福井県若狭の地に陰陽師安倍晴明の墓という五輪塔があります。
なぜここにあるのか、そしてどのような伝説が伝わるのか、現地の様子を見ながら見ていきます。
ちなみにこの安倍晴明の墓は気軽に行ける所ではない場所にあります。
どこにあるのか、どんな場所か
今回の安倍晴明の墓があるのは、福井県若狭町鳥羽地区の無悪という部落です。
無悪とは「さかなし」と読みます。変わった名前ですが、由来についてはこちらの記事を見ていただければよろしいかと思います。
この無悪には、小野篁の墓もあるので、併せて確認いただければと思います。
ただ、安倍晴明の墓の方は無悪区の埋葬地にあるのです。
埋葬地(サンマイ)、つまりは亡き人を土葬した土地にあるのです。
ここで「それは行けない・・・」と思った方もいるでしょう。
なので私が探して写真撮って来ました。
無悪の両墓制
この無悪はかつて「両墓制」という参り墓と埋め墓の2つの墓で構成された墓制となっていました。
ちなみに私たちがいま基本としているのは火葬後に石塔墓にお骨を入れ、そこへお参りする方式です。ただし、この火葬の場合は「単墓制」とはいわないそうです。
安倍晴明の墓はその「土葬両墓制」のうちの埋め墓にありますが、場所がわからず。ただお墓の奥にあるという事でしたので、まずは参り墓(石塔墓)の方に向かうとします。
無悪集落の北西、安楽寺の西側の道路から六地蔵のある階段を上って、両墓制の石塔墓の方に行くことができます。
やはり墓の入り口には六地蔵が祀られているのですね。
ここから先ほど紹介した、小野篁ゆかりの寺「安楽寺」へ入ることもできます。
こちらが無悪の石塔墓(参り墓)です。
この石塔墓は安楽寺境内にあります。丘の上です。
それで、当時安倍晴明の墓がどこにあるのかわからず、この石塔墓の奥にあるのかと思い、一番奥まで進んでみると
え?となりました。
いや、あれなのです。見つけられたことは良かったのですが、あれどうやって行くんだ・・・?と。
少なからずこの場所からはいけません。
さっきの墓の入り口前の大きい道路から別の入り口があるのかと思い集落西の道路へ戻ることにしました。
サンマイ(埋葬地)へ
さて、私は壮大な勘違いをしていたようです。
道路に面した石塔墓への階段の前にある六地蔵。
これは石塔墓の六地蔵と思っていました。でも違いました。
この六地蔵の石塔墓階段とは反対側に森へ通じる道が・・・
これは、六地蔵の前の舗装していない道を通って行く埋葬地への道。埋葬地の六地蔵だったのです。
いや、この六地蔵の前が両墓制の墓の分岐点となっており、両方の意味があるのかもしれません。
ぱっと見分からなかったです。
何にせよこの先に埋葬地があり、そこに安倍晴明の墓があるようです。
草は茂り、木が覆い、枝が垂れ、葉が落ち、虫が這い、そして彼岸花が1つ2つ咲いています。
薄暗い。この先はあの世とこの世を隔てるトンネルか・・・。
まさかここまで雰囲気のある場所だとは・・・。
とは言いつつ、一番は虫に怯えながら先に進みました。すると、
草木茂る中にシーンと広く空いた土地が現れました。
ここが埋葬地、サンマイです。
その真ん中には石塔が建っています。あれが安倍晴明の墓かな。
その他いくつか人為的と思われる石があります。右端と左端です。献花台か棺台?
この埋葬地は、無悪と隣の三生野部落の共同墓地だそうで、『新わかさ探訪』によると昭和60年代まで土葬がなされていたのだといいます。
そう、少なくとも37年前(現在2022年)までここでは土葬が行われていたという事です。
・・・、なるほど。
そんなつい最近まで土葬されていた埋葬地のど真ん中にある石塔墓。近づいてみましょう。
安倍晴明の墓と伝説
石造物 安倍晴明の墓(五輪塔) 若狭町指定。
草が伸びてすぐ近くまでは行けず、草で土台が見えませんが、なんとも立派なものです。
でもちゃんと標柱が立っており、何の石塔かわかるようになっています。
ということは、普通に人がここに立ち入って見に来ることを想定しているという事ですね。
『新わかさ探訪』によると、この五輪塔は陰陽師が祖師として安倍晴明を祀った各地の塚と同様に後世のものか。安倍晴明より300年後の鎌倉時代の形式の石塔だという事です。
『上中町郷土史』では、花崗岩の高さ約五尺で、下から二番目の丸石の正面に梵字らしきもの以外文字は書かれていない。とのこと。
のちの時代につくられた石塔のようですね。
特に石塔には由緒などは書かれていないと。丸石は草が生えていて見えない・・・。いずれにしても古い物であることには変わりないです。
では、なぜここにあるのでしょうか。
各郷土史に書かれている伝説を見ていきます。
当寺(安楽寺)の裏手の埋葬地には安倍晴明の祈塚なるものあり伝説によれば当地に晴明を招聘し埋地に小石なきを祈念せしものなりと
引用:『鳥羽村誌』
伝説によれば当地(無悪)に晴明を招聘し、埋葬地には石無きを祈念せしという。
引用:『上中町郷土史』
昔、埋葬地を決めるとき、地中に岩盤や大きな石がない所を占ってもらい、選ばれた場所が9尺(約3m)掘っても石一つ出て来ない最適の地だったことから、供養塔として五輪塔が建てられたとのことです。それが今日まで安倍晴明の墓と言い伝えられてきました。
引用:『新わかさ探訪』
上2つの史と新わかさ探訪では少々ニュアンスが違うように思えます。
- 『鳥羽村誌』『上中町郷土史』では、「埋葬地にする場所に石がないことを祈念した」
- 『新わかさ探訪』では、「石のない所を占って、選ばれた場所を埋葬地とした」
という感じで違うように見えますね。
まあでもそれほど大きな違いではありません。というよりほとんど一緒です。
つまり、ここに安倍晴明の墓がある理由は、この無悪に埋葬地ができる時代まで遡り、安倍晴明が土地を祈念して埋葬地としたということに由来するという事です。
ずっとこの場所が何百年も前から土葬地として葬られ続けていた土地なのですね。
葬送の地が民俗文化にとってどれほど重要か。この石塔が語ってくれます。特に死者を重んじる、というか信仰に近いものがある若狭の方の文化です。埋葬地を祈念してくれた安倍晴明へのこの上ない感謝の形なのでしょう。
安倍晴明の墓の前には大きな石があります。人為的におかれたものと思います。台のようにも見えますし、何かを供えるものでしょうか。それとも棺を置くためのもの?
ただ安倍晴明について『上中町郷土史』には、
「若狭に関係せる記事なし、但支那よりの帰路若狭湾に上陸したことも一応は想像される」
と書かれており、今ある書物には若狭との関係は明記されていないようですね。
だとしてもこうして地方に言い伝えとして残っているというのは、価値のあることだと私は思います。
あと、無悪以外にもこの若狭には安倍晴明が実際に訪れたという伝説があります。
山内と南の共同墓地の地蔵菩薩を安倍晴明が彫ったのだと言います。
若狭には1つのみならず2つも安倍晴明が実際に来ていたという伝説があるのです。
そして若狭町以外にも安倍晴明が埋葬地を占ったという伝説があります。
本当に安倍晴明が来ていたのかもしれないと思わせてくれます。
それと信じる心です。ずっとそう言い伝えられ続けていたのですから。
無悪にとっての「晴明の墓」
私が訪れた際、安楽寺の方にお寺の管理者の方か集落の方かわかりませんがお寺の事務所の方に来ていましたので、小野篁の墓の話であいさつしたところ
「サンマイのお墓も撮ってくれたか?」
そう言われました。
そのことでもお話ししましたが、なんとなくですが、部落にとってご自慢の遺産なんだろうなと思いました。
そもそもサンマイの地を私のような部外者の者に踏ませるなんて嫌なんじゃないかとか、よそ者が部落の墓地に、しかも土葬地に足を踏み入れるのは良い目では見られないのではないかとか思いながら訪れていました。しかしその方とほんの少しですが言葉を交わしていると、全くそんな様子がなく、むしろ「見ていって」「撮っていって」とすごいウェルカムな感じなのです。
だってサンマイですよ。土葬地ですよ。
私はとてもありがたい気持ちになったのです。
小野篁もそうでしたが、安倍晴明の方も、この無悪の方たちは感謝し、墓を守ってきたのでしょう。そして、その墓と歴史自体が無悪の誇り。
どれだけ時間が過ぎても、その気持ちはこのような素晴らしい遺産を残し続け、私のような外の人間をも受け入れられるほど、心豊かになっていくのでしょう。
まさに無悪。悪の無い村へと。
参考文献
『新わかさ探訪』
『上中町郷土史』
『鳥羽村誌』
アクセス
最寄り駅は、JR小浜線大鳥羽駅から徒歩33分。
自動車では若狭上中ICから3分。
駐車場は、よくわかりませんでしたが、お寺の敷地内(坂を上ったところ)にスペースがあります。
同じ無悪内に歴史の重要な遺産「条里制当時の起点石」が残されています。
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