久々子湖を望む田園に、一つ残された島がある。
そこには遠い古の、男女の悲哀を言い伝う。
恋の松原古墳と称し、悲哀伝説を今に伝える。
福井県三方郡美浜町気山に「恋の松原古墳」という場所が存在します。
「恋」という文字が付く、史跡としては珍しいような、何か物語性を感じるような名前です。
今回はこの恋の松原に関する由緒や伝説、なぜ「恋の松原」というのか名前の由来、近代の歴史などを見ていきます。
どこにあるのか、どんな場所か
冬の三方五湖州周辺。空や山は雪でもや掛かって見えます。
丹後街道の福井県三方郡美浜町内最西端。三方上中郡若狭町との境界付近に位置する場所に「恋の松原古墳」という場所が存在します。
よく言われるのが、宇波西神社から東北に200メートル程の所です。
この地は美浜町の「気山」という地区です。
ちなみに、この美浜町気山のお隣若狭町側の隣接地区も「気山」という地区になります。
古くは「気山津」という海運の要所でもありました。
恋の松原の周辺は、田園が広がっています。
また、恋の松原古墳に隣接して若狭梅街道が通っており、かなり車通りが激しく、道が一直線なので皆車を飛ばすような所です。
近くには久々子湖や先に出てきた宇波西神社、丹後街道があり、若狭の風景を見通せる場所です。
恋の松原の伝説・由緒
では、この「恋の松原」といういかにも何か伝説が伝わっていそうな名前。もちろん伝説が伝わっております。
宇波西神社の北東の地。昔2人の男女が密に此処で会う約束をしていた。女が先に来て待っていたが、その日大雪が降った為か男はとうとう来なかった。しかし女は約束を守って帰らず、ついに宇波西神社東の椎橋の下で凍死した。この時、その地には松原があったので、恋の松原といった。 後に村人はその墳を築き謡曲を作った。『福井県の伝説』 男も湖に身を投げて死んだ。『越前若狭の伝説』から『若耶群談』 |
「恋の松原」なんて名前なので、どんなロマンチックな場所かと思ったら、かなり衝撃的な悲哀の伝説だったのです。
まあ、女の方の「一途な思い」や「運命が男女を引き裂く」みたいなのはロマンチックとも言えなくはないですが、現代人からしたら、「そこまでしなくても」と思ってしまいます。私が薄情なだけかな・・・。
この恋の松原伝説を巡る記事もあります。
昔は今みたいなキラキラの「恋」のイメージではなかったのかもしれません。恋にまつわる歌も悲しげな「恋ふ」思いが歌われたりしていますから。哀しい伝説が伝わる土地なので、恋人の聖地ってわけでもなさそうですね。
ただ『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』によると、この伝承は600年700年以上前、鎌倉時代か平安時代まで遡るかもしれない昔の事だといいます。
私個人的には嶺南・若狭で好きな名所五本の指に入る場所です。
現地には説明板もあり、この説明板にもしっかりと由緒が書かれています。
説明板の下には石仏があり、しっかり供えられています。
横には松は植えられています。現在は松原はありませんが、ここに松が植えられているというのが、せめてもの「恋の松原」です。
ただ、この恋の松原について多く人が古歌が残されています。
例えば鎌倉時代の藤原為家や江戸時代の伴友信など他にも多くあります。
それほど魅了した物だったのかもしれません。
そして、伝説には3つの土地が書かれています。
- 恋の松原
- 浦見坂
- 椎橋
恋の松原はここですが、残り2つの土地は今どうなっているのか。
実はこの2つも訪問しています。ただ、これらは美浜町ではなくなってしまうので、別記事に記すことにします。
浦見坂の方は、浦見川と行方久兵衛の記事で。
椎橋の方は、後に恋の松原聖地巡りで全部載せで紹介しようと思っています。
とりあえず今は、恋の松原についての詳細を見ていきましょう。次は「恋の松原」という名前についてです。
名前の由来や呼び名「恋」「古美」
さて、「恋の松原」という名前ですが、かつてはいろいろと呼び名や漢字があったようです。
- 戀の松原『三方郡誌』
- こひの松『列聖全集. 御撰集 2(八雲御抄 巻第5)』
- こみの松原『三方郡誌』
- 古美の松原『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』『現地説明板』
- 恋塚『わかさ美浜町誌』
1番目の「戀の松原」の「戀」は「恋」の旧字体なだけなので、特に気にする必要はない気はしますが、他にもあるんですね。
しかしぱっと見、1,2番は「恋の松原」で、3,4番は「古美の松原」ということでしょう。
「古美の松原」とは、この辺りの土地の人が昔から伝えてきた名称です。なので周辺地域からしたら「古美」の方がしっくりくるのでしょうか。これだと「別の由来があるのか」とも思ってしまいますが、伝説はあくまで男女の悲哀伝説が通説のようです。
ちなみに小字名を見てみると、この恋の松原周辺に、
- 恋松ノ下(119字)
- 暦(こよみ)松ノ下(118字)
がありました。
「暦松(こよみまつ)」という、また似たような発音の地名もあったのです。
この「暦松」が、恋の松原と直接的な関係があるのかはわかりませんが、隣接したところにあるので無関係という可能性は低いと思います。
ただこれについては、字名として記されているだけで、他言及なしです。
「恋」の由来と久々子湖との関係
そして、恋の松原の「恋」や「古美」という部分の名前にもいろいろと違いがあるようです。
まず、恋の松原の隣接している、三方五湖の一つ「久々子湖」。
これが、「恋の松原」の「恋」の由来になっている可能性があるのです。
『わかさ美浜町誌』を参考に考えていきます。
まずはじめに、「久々子湖」の由来を見ていく必要があります。
『わかさ美浜町誌』でも、「仮説にすぎないが…」と書かれてはいますが、久々子湖の由来は、
白鳥の古名「久々比(くぐい)」にちなむ地名と考えられる
としています。
『日本書紀』や『古事記』他色々、白鳥の古名は
- 鴻
- 大鳥
- 志漏止利
- 久毘
- 鵠(くぐい)
- 久々比
- 久具比
- 古布(こう)
- 古比
があるとして、三方五湖の「菅湖」「久々子湖」で飛来が確認されていると言います。
また、古代は白鷺も「久々比」と呼ばれていたとされます。
その中でも、
- 久々比
- 古布
- 古比
は白鳥の鳴き声に由来すると言い、久々子湖畔に地名が点在すると言います。
『わかさ美浜町誌』では久々子湖について、これらを前提に
(前略) 恋の松原という古跡がある。(中略) 悲哀伝説は、「古布」「古比」とも形容された。(中略) 「恋」は「古比」を宛てたものか。 引用:『わかさ美浜町誌』 |
と書かれています。
ここから「恋の松原」の「恋」の由来、その物語のありそうな珍しい名前の由来の可能性として、一つ浮かび上がってきました。
それは、「恋の松原」というのは、「久々子の松原」、「久々子湖の松原」という由来であることが、今回調べてみて一つの名前の由来なんじゃないかと考えてみました。
恋の物語を伝えると同時に、「久々子湖に松原があった」という事を伝えている名前にもなるということだと思うのです。
あくまで一つの可能性なのですがね。
先の「暦松」については、謎です。
こういったことを考えさせてくれる不思議な地名、「恋の松原」はおもしろいところです。
恋の松原には幻の謡曲がある
伝説でも少し出てきましたが、この恋の松原の悲哀伝説が謡曲としても伝えられています。
というよりも、恋の松原伝説をもとにして作られたというべきでしょうか。
時間軸は既に、男女の出来事の後の時代の話になっています。主人公は僧です。
この謡曲についての詳しい話は、先ほど少し紹介した恋の松原伝説巡りで紹介します。
一度見てみたいものですが、廃曲になっているというので、今は見ることはできません。
史跡や地理から見る「恋の松原」
さて、少し視点を変えて地理的な面でも見ていこうと思います。
土地や地質
先から頻繁に『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』を参考にさせてもらっていますが、結構細かく書いてあります。地質の事も書いてあるのです。
現在の恋の松原は、冒頭でも述べた通り田園地帯にポツンとある様子です。しかし、昔は松原というだけあって松林があったとされます。
そして『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』によるとこんなことも書かれています。
土質が粘土質と砂地と土質が異なって形成されていることから、寛文の地震などで地殻が変動し、昔の海岸線が宇波西神社の方へ寄って行ったものと考えられる。
つまり、どういうことなんだろう・・・。昔は田園がもっと狭くて、海岸線がもっと入って来ていたという事なのでしょうか。
恋の松原は海ぎりぎりだった?
しかし思い起こしてみればそうですね。敦賀の気比の松原も高浜の青の松原も海岸線にありますから、ああいったものがここにもあったという事なのでしょう。
冒頭で少し言っていた「気山津」の存在もあります。しかし気山津は南北朝時代以降に消えたというので、寛文の江戸時代にはあまり関係ないかな。
「気山津」参考:『福井県史』
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/6a7-01-04-01-02.htm
史跡・古墳として
この恋の松原は、現在「恋の松原古墳」ともよばれています。
その名の通り、古墳でもあるのですね。
伝説内には、「村人は哀れんで墳を築き」という事が書いてあるので、その古墳という事なのでしょうか。
現在は恋の松原古墳の全様はこんな感じです。
石積に囲まれ、その敷地内の一部が盛られています。これが古墳?
『三方郡誌』では、「古墳 気山戀松原の跡にあり。」
と書かれていますし、福井埋蔵文化のホームページにも「恋松原古墳」の記述がありますから、れっきとした古墳のようです。
そして恋の松原古墳にはこんなことも口碑として言い伝えられているようです。
必ず病死又は変死する恐ろしきものにて何人も障らず 引用:『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』 |
こういった伝承も古墳にはよくあるものです。
古い時代の人を弔った場所なので、そういった言い伝えがあるのも必然に思えます。
近代の区画整理
しかし、そんな祟り並みの言い伝えも、近代の区画整理事業には無意味だったようです。
様々な文化財と伝説の地、風景を消滅させた区画整理。
必要な事だとは重々承知ですが、史跡や伝説好きからすると、この区画整理事業は非常に厄介な存在です。
昭和50年の県営圃場整備事業。
この恋の松原古墳もその時消滅しそうになりました。しかし、『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』によると、「区画整理で破壊寸前だったのを、三方町教育委員会の指示で古墳として保存されたと聞く」とあります。
そう、県の区画整理から町が恋の松原を守ったというのです。
すばらしい。本当に素晴らしい。
曖昧な記述ではあり、すべてを信じることができるわけではないですが、これが本当なら三方町のおかげで、恋の松原の伝説に思いをはせることができているということですね。
本気でありがたいです。
ただやはり昔の空撮写真を見ると、元の恋の松原古墳全体からは、かなり規模が縮小されているように見えます。
昔の空撮を見ると、恋の松原らしきものはもっと大きかったのかもしれません。
空撮では近くに昔の海岸線らしき形も見えます。先ほどの海岸線の松原の話に繋がってきそうです。
現在はこの一部が残されているという状況なのでしょう。
それでも一部でも残っていることに感謝です。
恋の松原の伝説を巡ることができる
古墳史跡として、伝説として、地名として、謡曲として、今までさまざまな形で残ってきた「恋の松原」の伝説。
様々な名前で語り継がれてきた、「恋」の文字。
久々子湖や周辺の環境を伝え、土地の悲哀伝説をも伝え続けるこの恋の松原は、まさに若狭美浜、三方の地、久々子湖、気山の自然民俗伝説歴史を古来より伝え繋いできた、そんな土地です。
不思議な名前には、その裏に多くの可能性と伝承が伝えられています。
個人的にこの恋の松原は、とても推している場所です。
なぜかというと、名前も珍しいことながら、この伝説や謡曲の聖地が近辺に点在しているからです。無くなってしまっている聖地もありますが、目印や名残、地名などが残っているのです。つまり、聖地巡りができるということです。
そんな悲哀伝説に浸れる場所。ぜひ冬に来てもらいたいです。
参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
『三方郡誌』
『わかさ美浜町誌』
『わかさ美浜ふるさとの散歩 美浜文化叢書2』
『ふるさとの歴史と民俗 美浜文化叢書3』
『列聖全集. 御撰集 2(八雲御抄 巻第5)』
現地説明板
基本情報(アクセス、最寄り駅)
最寄り駅は、JR小浜線気山駅から徒歩10分。
自動車では、若狭三方ICから車で3分。
駐車場はありません。
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