福井県越前市味真野地区池泉の一角に、味真野神社という神社があります。
この味真野神社は、味真野の地で様々な変革を受けて、歴史を刻んできた重要な神社です。そしてこの神社のある地もまた、重要な旧跡とされています。
また、この名前からは御祭神が想像できないと思いますので、そこも見て行こうと思います。
今回はそんな味真野神社を見て行き、継体天皇との関係や歴史を探っていきます。
どんな場所なのか
味真野神社は、越前市池泉にあります。
隣には観光地として名を馳せ、多くの幅広い年代が訪れる万葉の里があります。しかし、この味真野神社へ訪れる人は私の訪問当時はいませんでした。
確かに華やかで広場もある万葉の里からすると、木が茂って渋い印象を与える味真野神社は少し近寄りがたく見えてしまうかもしれません。
味真野神社のご祭神
ではまず、気になる御祭神を見て行きましょう。
出典は『今立郡神社誌』です。
祭神
大国主神、佐々宣王、愛鬘命(勝手大明神)、建御名方命、大己貴命、事代主命、伊弉册尊、応神天皇、菅原道真公、天照大神、継体天皇
参考:『今立郡神社誌』
こんなにも多くの祭神がいます。
つまりはそれだけの変革を辿ってきた神社なのです。
御祭神と神社の名前から見る歴史由緒
社殿は囲いがされていますが、その中には時代を感じさせる姿があり、「味真野神社」と書かれた社標が、電球によって照らされています。
この味真野神社は元々、この地にはありませんでした。
では、どのようにして現在の祭神になり、神社の名前になったのでしょう。これから『今立郡神社誌(1919年発刊)』を見て、その歴史を辿っていきます。
味真野神社の元、「須波阿須疑神社」時代
元は「須波阿須疑神社」と言われ五分市3字にありました。この神社は祭神3柱を3社で分けて祀っていたとされ、それぞれ
・「本宮が五分市3字池田道」
・「上の宮が池泉4字諏訪上割の諏訪神社」
・「下の宮が五分市11字の諏訪神社」
とされています。
今の毫摂寺のある前あたりに本宮があったということでしょうか。それが味真野神社の前身だということです。
この時点で祭神は書かれていません。最初の3柱はどの神なのか。諏訪があるということは、「建御名方命」はそのうちの1柱には入っていそうです。
では、神社の歴史を再び見て行きながら、最初の3柱を辿っていきましょう。
改称と最初の合祀
いつの頃からか、別に「総社」また「伊弉冊神社」呼ばれるようになり、明治12年に総社神社と改称したといいます。
まだこの時点では、他の神社と合祀したという記述がないため、「伊弉冊」という名前が出てきたなら、この伊弉冊も最初の3柱の1つ可能性がありますね。
さあ、ここからついに合祀が始まります。
明治40年五分市野々宮神社が合祀されます。ここは継体天皇第4妃の麻績娘子(おみのいらつめ)の子である佐々宣姫と父である継体天皇を祀った神社であるといいます。
味真野神社祭神の「佐々宣王」とはこのことでしょうか。併せて継体天皇もこの時合祀されたのでしょう。
そしてこの年のすぐあと、大量の神社が合祀されることになります。
大量合祀と鎮座地の移動
この大量合祀は神社名まで書いていると訳が分からなくなるので、地区と祭神だけ書きます。
明治41年に合祀の柱下記。
余川の愛鬘命(勝手大明神)、池泉の建御名方命・大己貴命・事代主命、大坪の伊弉冊(同区で2神)、余川の菅原道真公、境谷の天照大神、池泉の応神天皇、大坪の天照大神、余川の応神天皇。
この年(明治41年)の合祀と共に、「総社神社」から「味真野神社」と改称して五分市から今の地に移りました。
一気にきました。この大量合祀の時に改称、移動したのです。
同じ時期に、おおい町名田庄村納田終の加茂神社でも合祀がされています。
明治39年にあった国の神社合祀政策の影響がこの地に来たのが、明治41年だったのでしょうか。
最初の3柱の御祭神と味真野神社の名前の成り立ち考察
これだけ出そろえば、最初の祭神3柱を出せるのではないかと思いましたが、現在10柱の内、合祀で名前が載っているのは9柱もありました。
唯一合祀で名が無かったのは「大国主命」、合祀の中に「池泉の建御名方命・大己貴命・事代主命」とあり、これらは諏訪神社の祭神ということなので、例の上の宮の諏訪神社かとも思いました。であれば、この3柱が元なのか。
大己貴命は大国主命と同一ともいわれるので、合祀で名が無かった大国主命をそれに数え、建御名方命も入っているので、なかなか納得のいく形にはなりそうです。
そして「味真野神社」の名前の由来は、明治41年に多くの神社を合祀したため、どの神社の名前にすることもできず、味真野の郷の神社を一気に合祀したので「味真野神社」となったわけですね。
ただ伊弉冊に関して、なぜ合祀前に別称で呼ばれ出したのかの謎はあるままです・・・。
大体は気になるところは分かったと、思いたいです・・・。
ではなぜ、味真野神社は他の地ではなく、現在の地に移動してきたのでしょうか。
これから、その理由もこのあと探ってみたいと思います。
継体天皇の旧跡「味真野」
味真野の地理と範囲
当記事で取り上げる「味真野神社」という名前にもなっている「味真野」という土地。
昔の「味真野」は、今よりもかなり広い範囲を示していたようです。
南は日野山の麓、北は男大迹部の境、西は真柄西尾新宮、東は五箇庄(大滝、岩本、定本、新在家、不老)まですべてが皇居の範囲とされ、「味真野の郷」とされていたようです。
参考:『男大迹部志』『今立郡誌』『味真野郷土史と乃公懐古録』
かなり広い範囲だったようです。
味真野自体が継体天皇の旧跡だったわけですね。
では、この「味真野」という地名の由来も気になってきます。
「味真野」という地名の由来
まずこの「味真野」という地名についてみて行きたいと思います。
まあ、何とも不思議な字を書きます。昔は違った字を書いたのでしょうか。
各郷土史によると、以下の文字が見えます。
- 万葉・・・安治麻野『男大迹部志』
- 和名抄・・・阿知末野『男大迹部志』
- 帰雁記・・・あらま野『今立郡誌』
いろいろ違う字や読み方が使われていたようです。
ただ、『味真野郷土史と乃公懐古録』には「味真野」の由来の可能性が書かれています。
この扇状地は厚い砂礫層に覆われ山地に降った雨水は扇の先端部で豊富な湧水として30ヶ所以上の広い範囲で清水となって湧き出る特異な土地であり、味真野(あじまの)の語源となっている。 引用『味真野郷土史と乃公懐古録』 |
つまりはどういうことなのでしょう。水が豊富だから味真野?
確かに水がいいところはおいしいものが多いですが、「味」はその味なのでしょうか。でも、昔の漢字では「味」は関係なさそうですが。やはりよくわからないですね。
ただ、このような語源の説もあるということです。
この継体天皇の旧跡である「味真野の郷」の中でも特に神聖視されたのが、味真野神社の建っている場所でもある「鞍谷御所」です。
鞍谷御所
継体天皇御所跡と斯波義俊居住跡
味真野神社の鳥居前には「鞍谷御所」や「継体天皇御宮跡」に関する石碑や説明がいくつかあります。地域としてもかなり推している史跡のようですね。
この鞍谷御所は、1486年に一乗谷から移住してきたという斯波義俊の居住跡と言われています。東西90間、南北60間の土塁で囲まれた邸宅が2か所隣接している構造になっているようです。その四分の一が今現存している土塁とされています。
参考『味真野郷土史と乃公懐古録』
それがこれです。
県道201号線沿い、味真野神社鳥居前を横切る道に土塁と堀が見て取れます。その上にはカエデの木が植えてあるので、秋の紅葉はきれいだと思われます。
こうもはっきりと、御所だったころの面影が残っているのは、なかなか見ごたえがあるのではないでしょうか。
そしてここは、継体天皇の皇子時代、男大迹王の宮居「活井袛(いくいずみ)御所跡」ともいわれていて、妃の目子媛をいれていた場所とされています。
その御所一帯は、この地域の人は「お神荘」という聖域としていたようです。
里の聖地「お神荘(おしんぞ)」
お神荘とは、いかにも聖地らしい呼び名です。
1909年発刊の『今立郡誌』では、「今も農業のものも立ち入らず、牛馬も放さない」としています。
味真野神社境内写真です。広い平地に杉が立ち並んでいます。向こう側には土塁が見え、この辺りが御所の内側だったのでしょう。神聖とされていた「お神荘」もこの辺りなのでしょうか。
おそらく、まだ味真野神社がこの地に来る前から「お神荘」と言われているのでしょう。この地はそれほど、元が神聖な地だったのですね。
そんな神聖な地なら、この近隣の神社を多く合祀した重要な味真野神社が置かれるようになっても不思議ではありません。
なぜこの場所に味真野神社が置かれたのかということになったら、元々が神聖な地だったからという意味があったのかもしれませんね。
「花筐発祥の地」について
見えずらいですが、真ん中の石碑には『謡曲花筐発祥之地』と彫られており、左の白い説明板と、右のもう一つの石碑には『花筐』の説明が書かれています。
なぜこの地が花筐発祥の地なのか。
どうやらこの味真野の地を継体天皇ゆかりの地にしたのが、能『花筐』だということなのだそうです。
能『花筐』とは、鎌倉時代の世阿弥の作品で、内容は「継体天皇と継体天皇を想うあまり狂女となってしまった照日の前の物語」です。
この記事では長くなるので、別の粟田部にある花筐公園の記事で、詳しく説明しています。(こちらの「花筐公園」も継体天皇に関わりの深い名所がたくさん残っています。)
また、美人画の巨匠上村松園も描いた題材でもあります。狂女となった照日の前の絵を描いています。
で、この花筐に出てくるメインキャラクター「照日の前」という女性が味真野に住んでいるということになっています。そして前項目でもあった通り、この味真野は継体天皇の御所でもあったといわれており、まさにこの地が『花筐』の物語の始まりの地だったというわけですね。
継体天皇宮居と祭神の現実
この記事で多くを見て来て、継体天皇関係の話がたくさん出てきました。
祭神だったり、継体天皇の御所だったり、謡曲中で照日の前の住んでいたとされる場所だったり、味真野自体が継体天皇の旧跡とされていたり。その他、味真野の郷内で伝説を探せばもっと継体天皇の伝説があちこちにあるでしょう。
しかし、先ほども何回か出てきた、味真野地区発の『味真野郷土史と乃公懐古録』に気になることが書かれていたのです。
男大迹王が宮居した史実はなく、明治41年(1908)1月に近隣の諸神社11社を合祀した時、男大迹王(継体天皇)は初めて当社の祭神に加えられた。それまで鞍谷御所跡にあった御所八幡神社(祭神応神天皇)を始め、近隣に継体天皇を主神と祀る神社はなかった。 引用『味真野郷土史と乃公懐古録』 |
何とも正直に書かれています。
継体天皇自体が謎な存在ではありますから、史実として曖昧になるのは仕方ないことなのかなとも思います。
しかし、世阿弥の『花筐』は室町時代にできていますし、その中に「味真野に住んでいた」とも書いていれば、個人的な意見ですが、世阿弥も全く縁もゆかりもない場所を継体天皇と照日の前の居住地とするわけもないでしょうし、1300年間何もなかったというわけではないと思います。
伝説、歴史、時代の変革を辿ってきた「聖地」の姿
伝説の古代から継体天皇によって動き出した味真野の時代が、世阿弥の『花筐』で一大有名となり、また御所は斯波家などの武将の居住地となり、現在はその土塁を残して味真野神社となっています。
「味真野の郷」の象徴であり聖地である「お神荘」のある土地は、「味真野神社」として里の名前を掲げ、里の人にとっての神聖な土地は、時代が変わっても、神社として里の聖地の姿を伝えています。
参考文献:『今立郡神社誌』『味真野郷土史と乃公懐古録』『男大迹部志』『今立郡誌』『ふるさと味真野』
基本情報(バス、駐車場、アクセス)
最寄り駅バス停は、武生駅からバスに乗り換え、味真野バス停、又はフリー乗降という形で味真野神社前で降りられるようです。詳しくは福井鉄道株式会社公式のバスのページへ。
福井鉄道株式会社公式HP:https://fukutetsu.jp/
自動車では、武生ICから自動車で5分。
駐車場は万葉の里の駐車場を使います。神社は駐車場から徒歩2分です。
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