村長の家に矢が立った。亡き愛妻の形見として大切に可愛がってきたので、村長は狂人のようになってしまった。日頃慈父のように慕ってきた村人たちもそれを見て悲しんだ。この時、村はずれに村長や村人たちの慈愛によって何とか生活してきていた家があった。その家は父と母が病で亡くなっていた、三男四女の家だった。長女は村長のことを耳にすると早速出向き、「自分は村長の慈悲で今日まで暮らしてこられた。いつか報いようと思っていたが、今がその時だ。」という意思を告げた。村長はそれを拒否したが、娘の堅い意思を曲げられずこれをのんだ。そして村長は「他の子たちを命に代えて世話をしよう」と誓った。
 とうとうその日が来て、村の若者が五,六人で白木の桶に入れて社前へ置いた。それは暗い森林の真ん中。まだ十七の娘はさすがに恐ろしく悲しくなった。その時周りの草木が騒がしくなった。娘は正気を失った。夢の中に大蛇が現れ「今まで娘を食って神力を増してきたが、お前は孝心に燃えていて近寄れない。私はここに住むことができなくなった。私はお前の孝心に愛でて毎年の犠牲をやめる。その代わり毎年今月今夜にはきっと、社前に大釜を据えてそれに潮水を満たし、砂を入れてぐらぐら煮たててくれ。わたしはそれを犠牲と思うであろう。また白羽の矢が立った家の者は、如何なる長者でも皆乞食のような風をして社前に坐して参拝人にお礼の意を表する様に…そうしたなら私は最早娘を食べぬし、祟りもしない」と言い終わると同時に大蛇は口から焔を吹き池の方へ滑って行った。そして娘は甦った。
 翌朝これを知った村人は非常に喜び驚いた。そして娘一家を恩人として崇めた。それから大蛇の言った通りを毎年行った。
 大蛇はその後洪水の時、川より海に出て浦底の猪ヶ池に行ったとされ、今櫛川の大蛇という道は、大蛇が川に出る時通った道であるという。
参考:『福井県の伝説』

これが、この櫛川に伝わる人身御供伝説です。

人身御供の言い伝えと言えば、代表格と勝手に認識しているおおい町納田終の加茂神社を思い出します。これも、というかこれこそまさに白羽の矢でしたから。

が、櫛川はハッピーエンドでしたね。内容を見るに「孝心が燃えていて近づけない」という部分に、この物語の伝えたいことの全てが詰まっているように思えます。
本当にあったことというよりも、人生において「孝行の心を持っていなければならない」という教えなのでしょう。

地域の伝説にはよくあることで、こういうメッセージを理解するのもまた民話の面白い所ではあります。
ただ、伝説と特殊神事の内容は少し違いましたね。神事は春なのに対し、伝説では秋ですし。

 

大蛇は猪ヶ池に行ったという事で、まさかこちらの伝説に繋がっているのです。

こちらも大蛇伝説ですからね。

いろいろ繋がっていると面白いです。

蛇池周辺の言い伝え

さらに人身御供伝説とは別に、この蛇池にはこんな言い伝えもあります。

また、蛇池の南にある稲葉という家の入口は蛇池の方にあったので、椎の大木に巻き付く大蛇が見えてから東の方に入口を造り替えた。近年までその状態だったという。
参考:『福井県の伝説』

 本殿より四十間ほど隔てた所に周囲四・五間の大池があった。その池には椎や老松が林立し大藤が絡まり陰湿な空気が満ち、薄気味悪い池だった。そこに大蛇が生息していたと伝える。
 ある日、池辺の人家の者が未明に起きて、門戸を開くと椎の木に大蛇が絡みつき、今にもちびかかりそうな形相だったので、これを恐れ、家の構造まで改めて、入口を妻戸の方に換えて、原西福寺の僧侶に祈祷を依頼した。それ以来大蛇も身を潜めた。
参考:『敦賀郡神社誌』

これは、人身御供の前の話なのでしょうか。それともあの大蛇とは別物?
イメージ的に家の構造まで伝えられて近年までそうだったということは、伝説より後の話にも思えます。元々ヘビが多い土地なんでしょうかね。

蛇を退治した蟹

さらにこれはあまり知られていないのではないかと思いますが、こんな伝説まであるようです。

この付近一帯の小川や耕田には川蟹が非常に多く畔豆や稲などに害をするが、往昔この大蛇池に大蛇を封ずべく祈祷した時に、蟹が群集して大蛇を挟み殺したので、村人は蟹を徳とし捕えないからだと伝えている。
引用:『敦賀郡神社誌』

大蛇を蟹が退治する・・・?蟹満寺・・・?

今は住宅地ですが、そういった蟹たちは、今も見ることはできるのでしょうか。それとももういないのでしょうか。

いずれにしても、昔は相当自然豊かな場所だったようです。

蛇池のあった場所

今は住宅地となった櫛川です。蛇池ももうありません。ただ近年まで蛇池の名残があったようです。

池は松原官林の西の別宮神社の裏手四十間ばかりのところにあって、周囲は三町ばかりである。今はうずまって水浅く雑草が繁茂している。しかし四周は老松や雑樹にふじがからまって陰うつとしているので、昔は如何にもの凄い所であったことは想像される。
引用:『越前若狭の伝説』

この時は浅くはなっているけれどまだ池はあったようですね。

『越前若狭の伝説』が参考にしている書が何時の時代かはわかりませんが、『敦賀郡神社誌』ではすでに池の存在は過去形になっているので、『越前若狭の伝説』の参考書は昭和8年より前の物のようです。
しかしそれでも、少なくとも『敦賀郡神社誌』の昭和8年までは池のあった頃の名残があったようです。

今でもこの池を大蛇池と称し、付近には西大蛇・北大蛇という地名が残っている。また家の入口をかえたという家は、今も昔の如く伝説を保守して、池と道路に反した方に入口がある。西大蛇の地や大蛇池の跡は、今も雑林で椎・椿の古木や大きな藤があり、池は埋まったが水草が密生している。
引用:『敦賀郡神社誌』

ここでももう「池は埋まった」とはっきり記述しています。

小字名などは残っていないので、おそらく現地で確認するのは難しいでしょう。家も改築されたようですし。池のあった場所は、別宮から方角や距離をはかれば大体はわかりそうですが・・・

私個人的に見た感じ、1947年の荒い空撮などをみると、櫛川35番地に昔家がないように見え、今も少し曲がった道などで境界線のように引かれているので、そこがあやしいとみています。

               

境内の様子と見所

境内社

境内社は3つあります。

『御大典記念福井県神社誌』を見ると、蛭子神社と愛宕神社が書いてあります。
『敦賀郡神社誌』には祭神も書いてあります。
蛭子神社・・・事代主命
愛宕神社・・・火産霊命

もう一つは・・・?

現地で薄っすらですが祭神が書いてあったので、見てみます。

・火産霊命
・事代主命
・天八百萬比咩命

これです。「天八百萬比咩命」が書かれていません。なぜ・・?

この「天八百萬比咩命」というのは「常宮神社」の神である「常宮大神」のことのようです。
ここで、この別宮神社が常宮神社と深い関りのあることが証明されるわけですが、なぜ神社誌には書かれていないのでしょう。不思議です。

夫婦杉

櫛川別宮夫婦杉

こちらも神社誌には特に記載はありませんが、見ておくのも良いかと思います。

夫婦杉ということで、夫婦円満とか家族とか恋人とかにご利益があると思われます。
しかし私はそんなことよりも、「蛇池のあったことからの大木の名残なのかなぁ」と昔の情景に思いを馳せる人間でした。

化粧した狛犬

ここの狛犬は化粧をしています。

少なくとも私が訪問した時はしていました。

いい目をしてらっしゃる。

目立たずとも威厳ある「別宮」の地

様々な伝説や謎を抱える櫛川別宮神社。

しかしその由緒は、氣比神宮と常宮神社に通ずるものがあると信じられてきて、現在に至っています。

一集落の神社。多くな鳥居や社があるわけでもなく、目立つ場所にあるわけでもありません。
しかしここは敦賀を代表する伝説をもとに、氣比宮常宮の別宮として威厳ある社であり、さらに蛇池の伝説を通して敦賀元来の自然の姿を伝える社でもある、とても重要な社なのです。

参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
『敦賀郡神社誌』
『御大典記念福井県神社誌』

アクセス

最寄り駅は、北陸本線敦賀駅からバスに乗り換え松葉町下車、または櫛川西口下車、徒歩6分。
敦賀駅から徒歩では、45分。

駐車場はありません。

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