福井県旧宮崎村、越前町蚊谷寺。読み方は「かだんじ」と読みます。ここはかつて朝倉義景とも縁の深かったとされる場所のようです。ただし武田という苗字にも因縁を感じる場所です。
今回はそんな蚊谷寺の言い伝えや歴史、地名・名前についてみていこうと思います。
地理
蚊谷寺は宮崎村の中でも特に山の奥にある集落です。
アクセスは江波からが良く、地名に「谷」が入っているだけあって本当に谷にあります。
蚊谷寺は広野という集落とつながっており、福井県で有名な宮崎たけのこは主にこの2集落で収穫されているといいます。私が取材した季節はまさに収穫直前の時期でした。当時私を案内してくださった方が次の週にはたけのこ収穫のテレビの取材を受けておられたほどです。
田園の中に鳥居の立っているのどかな集落です。
蚊谷寺という名前について
蚊谷寺という名前について、『宮崎村誌』にその一つの説が書かれています。昔は「香谷寺」と書いていたとされ、理由としては良い香りのする木が生えていたからなのだといいます。「蚊谷寺」とかくようになったのは蚊が多いからなのだという字のままの意味でした。
ただし同じく『宮崎村誌』によると、剱神社文書享禄元年(1528)の中に「加谷神田」と書かれており、「加谷」と言われていたことがあり、それが中世(天正四年「剱大明神末社領田畠山林指出」)になって「加谷村」になり、近世の1646年の正保郷帳に「蚊谷村」と書かれているようです。
蚊谷寺の菩提の伝説
蚊谷寺
「蚊谷寺」と書いて「かだん」と読んでいます。いつのまに寺(じ)というのを落としたのでしょうか。しかしこの村もなかなか古い感じがしなにか伝説がありそうです。
では、蚊谷寺という名のお寺があったのでしょうか。そこで役場のちせきずを開いて見ます。
ちせきずというのはかだんの中でのいろいろなところの名前が書いてある図面です。
するとあるある。てらという所がある。ぼだいという所がある。てらというのはお寺があった所だろうか。またぼだいという所は、はかばだった所ではないかと考えました。
そこで私はかだんへ行ってたずねてみたらてらやしきという所もあり、だいもんとかちゃやという所もありました。そしてかだんにある武田さんの竹やぶに入っておどろきました。そこには昔のごりんのとうがごろごろころがって小さい山のようにつんであったのです。
さて、私はかだんの話を書き、昔のおはかの写真も見せなにか昔の話がありそうだと思い、村の人々に聞いてまわりました。
するとありました。
ある人からこんなことを話していただきました。
「死んだおじいさんが、私にけっしてうらの山で小便をしてはいけませんと言っていたのです。」
それでふしぎに思っておじいさんにたずねました。
するとおじいさんが次のように話してくれました。
私が若いころ手がいたくなりました。
なんとかしてなおしたいと思ってお医者さまにみてもらいました。しかし、なおりません。
あちらのお医者さまこちらのお医者さまといろいろみてもらいました。しかしなおりません。
しかたなくはっけみにみてもらいました。はっけみというのはお医者さまでもわからないときにきくうらないの人です。
はっけみは
「うらの山をほりなさい。」と言いました。
それでほってみたらおはかが出てきたのです。ああ私はうらの山で、小便したのが地面の中のおはかにかかりけがれてばちがあたったのだとわかりました。
それでおはかをきれいにあらってあげたら手のいたいのがいっぺんになおりました。
引用:『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』
この言い伝えの中で「いつのまに寺(じ)というのを落としたのでしょうか。」とありますが、先に見た名前についての中で、元々が「寺」が入っていない「加谷村」や「蚊谷村」という表記だったため不思議なことではなかったようです。
さて、この取材をされた方も「武田さんの竹やぶ」と言っている通り、おそらくここは私有地ですので勝手に入ってはいけません。
そんな竹やぶにある墓。見てみたいものです。小便をすると祟られる。確かによくある言い伝えではあります。
ただ私は一個人の調査なので私有地の物まで見せていただくことはできないだろうと思っていましたが、ありがたいことに山へ案内していただきその実物を見せていただくことが出来ました。許可も得ているのでここに載せたいと思います。
寺と菩提と墓について
菩提や寺があるのは山です。平地部分ではありません。
地元の方にお話を伺うつもりで話しかけたところ、「じゃあ見に行く?」という感じになり、山へ案内していただきました。
本当にありがとうございます。
これが菩提の墓です。
案内してくださった方は
「昔、蚊谷寺というお寺があったが、織田信長に焼かれてしまったらしい。本当かどうかはわからないし、それくらいしか知らない。それ自体も口伝えでしか残っていなく、資料はない。蚊谷寺内にあった資料は、江戸から明治あたりに起きた村の火事で焼けてしまった。」
とのことでした。
『宮崎村誌』では、かつてここには「おんもん寺」という真言宗の寺があったとされています。
おんもん寺
蚊谷寺には昔、おんもん寺という真言宗の寺があって、朝倉氏の菩提寺で、朝倉義景は年二回ここを訪れていたという。天正三年(1575)の信長の兵火によってこの寺は焼かれ、仏像九体を八幡神社に移したと伝えられている。
現在おんもん寺跡は田になっており、五輪塔五基がある。入口のところの地籍を菩提(15字)といい、菩提坊主が米をつく音を聞くと、近親の者が死ぬといわれている。
当時の寺屋敷は現在田になり地籍を寺(14字)といい、それに引つづいて池の跡があり、寺が焼かれたときつり鐘をここに沈めたという。
この池の跡は地盛りして何回も田にしたが、いつも畔がこわれてしまうので、畑のままにしてあるという。
引用:『宮崎村誌 別巻』
私たちがよく目にするとうな五輪塔の形ではないにしても、これは五輪塔のようです。
現地周辺に田はなく、グーグルアースで見ても寺のところは山林になっており、今は田はなくなっているのかもしれません。この『宮崎村誌』記述に添えられた写真はほぼ間違いなく私が見たものと同じなので五輪塔の位置が少しわかりずらくなっています。それともさらに奥にもまだあるのでしょうか。それはもうわかりません。
歩いてきた道をよく見ると、そのあたりにある石も石塔の一部であることが分かりました。上写真の竹の根元にある石なんかは完全に五輪塔の一部です。
さて、朝倉氏の菩提寺であったということですが、案内していただいた方に聞いたところ「わからない」とのことでした。やはり地元の方にはそれほど伝わっていない伝承なのかもしれません。
その他にも昔「七ヵ寺」という寺があったそうですが、今ではその詳細もわかりません。
朝倉の菩提に武田家
さて、この蚊谷寺にあった寺。『宮崎村誌』に書いてあった通り、朝倉氏の菩提寺であったとされています。
この宮崎の地に朝倉と関係が?と現地の人も不思議そうでした。
ただ注目したいのはそこだけではありません。『宮崎村誌』調査当時、蚊谷寺に11軒あるうちの外国の方を除く10軒すべてが「武田」という苗字なのです。
武田と朝倉これにどのような関係があるのか。結びつけるものは2つあります。
1つは、朝倉義景の母、高徳院。朝倉義景の母は若狭武田氏から朝倉へ嫁いだ人物です。
実はこの結びつきは地元宮崎地区のとある方からヒントをいただきまして気づきました。
その方曰く、蚊谷寺の寺は朝倉義景の母の菩提寺でもあるという伝承もあるとのことで、つまり、朝倉義景が年二回通っていたというのもそういうことであり、蚊谷寺にこれほど武田家があるのもそこに関連しているのではないかと思われます。
※これは歴史の話となりますので、史実とは難しいものであまり得意としていません。
若狭武田氏9代、武田元明は幼少期に越前朝倉氏に保護とも人質ともとれるような状態で一乗谷にいたといいます。理由としては若狭の統治にいざこざがあったとき、朝倉義景の母がいて縁戚関係となっていたため朝倉氏を頼った際に保護されたのだそうです。
その時に、この宮崎村の朝倉氏の菩提寺に縁があり武田家が集まって来たのか、繁栄したのか。
朝倉義景の母の菩提寺であったとすればそれは十分にあり得る話です。
2つは、相木家の件。
宮崎村には相木家というグーグルマップにも載る邸宅があります。その相木家が越前朝倉氏の一族で一時、天文の時代に甲斐武田氏に仕えたことがあったようです。ただその後勝頼の時代に甲斐武田氏が終わり、再び故郷越前を頼って戻り、現在地に住み庄屋を営んできたのだといいます。
宮崎村・朝倉・武田というのでこの可能性も少しはあるかなと思いましたが、若狭武田出身の義景の母の説明にはならないので、やはり宮崎地区のとある方からヒントをもらった説が濃厚なのでしょう。
しかしここまで、武田と朝倉と宮崎村が密接に関係しているとは思いませんでした。
そんな歴史も感じさる伝承です。
八幡神社
ちらっとでてきましたが、八幡神社は蚊谷寺にあった寺の仏像を移転させたという言い伝えがある、今に伝わる「寺の名残」の一つと言えるでしょう。
祭神:誉田別尊
広野と蚊谷寺の共通の氏神です。元々例祭は九月二十日、二十一日でしたが、加谷村に統一したときに十月十日、十一日になったといいます。
鳥居の八幡宮と書かれた横には「天明八年」の文字が刻まれています。
社殿も古く味を出しています。
氏神の共有は蚊谷寺と広野の村の統合の歴史があるからであるとされています。
八幡神社内に今も仏像が祀られているかはわかりません。
末社には青葉祭りで有名な疱瘡の神を祀る小祠があるといいます。
それがこの境内社。
ほうそうの神
蚊谷寺・広野の氏神は八幡神社で祭神は誉田別尊であるが、この氏神の境内に、一方間ぐらいの小祠がある。ここは薬師如来をお祀りしていて、昔から疱瘡にかかるとここにお参りをして治癒を願ったものである。ここのお祭りは四月二十五日で、青葉祭りと言って有名である。
(中略)
同じ日、境内の集落センターで筍祭りをも行っている。
引用:『宮崎村誌 別巻』
少なくとも、この歴史のある蚊谷寺と広野の集落で古くから受け継がれる信仰は今も残っているといえます。
終わりに
歴史とは難しいものです。
ただし、どんな伝承や旧跡史跡にもやはりその村や地域の歴史があります。
今回の菩提の墓もそんな歴史から生まれ、現代まで言い伝えられる伝承となり、更にその菩提はロマンを感じさせる歴史や武将を取り巻いた話に発展していきました。
結論は出ませんがそれもまた良いでしょう。というよりかはそんなことばかりです。
これを見た皆さんがより深く考察し様々な仮説を立てることも楽しみの一つになります。
参考文献
『宮崎村誌 別巻』
『ふるさと探訪宮崎村 こどものむかしばなし』
協力
蚊谷寺の方
宮崎地区の地元の方
基本情報
菩提の場所は私有地ですので八幡神社を示します。
自動車 | 鯖江ICから24分 |
駐車場 | 八幡神社境内 |
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